第一王子バルブロの執務室にほど近い、小さな会議室。
窓から差し込む昼の日差しが、磨かれた机の上に四角く落ちている。
壁には王家の紋章といくつかの地図。
夜会のような酒も音楽もない。代わりに並んでいるのは水差しと書類の束だ。
第一王子バルブロ・アンドレアン・イェルド・ライル・ヴァイセルフが、椅子の背にもたれた。
「――で、今日は何の用件だ」
投げやりに聞こえる口調だが、呼び出したのは他ならぬ本人だ。
机の向こう側には、数名の貴族が座っている。
その中に、チエネイコ男爵と、レーヴァルド子爵の姿もあった。
「まずは、第三王女殿下の施策についての報告から、ということでしたな」
チエネイコが、喉を鳴らして咳払いをひとつ。
「診療所と、教会と……あの“学び小屋”でございます」
「算学小屋とのことだ」
レーヴァルドが静かに言葉を補った。
チエネイコは「そうそう、それです」と軽く笑う。
「そちらはお前から聞こう、レーヴァルド」
バルブロが顎をしゃくる。
「妹の“遊び”が、どこまで広がっているのか、俺にも分かるように説明しろ」
レーヴァルドは軽く頭を下げ、手元の紙をめくった。
「では、城下の様子から」
淡々とした声が、会議室に落ちる。
「第三王女殿下が中心となって開かれている救貧教会では、
相変わらず、日ごとのパンと簡単な施しが行われております」
「相変わらず、か」
「はい。ですが、そこに集まる顔ぶれが、少し変わってきているようです」
「どう変わった」
「最初は、仕事のない男たちや、身寄りのない者が主でしたが……
最近は、子どもを連れた女や、仕事帰りの労働者など様々な住民が混ざるようになりました」
レーヴァルドは、一枚の紙を指でなぞる。
「“殿下の教会に行けば、パンと話し相手がいる”と。
あくまで一部ですが、そういう噂が、城下の酒場などで聞こえるようです」
「話し相手?」
バルブロが眉をひそめる。
「パンだけでなく、愚痴を聞いたり、簡単な相談に乗ったりしているようですな。
殿下の侍女や治癒師殿、教会の者たちが」
別の貴族が口を挟んだ。
「“殿下は自分たちの話を聞いてくださる”と、皆、ありがたがっているとか」
「ふん」
バルブロは鼻を鳴らした。
「パンをばらまくだけでは飽き足らず、愚痴まで聞いてやっているのか、あの女は。
まあ、女に相応しい仕事ではあるが」
「その結果、教会に集まる声が、少しずつ“形”になってきているようです」
レーヴァルドは、言葉を選ぶように続ける。
「“この税は重い”、“この地区の治安は悪い”、“あの領主は約束を守らない”といった、
小さな不満が、投書箱に少しずつ“紙”として集まっている、と」
「紙?」
バルブロが目を細めた。
「はい。殿下の侍女が、聞き取った話をまとめているようです。
それがすぐに何かになるわけではありませんが……積み重なっているのは確かです」
「ふうん」
バルブロは、椅子の背にもたれたまま天井を見上げる。
「で、算学小屋はどうだ」
「そちらも、徐々に人が増えております」
レーヴァルドは、別の紙を取り上げた。
「最初は捨て子や孤児が中心でしたが、最近は、職人の子や、商家の下働きも通うようです。
“読み書きと数ができると、奉公先で重宝される”と、若い者の間で評判になっております」
「数ができるからなんだ」
そう吐き捨てる声に、別の貴族が慌てて補足する。
「仕入れや売り上げの計算が早くなる、とか、
釣りをごまかされにくくなる、とか……そういう話でございます、殿下」
「ふん」
バルブロは、あからさまにつまらなそうな顔をした。
「数ができる庶民など増やしてどうする。
頭の回る奴が増えれば、いらぬ文句も増えるだけだろう」
「ですが殿下」
レーヴァルドは、淡々と続けた。
「城下には、“殿下――第三王女殿下が、自分たちに目を向けてくださっている”という
感情が育ちつつあります。
それ自体は、王家にとって悪いことではありません」
「……“王家にとって”か」
バルブロの目がわずかに細くなる。
「“第三王女にとって”ではないのか?」
「もちろん、ラナー殿下お一人の名が先行している側面もございますが」
レーヴァルドは、そこで一呼吸置いた。
「それを、“王家全体の施策”と受け取らせるか、
“第三王女個人の功績”と受け取らせるかは――これからの見せ方次第かと」
会議室に、しばしの沈黙が落ちた。
バルブロは指で机をとんとんと叩き、やがて面倒くさそうに息を吐いた。
「……で。“診療所”だ」
視線が、チエネイコへ向く。
「城内にできたという、あの部屋の様子をお前から聞こうか」
「お任せください、殿下!」
チエネイコが、待っていましたとばかりに身を乗り出す。
「診療所は、城の兵や侍女たちには、なかなか評判がよろしいようです。
先日、私自身も行ってきたのです。最近“胸が重くて眠りが浅い”ので……」
「歳をとっただけだろう」
別の貴族が苦笑まじりに突っ込む。
「いえいえ、そういった些細なものが大病の兆候かもしれませんぞ」
チエネイコは、大仰に言う。
「まず、問診が非常に細かい!“痛みを十段階で言え”と来た。
それから、いつから症状が、どんなときに強くなるか、酒は何杯か、夜は元気か――」
「昼の会議で言う内容か、それは」
レーヴァルドが小さく息を吐く。
だが、バルブロは興味を失ってはいなかった。
「兵や侍女の反応はどうだ」
「大層ありがたがっておりますな」
チエネイコは胸を張った。
「これまでは軽い怪我くらい放っておくか薬草を適当に貼っておくくらいだったようです。
しかし今は“訓練で膝をひねってもすぐに動ける”、“夜勤明けの疲れが取れる”と」
バルブロは指を組んだ。
「城下には、その話は届いていないのか」
「今のところは、あまり」
レーヴァルドが答える。
「兵が酒場で自慢げに話すことはあるようですが……
“城の中にはそういう場所があるらしい”という曖昧な噂どまりです」
「とはいえ、“第三王女殿下が城の者の面倒を見ている”という話は、
間違いなく広がっていますな」
チエネイコが付け加えた。
「“城の中の者たちも、殿下に助けられているらしい”と」
「ふん」
バルブロは、露骨に面白くなさそうな顔をする。
「妹の名前ばかり高まるのは気に入らんな」
「そこで、殿下」
と、チエネイコが素早く身を乗り出した。
「私、診療所で、あの治癒師――クレア殿と、少し話をいたしましてな。
“第一王子殿下もご視察なさったことを、城内に広めてよろしいでしょうか?”と」
「……ほう」
バルブロの表情が、少しだけ変わる。
「それで、お前は何と答えた」
「もちろん、“殿下のお心のままに”と」
チエネイコは、いかにも得意げに顎を上げた。
「実際、城の者どもは、既にこう言っております。
“第三王女殿下の思いつきを、第一王子殿下がご覧になってくださった”と」
「“ご覧になってくださった”か」
バルブロは、その言葉を繰り返し、口元をわずかに緩めた。
「悪くはないな」
「ええ。そこで我々としては、
城下に対しては“王家の施策”として出してしまうのがよろしいかと」
別の貴族が続ける。
「“第三王女殿下がお始めになり、第一王子殿下もご賛同なさっている”。
そう説明すれば、殿下の御威光は保たれつつ、妹君の人気も“王家への信頼”に変わります」
「なるほどな」
バルブロは、あごひげのあたりを指でなぞった。
「要するに、“第三王女個人の功績”ではなく、“王家全体の功績”にすり替えろ、と」
「はい。それが最も、殿下にとってよろしい形かと」
チエネイコがうなずく。
「城下に出入りする商人や、教会の神官たちに、そう触れ回らせればよいでしょう。
“王家の御心により、教会と学び小屋と診療所が開かれた”と」
「教会まで、か」
「六大神の名を借りれば、庶民はさらに納得しやすいでしょうからな!」
バルブロは少し考え、それから短く言った。
「――好きにしろ」
それは、許可の言葉だった。
「ただし、“第一王子殿下もご覧になった”という部分は必ず入れろ。
俺の名が出ない話など、広める価値はない」
「ははっ!」
貴族たちが一斉に頭を下げる。
レーヴァルドは、そのやり取りを見ながら、杯に入った水を一口だけ飲んだ。
彼の内心は静かだった。
算学小屋で数字を覚えた子どもたち。
救貧教会で愚痴を聞いてもらった労働者。
城内診療所で怪我を癒やされた兵や侍女。
彼らにとっては、細かい理屈などどうでもいい。
「第三王女殿下のおかげだ」と言う者もいるだろうし、
「王家のおかげだ」と雑にまとめる者もいるだろう。
評判の向かう先を、上から書き換えようとするこの会議は、一応理にかなっている。
(だが――)
レーヴァルドは、手元の紙に目を落とした。
救貧教会に積み上がる声をまとめた紙。
算学小屋から出てくる、数を読める者たち。
診療所の問診票に記された、貴族たちの生活のほつれ。
それらは、今この場で語られている以上の意味を、いずれ持つだろう。
そしてそのとき、それを束ねるのは、おそらく――
「……」
レーヴァルドは、思考をそこで止めた。
口に出す必要のない予感は、胸の奥にしまっておくに限る。
「他に報告は?」
バルブロの声が、会議室に響く。
「ありません、殿下」
「では、今日はこれで解散だ」
椅子が引かれる音が重なる。
貴族たちはそれぞれ立ち上がり、「さすが殿下」「ご慧眼にございます」と口々に言いながら部屋を出ていった。
レーヴァルドも最後に一礼し、会議室を後にする。
廊下を歩きながら、彼はふと、城の外側――城下の方へ視線を向けた。
第三王女の教会と、算学小屋。
そこから上がってくる小さな声の束。
(あれを「王家の施策」にしようとするのは、悪くはない)
そう考えつつも、どこかで思う。
(だが、本当に“王家のもの”でいられるかどうかは……)
その答えが出るのは、もう少し先のことになりそうだった。