王の執務室は、紙が溢れかえり、インクの香りが漂っていた。
窓際の机いっぱいに帳簿、報告書、ラナーが差し出した紙束が広げられている。
椅子に腰掛けたランポッサ三世は、そのひとつひとつをゆっくりと目で追っていた。
壁際には、ガゼフとラキュース。
少し離れた位置に、バルブロ、ザナック、ラナー。
レエブン侯と文官であるレーヴァルドも呼ばれていた。
「……ふむ」
ランポッサは、ひとつの紙を持ち上げる。
震えるような字で書かれた、それは、ごくありふれた訴えだ。
『路地の店は一日につき護衛料は銅貨四枚。ゴロツキが屯するだけで一月で銀貨十枚。売上のほとんどが消える』
別の紙には、ある程度整った字でこう綴られている。
『帝国への行商の荷運び、給金の銀貨一枚と銅貨八枚枚のうち銅貨六枚は宿と飯。そこから銅貨三枚手数料、さらにリットン伯の領地の通行料で銅貨三枚、残り六枚』
他にも多数、各所で理由が明確ではない中抜きの報告がある。
「一枚一枚を見れば、平民一人一人の些末な話とも言える」
ランポッサは、ぽつりと言った。
「だが、こうして集めてみると……」
それぞれ、違う地区。違う名の元締め。
だが、その背後にある貴族の名は、いくつかで重なっていた。
貴族派閥を中心に利益の吸い上げが見える。
特に、チエネイコは非人道的と言えるような搾取を行っている。
「父上」
バルブロが口を開く。
「平民の愚痴を、いちいち王が拾う必要はありますまい。
それに、これが帳簿や判子付きの証文ならともかく……拙い字で書かれた紙切れに過ぎません」
「そうですな」
レエブン侯が、静かに言葉を継いだ。
「一枚一枚の重さは、銀貨一枚にも満たないでしょう」
「ならば——」
バルブロが勝ち誇ったように笑いかけたところで、レエブン侯は肩をすくめた。
「ですが、積もれば馬車も軋みます」
「……」
「無視し続けると、いつかひっくり返る。そういう量になってきておりますな、陛下」
ランポッサは小さく息を吐いた。
「侯の言う通りだ。
民の不満を完全に消すことなど不可能だが、全てを見て見ぬふりをすれば、国は立ちゆかん」
ガゼフが一歩進み出る。
「陛下。私は、一介の戦士であり、民の声をすべて拾うことは本分ではありません。
ですが、働いても報われず、私が戦って守る前に果てていく民を見たくはありません」
「王族や貴族のために働くのは民の勤めだろう」
バルブロが吐き捨てるように言う。
「統べるには金がかかるのだ。護衛料も、仲介も、税も、全部合わせればそれくらいになる。
これが王国の民の普通の生活だろうが」
「では」
口を開いたのはラナーだった。
柔らかな声音だが、その中身ははっきりとしている。
「“普通”が、いつまで持つか、という話になりますわね、お兄様」
「ラナー、お前は——」
「十から二取られる約束だったのに、五取られていると気づいた者たちは、
今はまだ“紙に書いて訴える”だけで済んでいます」
ラナーは、机の紙束に視線を落とした。
「ですが、これから一も残らない時がくるかもしれないと気づくまでになったら、どうなるでしょう」
静かな問いかけだった。
ランポッサが、その言葉にわずかに目を細める。
「一も残らないときか……」
「はい」
ラナーは父を見た。
「今は
飢饉があるかもしれない。魔物の大群が押し寄せることもありましょう。
そうすれば、国で必要になるお金が増えるのは仕方ないことです。
そして、そうなったとき、どこから減るのか。……残った三です」
「“残るはずだった分”があれば、どこかで誰かが掠めとったりしなければ、それさえなければ飢死せずに済んだなどとなれば——」
「――民の不満はただの呻きではなく、はっきりとした形を持つでしょう。
失うものがない者たちは怖いと、わたくしは思います」
そんなことが起きえる状態が今の王国にはある。
「この状態を、“普通”とおっしゃいますか?」
ラナーの問いに、バルブロは言葉を詰まらせた。
「……ラナー」
ランポッサが、机から顔を上げる。
「お前は、どこまでを仕方がない痛みと見ている」
「そうですねぇ」
ラナーは少し考えるふりをして、指を顎に当てた。
「収穫や荷運びで得る利益を十とすると、二までは、
山賊や魔物から守るための費用として取っても仕方がない、と私は考えます」
ガゼフとラキュースが、視線を交わす。
「そこから先は、“取る側”がどれだけ説明できるかの問題、でしょうか」
ラナーは言葉を選びながら続けた。
「護衛の人数。実際にかかった費用。危険度。
そういったものを示して、“だから三必要だ”と納得させられるなら、まだ話は別です」
「つまり、それが説明できていない者が多すぎる、ということか」
レーヴァルドが、帳簿に目を落としながら呟いた。
「はい。説明できないのに取っている。
あるいは、“自分でもどこにどれだけ流れているのかわからないまま取っている”」
ラナーは、机の上の紙束のひとつを軽く指でつついた。
「そういうところから、詰めていく必要があるのでは、と」
ランポッサはしばらく黙っていた。
やがて、重たそうに背をもたげる。
「……ガゼフ、生きるためのものを与えないことを“仕方がない”と言い張る国の軍はどうなる?」
「……いずれ、誰も命を賭けて守らなくなるでしょう」
ガゼフはそう答えた。
ランポッサは、目を閉じ、深く息を吐く。
「……よかろう」
王は、机に置いていた手を握りしめた。
「十のうち二までは、護衛や仲介に使ってよし。
しかし使途が不明のものや十分な意味を見いだせない物は禁ずる。
二より先を取るならば、その分は役所への届け出をさせる」
「父上、それは!」
バルブロはこの期に及んで止めようとする。
潤沢な資金を失えば貴族派閥は衰退し、利権を守れなかったバルブロは支持基盤をも失うだろう。
「――バルブロ、これは必要なことだ。
王都の護衛料と荷運びの取り決めを手始めに、王国の法を改めて書き直す」
ランポッサは言った。
「レーヴァルド。三日以内に、各組合と領主から帳簿を出させろ。
説明できぬ三を取っている者については——」
視線が、ラナーとレエブン侯を一度だけかすめる。
「ラナーとレエブンで改めて審議し、必要に応じて罰を与える」
「……!」
バルブロの顔色がさらに青くなる。
あの、貴族たちの振る舞いに見てみぬふりをしてきた王が、
このような決断をするとは思っていなかった。
ラナーでさえ、王の毅然とした態度に少しの驚きを覚えている。
「父上! それは、あまりに——」
「バルブロ殿下」
レエブン侯が静かに口を挟む。
ザナックの陣営としてはここを押し込むのが好機なのは明らかだ。
「今ここで何もしなければ、“王家が見て見ぬふりをした”という事実だけが残ります。
その状態で国が立ちゆくとお思いですか?」
バルブロは、口を噤み、ザナックの方を見る。
ザナックはバルブロを終わったものを見るような目で見つめ返した。
バルブロは歯噛みする。
(――こんなところで、平民などという木っ端共のせいで、俺の玉座が……!!)
ラナーから評判を奪うどころではない。
全てはもう遅すぎたのだ。
それを見て、レーヴァルドも冷静に身の振り方を考え始める。
(この件が片付いたときには、ザナック殿下が王位を継承する方向に向かいますかね。
貴族派閥の弱みを手土産にどこかの陣営に機を見て動こうとは思っていましたが……)
そう考えるレーヴァルドの、その視線の動きを丹念に観察する、一人の魔女がこの部屋にはいた。
(あの目線から逃れて生きていける展開が一番良かったのだがな……)
レーヴァルドは自身の持つ、他国とのつながりを差し出さなければならないことを悟った。
あの女は恐らくその伝手を欲しているのだろう。
これから来るであろう日々を想像し溜め息が漏れそうになる。
「それから——」
ランポッサは、もう一度紙束を見やる。
「チエネイコ男爵を呼べ」
*
「バルブロ殿下!……それに陛下!これは何かの誤解で——!」
執務室の一角で、チエネイコが汗をだらだらと流していた。
机の上には、診療所の問診票。
護衛料の取り決めを書いた紙。
救貧教会に積み上がった嘆願の写し。
「皆、皆嘘を言っております!
私は、そんな細かい金の動きまで――」
「お前は、王の間で“十あったものが三になろうが二になろうが”と言ったな」
ランポッサの声は、静かだった。
「ここにある紙は取られた者たちの声だ」
「そ、それは――」
「自らの名で徴収する以上、その金の行き先を知らぬでは済まされぬ。
それに、国に麻薬をも蔓延させる害虫も徴収に関わっているという疑いがある」
王は、机に指を置いた。
「男爵。お前の領地と王都における取り立て権は、当面凍結する。
さらに、護衛料の徴収権を王家に一時移譲させる」
「そ、そんな!」
「お前は“平民どもはもらったもので暮らせばよい”と言った」
ランポッサは目を細めた。
「ならば、しばらくは“王家からもらったもの”だけで暮らしてみるがよい。
お前の屋敷と領地には監査を入れる。
何も出てこなければ——そのときは好きなだけ“誤解だった”と周りに喧伝するがよい。
――しかし、結果次第では王都の広場にて民の前にその首を晒すことになるだろう」
チエネイコは、膝から崩れ落ちた。
あまりのショックからか失禁までしている。
「……チエネイコの処遇は、それでよいだろうか」
ランポッサが、ラナーを見る。
「はい、陛下。王都の誰が聞いても、穏当だと思ってくれるでしょう」
頷いたラナーの金髪が揺れ、やわらかく微笑みを浮かべる。
「王都の各所でもこのような状態という疑いがありますが、
そのすべてで権利と領地を返上させるとなると……
管理する人員はとても用意しきれませんし、次に誰がそこに座るかも問題になります」
「ふむ」
王は「これが落とし所だろう」と言うのと同時に、バルブロへの親子の情も感じさせる目線をやる。
ラナーが口を開く。
「当面は、王家が目を光らせているということを伝え、様子を見るのが良いかと」
レエブン侯が小さく頷いた。
「それを伝えるための首はもうここにあるようですからな」
*
数日後。
教会の前には、いつもより少しだけ人が多かった。
パンを配る列。
その横で、算学小屋から帰ってきた子どもたちが紙を抱えて走っていく。
「本当に、チエネイコ様のとこの取り立てが止まったんだってさ」
「陛下へガゼフ様とラキュース様が伝えてくれたらしい」
「護衛の隊長が変わったって。今度は王家の紋章を付けた人が来てるって」
「算学小屋の先生が、これからは色々なことの説明を聞く権利が生まれると言ってました」
噂は、いつものように少しずつ脚色されながら、しかし確かに広がっていた。
クライムはその横を通り過ぎながら、耳を傾けていた。
(これは、ラナー殿下の思っていた通りになっているのだろうか)
彼には難しいことは分からない。
ただ、算学小屋に通っている子どもたちが、少し誇らしげに数字を口にしているのが、なんとなく嬉しかった。
「クライム様、そろそろお時間です」
ルミィが呼びに来て、彼は慌てて城へと走り出した。
教会の投書箱には、今日も声が集められている。
そこには王家への感謝が綴られたものも集まってきているようだ。
*
「――随分と、早かったですね」
ラナーの私室。
机の上には、相変わらず紙が積み上がっている。
だが、そのいくつかには新しい印が付けられていた。
『処理済み』、小さくそう書かれている。
「予定より、かしら?」
ソファに寝転がったクレアが、だらしなく片腕をぶら下げながら問う。
「そうですね。私にとって民の不満など関係なかったのです」
ラナーは、ペンを走らせながら訥々と答えた。
「わたくしが欲しかったのは、民から与えられる事実。
それがあれば、邪魔な貴族派閥がいくらでも裁けると思っていました」
「でも実際には――」
「ガゼフ様とラキュースが、先に動いてくれました。
確かに私のところにも声は集まっていた。それだけの仕組みを作った。
しかし、実際にはあの二人のもとに多くの民たちは集まった。
そして、二人もそれに応えた」
「目の前の命を守ることはできても、大きく物事を動かせる人たちだとは思わなかった」とラナーは、少しだけ笑った。
そして、ラナーは続ける。
「小さな何にもならないくらいの力が積み重なって、
――創発とでも呼ぶべきものが起きたのですね」
「創発?」
「一つ一つを足し合わせただけでは見えてこない性質が、
全部をまとめあげたときにはじめて顔を出すことですわ。
あの盤上での黒点の動きを人の営みに例えたときには、本当はそれを予感していたのかも知れません」
クレアは、息を吐き出しじっとラナーを見て躊躇いがちに問う。
「予想外のことが起きて……ラナーはどうだった?」
「そうですね、少しだけ、怖かったです」
ラナーは正直に答えた。
「今まで自分の想定を超えて人々が動き出すことはなかったですから。
でも、それ以上に——」
ペン先が止まり、ラナーは机の上の紙束に目を落とす。
「嬉しかったのかもしれません」
「へえ」
「私が作った無意味の山。その重なりがお父様を動かした」
ラナーは、紙束の端を指で整えた。
「私一人の予定調和の箱庭ではなく、王と民と、戦士長様とラキュースと。
様々な人により、形を変え、じきにたくさんの花が瞬くのかもしれない。
思い通りにいかないのに楽しい世界だと思えています」
「面倒くさい性格ね」
クレアは笑みを浮かべ、続ける。
「自分で全部決めたいくせに、そうやって勝手に動くものを見ることを気に入っちゃうんだもん」
「そうですねぇ」
それを受けてラナーも似た顔で笑う。
「でも、あなたも気に入っているでしょう?」
「まあ否定はしないわ。
今回の件でラキュースとの付き合いも見直すつもり?」
自分たちとは違う、けれども確かに感じた力を思い出す。
「お互い立場がある中で、作られた関係ではありましたからね。
今回のようなことがあっても、いままでの彼女ならば、
冒険者は政治に不干渉であるという不文律を気にして、
私が促すまで動き出せないと思ってましたから」
「――普通は、環境や立場の拘束に抗うのは難しい事だからね」
クレマンティーヌは物憂げに窓へと視線を向ける。
少しの沈黙の後、ラナーは紙束の中から一枚を抜き出し、誰かのぎこちない字をゆっくりと眺める。
「今回は良い方向に行きましたが、これから、要望が増えていく中、全ての意見に応えることはできません」
ラナーは、その紙をそっと別の山に置く。
「ですから――」
「変えられなかったものも数えておきたい?」
クレアが問う。
「そうです」
ラナーは迷いなく頷いた。
「そこを忘れると、きっとまた、どこかで十から七を取ってしまう日がくるかも知れません。
この結論も、人のためというよりは、箱庭を長続きさせるために必要なだけだったんですけどね」
クレアは、しばらく黙ってラナーを眺めていた。
そして、ふと口元を緩め、軽く握った革手袋がきゅっと音を立てる。
「じゃ、私はまた診療所いくわ。お姫様のために働くのが今の私のやれることで、やりたいことだから」
「……クレア」
手をひらひらさせながら去っていくクレアにラナーは聞こえるか聞こえないくらいのお礼の言葉をつぶやく。
こうして、二人は、自分たちの手を離れて広がっていく小さなさざなみに、抗いがたい美しさを見いだしていくのだった。