日はすっかり暮れて、王城の窓にはぽつぽつと灯りがともり始めていた。
城の一角、与えられた小部屋の窓辺で、クレア――クレマンティーヌはぼんやりと外を眺めていた。
暮れかけの空を背に、王都の家々にひとつ、またひとつと灯りがともっていく。
人の営みが灯りに変換されてゆったりと明滅する。
この王国では、灯りのついた窓も、灯りの消えた窓も、貴族たちの心持ちひとつで簡単に移ろってしまう。
そんなことを考えていると、控えめなノックが響いた。
「クレア様。ルミィでございます」
「どうぞ」
扉を開けた侍女は、いつものようにきちんとした所作で一礼する。
「殿下がお呼びです。“お時間のある折に”とのことでしたが……今くらいがちょうどよろしいかとおっしゃっておりました」
「はいはい。どうせ暇ですよ。姫様にはペットの生活はお見通しってことでしょ」
「ふふ、殿下は従順なペットをちゃんと愛してくださる御方ですよ」
ルミィが小さく笑う。
クレアは肩をすくめて立ち上がった。
扉を閉める直前、窓の外をもう一度だけ見る。
さっきよりも灯りの数が増えている。
誰かが帰ってきて、誰かがまだ帰ってこない。
そんな当たり前の営みが、なぜか妙に不安定に見えた。
*
「ありがとう、ルミィ。――いらっしゃい、クレア」
「お疲れ様です、ラナー第三王女殿下様!」
クレアの慇懃無礼な態度に特別反応もせずラナーは微笑む。
ラナーの私室は、いつものように柔らかな灯りに満ちていた。
机の上には書類の山と、王都の地図と、いくつもの印が打たれた羊皮紙。
クレアは定位置になりつつある椅子に腰を下ろし、出された茶杯を受け取った。
「今日のご報告をお聞かせください」
クレアは茶を一口含み、喉を湿らせてから、淡々と口を開いた。
救貧教会で見た人の列。
王家と協力貴族の紋章。
雑貨屋でのやり取り。
「路地の雑貨屋が護衛料って名目で、八本指と思しき連中が取り立ててたわ。
暴力も振るわれてたわね、あれが続いたらそのうち潰れるでしょう」
「クライムは?」
「真っ直ぐ止めに入って、真っ直ぐ怒ってたわ。
あんたの忠犬らしいと言えばらしいわね」
ラナーは小さく笑い、扇子で口元を隠した。
「護衛料ですか。……まだ、王都全体を箱庭にするにはほど遠いですわね」
「わざと残してるんじゃないかと思ったけど?」
「全部を一度に片付けてしまうのは、賢いやり方ではないのはそうですね」
今回は意図的ではないですがと言いながら、ラナーは地図のある一点に印を付ける。
クレアには、そこが昼間の雑貨屋のあった通りだと分かった。
「一度に全部切ってしまえば、どこが傷んでいるのか見えませんわ。
少しだけ残しておけば、どの筋から腐っていくか、よく分かります」
クレアは鼻を鳴らしつつ、茶をもう一口飲む。
口の中の渋みが、昼間の埃っぽい空気を少しだけ薄めた。
「救貧教会の方は?」
「“教義”よりも“パン”を優先してた。
信仰だけで腹は膨れないのはまあ、事実よね。
法国では許されないでしょうけど」
「こちらはこの方向で良いのでしょう。法国の教化には抗わねばなりません」
ラナーが楽しそうに頷く。
(……この女の頭の中では、だいぶ先の形まで見えてるんだろうな)
窓の外の灯りを、無意識に数えていた自分を思い出し、
全てがラナーの思惑の中のように感じた。
街の建物の様子、並ぶ店々の種類と質。
他国との比較を尋ねられる。
各国を自身の足で巡ってきたクレマンティーヌの知見は箱庭の姫の視界をよりはっきりとしたものにする。
事細かな報告をひと通り終えたところでラナーは扇子を閉じた。
「今日も、たいへん興味深いお話でしたわ。
ではそろそろ――法国のお話を、聞かせていただいてもよろしいかしら」
(来ると思っていた話だ)
クレアの観察がある程度終わったということだろう。
より踏み込んだ情報を得たとして、それが信用できなければ意味がない。
つまり、一定の信頼は獲得できたとも捉えられるかもしれない。
「あなたが話すべきだと思うことを話してくだされば良いのです。
法国はやはり、外からだとなかなか見えづらいので、生の情報はなんであれ嬉しく思います」
クレアは自身の中で情報の重要度を整理する。
今更かもしれないが保身のためには、大事な情報がすべて吸い上げられるのは避けたい。
しかし同時に、何を話してくるか、ということも見られていると感じる。
自身の近くの話よりも大きな話から入るのが良さそうだ。
「……六大神の話からでいい?」
「お願いしますわ」
ラナーの瞳が、ほんの少しだけ色を変える。
獲物の動きを見逃すまいとする観察者の目。
クレアは、言葉を選びながら口を開いた。
「スレイン法国では六大神は人類を導く神々であり、この世界に降り立ち、
人類を守護し、その力の一部を人に与えたと教えられてる。
けれど、法国の上層部のほとんどは過去の神より、次の神に興味があると私は思ってる」
「こちらも信仰よりパンということですか」
「一般的な信徒はもちろん六大神だけを信じてるわよ。
けれど、上層部は次の神の来訪を確実視していると思う。
詳細な時期は知らないけど、その証拠は恐らく、巫女姫で得ていると思う」
ラナーのまつ毛が、わずかに震えた。
「叡者の額冠の儀式では、巫女姫たちの自我を犠牲に魔法を搾り取る。
そうして用いるのは、主に第八位階程度までの情報魔法よ。
“知ること”そのものに特化した、高位の術式。
これを使って法国は、この数百年、他国と比較にならないほどにこの世界の情報を収集してきた」
「巫女姫は百万人に一人適合するかしないかというのはラナーも知ってると思うけど、
法国の人口は大体千五百万人だから、代替わりの隙間はともかく、
開国からほぼ常に居たとしてもおかしくない。
六大神の奇跡として祭り上げるから、信徒の家族は喜んで娘を差し出すしね」
「それは道理ですね」
クレアは自分の手を見下ろす。
一族の栄誉という欺瞞のもとで差し出され、自身の手によって奪われた命に密かに祈りを捧げる。
「冠を外したら、どうなるのでしょう」
「“発狂する”って伝承はある。
本当にそうなのか、“そういうことにしておきたい”のかは分からない。
私は喉を切ってから外したから……」
「なるほど、騒がれても困りますからね」
ラナーは静かに頷き、クレアに続きを促す。
「盗み見た禁書には、六大神は外から来た者たちだと記されていた。
"ぷれいやー"と名付けられていたと思う」
「ぷれいやー……外から、ですか」
「法国の神学者たちは、神たちの言葉では『祈る者』を意味してるって言っていた。
機密にも関わらず、こっちが興味を示したら、
『きっと人類の繁栄を祈っているんだろう』
と涙ながらに教えてくれたよ」
「なるほど、その神たちの言葉は何か資料が?」
「あまり残っていないけど、"エィゴ"というらしい。
神々は他にも"ニフォンゴ"とか複数の言語を日常的に組み合わせる、
高度な知性を持っていたと言われてる」
「そうなのですか。きっちりとした言語体系がわかれば解読できるかも知れませんが、
今は難しいかも知れませんね」
「禁書庫にラナーを連れていければ色々分かるんだろけどねぇ。
話を戻すと、六大神たちは、"この世界の理の外側"の者たちであるって記述だった。
言葉が古めかしくて、これが言葉通りなのか、それとも、
理外の実力を持っているって意味なのかははっきりしなかったわ」
「けれども、ここに、巫女姫の話が繋がってくるわけですね」
流石に察しが良い。
「少なくとも私はそう思ってる。
上層部が巫女姫を亜人を殺戮する兵器ではなく、情報を得る道具として使ってることを考えると、
神はまだここには居ないが、いずれ"外から"やってくると確信しているという予想が立つ。
そうでもないと、釣り合いが取れないでしょう」
口にすると、胸の奥で長年澱んでいた感覚が、少しだけ整った形を持つ。
ラナーの瞳が、そこで暗い光を帯びた。
「……わたくしの結論とも符合しますわね」
扇子の先が、ゆっくりと宙を描き、視線が遙か遠くへと飛んでいく。
ラナーは深く考えるとき、時々こういった動きをする。
そして、確かめるように語り出した。
「まず、この世界の話から。わたくしは、この世界の理はあまりに不自然に思っています」
「幼い頃から、色々な事象を数字として捉えて観察をしてきました。
例えば……クレアは知っていますか? 人の感じる痛みは、
傷の酷さに合わせて直線のように大きくなるのではなく、
傷が酷くなるにつれて
これを確かめるために、犯罪者を幾人か有効利用させてもらったことがあります。
クレアに取ってもらっている問診票もこういった実験の一貫です」
人の感覚のような曖昧なものにも数字の法則があるのだとラナーは言いたいらしい。
「……」
「もう少し、クレアに通りの良い例を挙げましょうか。
通常、何か現象を起こすときにはそれに応じた、同じくらいの"力”が必要です。
わかりやすい例ならば、ある速さの玉が止まっている玉に衝突したとき、
ぶつかった玉が止まり、止まっていた玉が転がり出したとする、
その転がる速さはおおよそ最初の速さと同じになります。
高いところからものが転がり落ちるなども同じ理屈で説明できますね。
高さが持つ力が速さへと交換されるのです。
つまり、"力"の大きさと向きで大抵の現象は説明できる。
私はこういった世の理を示す数多の法則を探してきました」
クレアは大きな驚きを感じながらも、自身の経験から違和感をすぐに見つけ出す。
「……その理屈だと武技がおかしいってこと?」
「わたくしの理解ではそうなります。
この世界は、ほとんどのことがこういった
わたくしには、これがひどく恐ろしく感じられます」
戦闘技能を持たない、あまりに脆弱な存在であるからというのもあるでしょうが……と嘆息し、続ける。
「幼い頃は自身の願いを叶えるため、力を手に入れることも考えましたが、
どうやらそういった才能はあまり無いようでした。
ですので、王城や王都を箱庭のように制御できないか?と行った方向に方針を変え、
それをなす努力していたのです。
しかし、そういった
「わたくしのいる、この世界は何か意図を持って不自然に歪められたのではないかと」
「つまり、この世界は大きな箱庭であり、そんな中で箱庭を作って喜ぶ、
わたくしはひどく矮小な存在なのではないかという不安が……」
クレアはもはや言葉も出ない。
同じ外側について確信に至るにしても、こうも理屈が違うとは。
言っていることの全ては理解は出来ないが、戦いを生業に生きてきた者として納得できるところもある。
いくら自分に才があろうと、十にも満たない少女に大人の兵士が蹂躙されるのは
屈強な筋肉に覆われた身体が実現する力と幼くひ弱に見える身体が実現する力が印象と一致しない。
しかし、どうしようもない。
これがこの世界の理であるのだから。
ラナーは再び話し出す。
「あなたが思うように、この世界はこうなっています。
それは仕方ないのです。
そして、わたくしたちは、この世界の中で願いを叶えて生きていくしかないし、
わたくし自身、それで良いと思っております」
「……」
「それらを踏まえた上で、来訪者に備えたいのです。
来訪者は恐らく、箱庭の創造者のような万能な神ではありません。
過去に六大神に準ずるような、不自然な部分を生み出してきた者たちの痕跡はありますが、
どれも世界そのものをどうこうするものではありません」
クレアは思案する。
もはや情報を出し惜しみする意味もないのではないか。
この姫君以上の頭脳を持つものはこの世界には恐らく居ないのではないのか。
武芸でも魔法でもなく、こういった方向の天才というものを、
はじめて肌で実感したクレアは圧倒されていた。
そして、この女の持つ特異な力と自身が持つ情報とで、
どこまでゆくことができるのかという好奇心も溢れてきていた。
「これは、法国の中でも本当に一握りしか知らない話なんだけど……六大神は確かに人間種よ」
「人間、なのですか? アーグランドの竜王のような異形である可能性すらあると思ってましたが」
「その証拠は私自身になるわ。私の家は神の血筋と言われていた。
神の血が濃ければ濃いほどより強くなれるらしい。
実際、代々漆黒聖典に入るような強者を数多く輩出している。
中でも、神の血を覚醒させ、神々に迫る力を賜った者を"神人"と法国では呼んでいる」
「確かに、兄君もお強いのですよね」
「私が漆黒聖典の第九席次。クソ兄貴が第五席次。
私が大抵のアダマンタイトに勝てるとして、位階で言ったらざっくり第五、第六位階相当ってとこかしら。
アイツ単体だったら私とそこまで差はないけど、二つ名"一人師団"が表すように、
魔物の軍勢の使役が真骨頂で集団戦闘については法国でも随一だと言われている。
そんな兄貴でも、自分より上の席次のヤツらを指して、
『神々にお仕えするべく生まれた、誠に素晴らしい実力を持った方々でいらっしゃる』
と言っていた……つまり、位階で言ったら巫女姫と同等、
第八位階相当かそれ以上の可能性が高いわね」
「では、六大神ご自身は」
「さらに上でしょうね」
少しのあいだ、部屋には茶器の触れ合う音だけが響いた。
やがて、クレアが口を開く。
「ラナー。ひとつだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「もし本当に、来訪者が来たら。
――対抗できると思って、動いてるの?」
ラナーは、すこしだけ考えるふりをしてから微笑んだ。
「勝てるとは思っておりませんわ。
ただ、相手に知性があれば、無視できないほどの勢力を築くのは、
ひとつの生き残る手段になると思います」
ラナーの自信を感じさせる言葉。
「他にも、誰よりも先に接触するというのも場合によっては上手くいくでしょう。
情報というものの価値は流動的です。なにも知らない相手に対しては、
こちらの主観では無価値な情報も非常に高い価値を持つ。
実際、あなたの情報は私にとっては非常に高価値でした」
「しかしながら、現実問題として、法国よりも先に接触するのは非常に難しいですし、
運の要素も強いはずです。そして、友好的でなかった場合には、
接触した瞬間にすべてが頓挫する可能性もあります」
こんな、分の悪い賭けをしなければならないのだろうかと思い、
少しでも希望を見いだすためにラナーに問う。
「勝算はあるの?」
「……場合によっては」
ラナーは落ち着いた声で続ける。
「わたくしは御伽噺や伝承、例えば、十三英雄などは来訪者であると思っています。
あなたの言葉を借りれば"ぷれいやー"でしたか。
おはなし通りであれば、そのリーダーと呼ばれる人物は、
『最初は誰よりも弱かった』とのことです。
神は最初から神ではないときもあるのかもしれない。
なにしろ、神の発生の仕組みを誰も知らないのですから。
つまり、わたしたちが知る人物がまだ弱い"ぷれいやー"であったときは穏便に終われる。
クライムがぷれいやーだったら面白くありませんか?
こういった可能性もないとは言い切れません」
ラナーはそういって笑う。
「逆に、最悪の場合は八欲王のような場合ですね。
『空よりも高い身長を持つとも、竜のようだとも言われる』
ように、神のような力を持って現れ、対話も許さずに蹂躙する。
こういった場合は皆等しくなにもできないでしょう」
「つまりそーゆー場合は考えても無駄ってことね」
「そうです。そうやって、仮定をして対処の難しい場合は排除する。
これの無限とも思えるような繰り返しを行い、勝算を積み上げていく。
それだけが私たちのできることです」
「その手段を増やすために、箱庭を整えているのです。
人間種の到達しうる天井の上から見下ろされているとしても、
せめて面白がってもらえるくらいに美しい箱庭に」
クレアが茶杯を置き、天を仰ぎ、長い息を吐き出した。
「色々情報が多すぎてしんどい。少し待って」
クレアは整理をする。
スレイン法国は人間種の団結により、肉体的に優れる多種族への対抗を行おうとしている。
新しい神が八欲王ではなく六大神であることを盲信して。
これも場合によっては勝算足りうるのだろう。
しかし、ラナーのあまりにも透徹した視点の前ではこの方針さえ危うく見える。
「結局、私たちはやれることをやるしかないってことね……」
ラナーも苦笑を浮かべている。
「数というのはそれだけで大きな力を持ちますわ。
なにかしらの共通認識を持った集団をまとめて滅ぼすのは簡単でも、
その関係を持続的にするためには、お互いの利益を見つけ、相手を理解し続けねばなりません。
人の世を整えるというのは、一足飛びで何かを進められるものではないのです。
そこを無視すると、いかに力を持っていようとも八欲王と同じ末路を辿るでしょう」
ラナーの表情に苦味の成分が増す。
「さらに、こういった概念的なことをいくら熟考しても、
それだけでは、現実を動かしうる力にはならないのです。
私は今までの経験でそれを嫌というほど学びました。
現実を動かすのは、案外くだらない人間のこだわりや執着といったものだったりします。
そしてこれは、非常に大事ですが、残念ながら人は賢くないのです。
私であっても身体という器を持っている以上、様々なしがらみからは逃れられません。
これは短期的に見たら賢くないという話であって、生物が種をつなぎ悠久の時を生きると認識すると、
愚かささえも生存力を高めている可能性もあります」
「……でも、それは
「そう、
「ですから、わたくしたちができることは、"ぷれいやー"が
対話可能な
ラナーは珍しく自身の力に諦観を抱いているようだった。
そこに、控えていたルミィが紅茶を注ぎ、二人に静かに微笑む。
「殿下――ラナー様、私はあなたに拾われて救われておりますよ」
「ええ、その
あなたを従わせていることもわかっております。
そしてその首輪さえもあなたは愛おしく思っていることも」
クレアはそこに、確かに積み重ねてきた主従の信頼というものを見た。
駒の価値でしか測れない不器用なラナーに対するルミィの愛情。
そして、無条件に差し出された愛情にラナーなりに応えようとする言葉。
「アンタたちは大した主従だわ。これに比べればまあ、私は犬っころってところよね」
クレアは自身の持っていないものに対しての羨望が滲む、
自虐ともとれる言葉を放る。
「クレア――いえ、あえてクレマンティーヌと呼びましょう。
わたくしはこれでも、あの日に拾い損ねたあなたが、私の元に再びやってきてくれたことを、
本当に素晴らしいことだと思っておりますのよ。
大切な駒を見たとき、わたくしはいつも直感するのです」
「はいはい、まあでも私も限界を迎える前に法国を出られたのは、
頭の片隅にラナーが居たからだし、今日の話を聞いてやっぱラナーの所が一番だと思ったわ」
ラナーの体温の低い主張は、信仰や伝統、家族や立場などの暖かいふりをする、
かつて与えられてきたゆるやかな繋がりよりかは身体に馴染む感触がした。
そして、意志あるものの知性において、この領域に届きうるものは、もはや居ないのではないかと思ってしまった。
もう、本当の意味で他人に自分の運命を預けることはないはずだった。
しかし、悔しいことに、私はこの天才に完敗し、どうしようもなく心酔してしまったのかもしれない。
「難しい話はここまでにしましょうか。ところでクレア」
「なに?」
「あなたに贈り物をあげましょう」
そうラナーが言うと、さっとルミィが品の良い小さな袋を差し出す。
受け取るとそれは、飾り気のないが質の良い革手袋だった。
「傷や血に触れることも多いでしょう?
手が荒れてしまっては、治す手つきも鈍るかもしれませんもの」
「随分、実用的な贈り物ね」
「ええ、身体と心は密接な関わりがあります。
私の贈り物があなたのそばで日々を守り、それを積み重ねるこで、
素敵な主従になれると思っておりますわ」
気障な台詞を言いながらクレアの手をとり、ラナーは一本ずつ指を通させる。
正確に採寸したように、ぴたりと手に馴染んだ。
「人を観察するのは、わたくしの数少ない取り柄ですから」
ラナーはそう微笑んだ。
革越しに、自分の手の温度が少しだけ遠のいていく。
昼間の血と薬草の感触も、同じように。
殺すための手。守るための手。治すための手。
どれが自分の“本当の手”かは、もう分からない。
与えられた情報の奔流に、自身のあり方も遠退いてしまっているかのようだった。
「……まあ、いいわ」
クレアは小さく息を吐いた。
「少なくとも今は"番犬"をやらせてもらうわ」
「ありがとうございます。たいへん心強いです」
ラナーの声音は、冗談めかしているのに、どこか真摯だった。
部屋を辞したあと、廊下を歩きながらクレアは革手袋ごしに拳を握ったり開いたりしてみる。
感触は悪くない。
おろしたての革の固さと革の匂いがクレアの身体に刺激を与える。
この革が馴染んで行くように、ラナーとの関係もより好ましいものに変わっていって欲しいとクレアは希うのだった。
評価&お気に入り登録ありがとうございます。
あとみなさまのおかげで日間ランキング17位だったみたいです。うれしい。
ちょこちょこ設定捏造や改変が入っていますがご容赦ください。
これで一章は完結です!
次に閑話が入り、二章になります。
具体的に王国を掌握していく話になると思います。