診療所の扉を叩かれる回数が、ここ数日急激に増えている。
兵士の足音だけではない。革靴の乾いた足音。
(……噂が回るのが早いわね)
クレア――クレマンティーヌは、棚の薬瓶を拭きながら、わざと聞こえないふりをした。
先日のバルブロの"視察"。
あの場に居合わせた兵たちと、同行した貴族たち。
城内の噂好きな者たちを経由して、
「城に腕の立つ治癒師がいる」
「第三王女付きの清楚な修道女」
「ロ・レンテ城に降り立った女神」
と、情報が脚色されて広まったらしい。
もちろん、それ自体はラナーの狙いでもあるのだろうが。
(てか、顔だけ見ればよっぽどラナーの方が女神だと思うんだけど)
人というのは新しいものも噂も好きな生き物である。
「クレア様。今日の患者は、午前が兵舎の方から三名、午後が……」
書類を抱えたルミィが、困ったような眉で紙をめくる。
「午後が……ええと、こちら」
「ん?」
「チエネイコ男爵と、そのご子息だそうです。
『最近体調が優れないので診てほしい』とのことで……」
クレアはわざとらしく目を丸くし、芝居がかった姿勢をとる。
「まあ!第一王子殿下の腰巾着様が、わざわざこんな寂れた診療所に!?」
「こ、声が大きいです」
ルミィが慌てて周囲を見回す。
クレアは肩をすくめる。
(チエネイコ男爵――)
ラナーの部屋で見せられた、王国貴族の名簿と簡単なメモを思い出す。
貴族派に属する下級貴族。
第一王子バルブロの側につき従っている。
自分に都合の良い解釈を垂れ流し、王子の出張を声高に繰り返す共鳴箱。
その癖、王子への敬意がないことも見抜かれており、バルブロにすら軽んじられている。
真っ先に切り捨てられるタイプだろう。
ラナーのメモには、さらりと一行だけこう書かれていた。
『捨て駒候補。事前に染みをつけておくこと』
「クレア様?」
「なに?」
「難しい顔をしてらっしゃいましたので……」
「理性と本能の戦いを収めているのよ」
ルミィは苦笑したが、その目にはわずかな緊張が混じっている。
クレアも、笑みだけは崩さず、内心では真面目に考えていた。
「午後の診療は、チエネイコ男爵とご子息だけにして。
兵の診察は午前中に詰め込んでしまいましょう」
「了解しました」
「あと、問診票をもう一枚挟んでおいて」
クレアはにっこり笑い、机の引き出しから紙束を取り出した。
ラナーが作らせた細かすぎる問診票。
痛みの程度を十段階で聞く欄。
いつから症状が出ているか。
日ごとの変動。
仕事の内容。
睡眠時間。
食事の回数。
酒、煙草、娼館の利用頻度。
夜の調子。
などなど。
貴族派用の"特別仕様"だ
「……最後の方、明らかに医療じゃないですよね?」
「ラナー曰く、『運動は健康にいいですから、健康のために必要な情報です』ですって」
クレアは肩をすくめる。
「まあ、健康かどうかはともかく、ろくでもないかはよく分かるわよね。
私にこーゆーこと聞かれて気持ち悪い笑みを浮かべる奴もいるし」
あーーとだるそうな声を出したあと、クレマンティーヌは頬をぴしゃりと自分で叩き、クレアに変身した。
*
午前中の兵士中心の診療はつつがなく修了した。
(……さて)
昼食を軽く済ませ、片づけをしながら、
クレアは革手袋の指を組み、身体を伸ばした。
しばらくすると、護衛の鉄靴と上等な靴底の音が混じり合った
集団の足音が扉の前で止まるのが聞こえた。
「来たわね」
「はい……」
ルミィが姿勢を正し、クレアもまた、仮面を被り直した。
柔らかな笑み。柔らかな声音。柔らかな手つき。
清楚な治癒師。清楚な治癒師。清楚な治癒師。
と心の中で唱える。
扉が開いた。
「いやぁ、ここですかな? 第三王女殿下お抱えの治癒師がいるというのは!」
耳を刺すような甲高い声が、狭い診療所に響き渡る。
先頭に立つ中年の男は、やや細身だが腹だけが前に出ていた。
仕立ての良い上着に、趣味の悪い金の飾り。
チエネイコ男爵。その隣に、十代半ばほどの少年。
少年はどこか居心地悪そうに視線を泳がせているが、
父親の方は堂々としたものだった。
(……うん、期待通り)
クレアは内心でため息をつく。
「お初にお目にかかります、チエネイコ男爵様」
ルミィが素早く前に出て、裾をつまみ頭を下げた。
「第三王女殿下付きの侍女、ルミィにございます。本日は、診療所へのご視察とご診療とのことで――」
「侍女風情の挨拶などは結構です!」
チエネイコは、ルミィをほとんど見もしないまま、キンと響く声で笑った。
クレアはルミィも十分に可愛いと思うが、どうやら権力ですぐに手に入りそうなものには興味がないらしい。
「栄えある王国貴族としてはな、ラナー殿下のご慈悲がいかほどのものか、この目で確かめねばならん!
なぁ、息子よ!」
「は、はい……」
少年は、促されるように頭を下げた。
チエネイコの視線が、すぐにクレアへと向かう。
じろじろ、と。
既視感を感じる、上から下まで、遠慮のない視線を這わせる動作。
(これは紛うことなきバルブロの取り巻きね……)
顔には笑みだけを浮かべるように努める。
「ようこそお越しくださいました、チエネイコ男爵様。
城内診療所の担当をしております、クレアと申します。
地方教会の出で、第三王女殿下のご厚意により、こちらに居を構えさせていただいております」
「ほう、ほう!」
チエネイコの口元がだらしなく緩んだ。
「噂に違わぬ清らかさ! 清楚というのは、こういうのを言うのですなぁ!
ラナー殿下のご慧眼、さすがと言わざるを得ませんぞ!」
「恐れ入りますわ」
クレアは、口元の笑みを深める。
不快感は見せないように。
「本日は、どのような具合で?」
「いやぁ、最近どうも体がだるくてですな!」
チエネイコは、いかにも「重大な問題だぞ」という顔で言った。
「胸が重くなることもあるし、夜も眠りが浅い。
王国の将来を案じる身としては、見過ごせぬ症状でしょう?」
「あら、それは大変ですわね」
クレアは、さも心配そうに眉をひそめる。
「では、こちらにお掛けくださいませ。
まずは、いくつかご質問をさせていただきますわ」
クレアが問診票を差し出すと、チエネイコは面白そうにそれを覗き込んだ。
「ほぉ〜〜、実に細かい!」
「ラナー殿下のご意向でございます。
『人の身体は、数字で見ると分かりやすい』と仰っておられますの」
「さすがは殿下! 殿下のお支えがあれば王国の未来は安泰ですな!」
チエネイコは調子よくしゃべっている。
キリがなさそうなので問診を進めようとする。
「まずは、今のだるさを十段階で言えば、どれくらいか教えて頂けますか?」
クレアは、絶妙なタイミングで話を塞いだ。
チエネイコは、少しも気にした様子を見せず、顎に手を当てて考え込む。
「六、ですな! まだ死にそうとまではいかんが、放置すべきではない程度!」
「かしこまりました。では、ここに六と」
クレアがさらさらと書き込む。
「息子さんは、いかがですか?」
「えっ、ぼ、僕ですか?」
「はい。お父様と同じような症状は?」
「あ、あまり……」
少年は視線を逸らした。
「ただ、最近は訓練で少し疲れやすいかもしれません」
「バルブロ殿下の訓練ですか?」
「は、はい。近衛の方々に混ざって、剣の手ほどきを……」
「素晴らしい心がけですわ」
クレアは、自然に笑みを浮かべる。
努力している若い体は、少なくとも今すぐ切り捨てる必要はない。
そして、近いうちにその努力は正しい方向に正されるだろう。
「では、チエネイコ様。
一日のうち、お酒を召し上がる回数を教えて頂けますか?」
「ふむ、昼に一度、夜に一度。
宴席があれば、そのぶん増えることもあるが!」
「娼館のご利用は?」
クレアは、まるで「水は一日どれくらい飲みますか?」と聞くような調子で訊ねた。
「こ、これは必要な質問なのですかな?」
「はい。『体力の消耗』の目安になるそうですわ」
「さすがは第三王女殿下!」
チエネイコは、妙に満足げに頷いた。
「週に二度……いや、三度かもしれん!
領地にも、それなりに良い店を置いてましてなぁ!
私の体力にはクレア殿もきっと満足していただけるはずですぞ」
「ありがとうございます。とても参考になりますわ」
なんか今さらっと気持ち悪いことを言われたような気がする。
(うげぇ)
紙に記入しながら、世間話を混ぜていく。
王都の景気。
第一王子派が主催するサロンの話。
軍の状況。
チエネイコは、口を滑らせることにたいへん協力的だった。
「最近ではバルブロ殿下も、ますますご聡明さを増されておられてな!」
キンキン響く声が、鼻につくほどの賛辞を連ねる。
「バルブロ殿下の側にいるのが、結局は一番素晴らしい事なのだ!
なにより長子であられるからな!
わたしのような者は、その片隅でお役に立てればそれで良いのですぞ!」
「あら、謙虚でいらっしゃるんですね」
「いやいやいやいや!」
チエネイコは、両手をぶんぶんと振って見せた。
「もちろん、それなりの見返りは期待しておりますがね!
はははは!」
(自分で言うのね、それ)
クレアは、笑顔だけを浮かべたまま心の中で呆れた。
ラナーのメモ通り「自分が捨て駒だと気づいていない」というのは正しそうだ。
「こちらにも、ご記入をお願いいたしますわ」
クレアは、問診票の最後の欄を指し示した。
そこには、
『最近親しくしている貴族・商人』
といった、ラナーが追加した質問が並んでいる。
「ふむ? なんですかな、これは」
「人付き合いの傾向を見るため、だそうです。
『人の身体と同じくらい、人間関係も状態の指標になる』と」
「さすがは殿下!」
チエネイコは、実にご機嫌な様子でさらさらと名前を書き連ねていく。
第一王子派の重鎮たち。
地方から上がってきた取り巻き。
商人、軍人、そして――聞き覚えのある“八本指”と関係のある名前も混じっていた。
(はい、終了でーす)
クレアは、心の中で最後の判定を下した。
*
診察自体は、無難に終わった。
胸焼けは、酒と食べすぎと運動不足。
だるさも、同じ。
魔法をかけるまでもない。
ただ、軽く
息子の方には、筋肉の張りに合わせて少しだけ魔法を使い、ストレッチの方法を教えた。
「……ありがとうございました、クレア様」
少年は、父親とは違って素直な声で礼を言ってきた。
「無理をなさらないで。体はひとつしかありませんもの」
「はい!」
少年の笑顔を見送りながら、クレアはほんの一瞬だけ表情を和らげた。
その瞬間を、チエネイコは見逃さなかったようだ。
「いやぁ、やはり君はただ者ではない!」
「?」
「息子を見る目が違う! やはり人を見る目がある!」
チエネイコは、得意げに顎をしゃくった。
「君のような才のある者が、どちらの“殿下”に付くかで、
王国の未来も変わるというものですぞ!」
「……光栄なお言葉ですわ」
クレアは、問診票の裏にペンを走らせた。
『自己評価:高。頭の回転:低』
「医者は中立が務めですわ」
クレアは、微笑みを崩さずに答えた。
「どちらの兵も、どちらの民も、同じように治します」
「ははは! それは頼もしい!」
チエネイコは満足げに笑い、診療所を後にした。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなったところで、ルミィが仕切りの向こうからぬっと顔を出した。
「……最悪ですね、あの人」
「でしょ?」
クレアは肩をすくめ、机の上の問診票を持ち上げて見せた。
「酒飲み、娼館通い、八本指とお友達。
オマケに舌も軽い」
「十点満点でいうと?」
「ゼロ点ね。殺す相手としては満点だけど」
クレアは、問診票の裏にさらにぐりぐりとメモを書き込んだ。
『政治的価値:見せしめ/証言用にちょうど良い』
「まあでもこういうのはね、すぐに殺すよりかは」
クレアは、紙をひらひらさせる。
「ちゃんと見せしめに使ってあげるのが礼儀だと思うのよね」
「……ああ」
ルミィが顔をしかめる。
「確かに、ああいう人がしょっぴかれると、民の溜飲は下がりそうですね」
「でしょ?」
クレアは笑った。
「だから、ラナーの人気取りに使ってあげましょう。
大好きな王族であるラナー殿下の役に立てるなんて幸せですものね」
*
夜。
ラナーの私室。
簡素な書き物机の上に、城内と王都の地図、貴族名簿、帳簿、そして――クレアが持ち込んだ問診票が広げられている。
ラナーは楽しそうに目を細めていた。
「見事な問診ですね、クレア」
「ラナーの作った紙が優秀なのよ。
私はただ、読めるように並べただけ」
クレアはソファにだらしなく腰を下ろし、脚を組んだ。
ラナーの前だけは、礼儀作法を多少崩しても構わない。
「チエネイコ男爵。噂通りの男だったわ」
「そうですねぇ」
ラナーは問診票の裏に書かれたクレアのメモを読む。
「こういう方を含めたくさんの“数字”を見るのは楽しいですわ」
ラナーは笑った。
「“嫌な人間”という印象だけでは、他の嫌な人と混ざってしまいます。
この方は、無駄な重税を課していて、娼館通いが多くて、兵への配慮が少なくて、そのうえ舌が軽い」
「つまり?」
「――王家から見ても、第一王子から見ても、『切りやすい』ということです」
ラナーは、小さく鈴のように指を鳴らした。
「バルブロ兄様も、お父様でさえ、
“何かあった時に責任を押し付ける場所”を、必ず用意しておきたがりますからねぇ」
「まあ立場上仕方ないとは思うけど」
クレアは、少しだけ笑った。
「クレマンティーヌのお兄様は、もう少し“高いところ”を見ておられましたか」
ラナーが問う。
「六大神だとか、人類全体だとか。そういうのばっかね。
私を一人の妹、一人の人間として接してくれたことはないわ。
まあでも、私よりずっと出来の良い人間よ」
クレアは天井を見上げた。
自分の兄の横顔を思い浮かべる。
かつての信仰と、今の憎悪と、そのどちらにも染まりきれない自分を省みる。
クレアは、指先で問診票の端をつまんで、ひらひらと揺らした。
「兵の怪我を治して、貴族のだらしない生活を聞き出して。
誰を生かして、誰を切るかを、少しずつ決めていく」
「ええ。とても助かってますよ」
「少し刺激は少ないけど悪くない日常ね」
「ねぇ、クレア」
「なに」
「今日のチエネイコ男爵のことを、十段階で言うと、どれくらい嫌いでした?」
クレアは一瞬だけ目を瞬かせてから、吹き出しそうになるのを堪えた。
「……そうね。八くらいかしら。すぐ殺せる人間は嫌いじゃないのよ」
「とても参考になります」
ラナーは真面目な顔でペンを走らせた。
「そんなもの記録してどうするのよ」
「クレアの嫌悪感と政治的価値を比べてみたいんです。
もしかすると、面白いパターンが見つかるかもしれませんよ?」
「人の感情を実験材料にしないでくれる?」
どうやらラナーなりの冗談だったようだ。
クレアは、ソファの背にもたれ、天井の隅をぼんやりと見つめた。
清楚な修道女の仮面とその裏で舌なめずりする自分。
最近、その裏の自分が揺らいできている。
少し前までの自分は本当に、他人を貶めたり、辱めたりするだけで満足できていたのだろうか。
革手袋の中で指を握りしめると、わずかに革がきしんで返ってきた。