第一話 逃亡
女は森の闇の中を駆けていた。
枝を払う手が震える。
呼吸は荒く、喉は焼けつくばかりに乾いていた。
「っ、は……はぁ……っ」
何度目か分からない転倒から立ち上がりながら、クレマンティーヌは自嘲する。
(疾風走破がこの有様とはね……)
漆黒聖典に選抜され、十年近く血を祈りとして捧げ任務をこなしてきた。
その果てがこれだ。
スレイン法国の秘宝――叡者の額冠を抱えて、単身での逃亡劇である。
背後で、光が瞬いた。
振り返らずとも分かる。
神官戦士たちの追撃だ。
日に日に増していく追撃が、逃走方向の正しさを教えてくれている。
(まだ、追いつかれてはいない)
ひとりひとりは大したことはないが、
数日に及ぶ消耗戦にクレマンティーヌは疲弊しきっていた。
胸元に抱え込んだ包みへ、そっと手をやる。
厚い布の内側には、冷たく硬い、嫌な手触りがある。
叡者の額冠。
法国の中心で巫女姫の額を飾っていたはずのもの。
百万人に一人の適性を持つ少女にだけ、
その命が尽きるときまで神へと奉仕を続けるのだ。
自分はその役目を担う巫女姫の額から冠を引きはがした。
(いままで何人が巫女姫となってきたのだろうか)
記憶の底を探ろうとして、クレマンティーヌは自分で思考を断ち切った。
それは今、考えるべきことではない。
そうしなければ、足が止まりそうだった。
「本当に、ろくでもない」
吐き捨てるように呟く。
だが腕にこもる力は、包みを手放すどころか、より強く抱き寄せていた。
これを持ち出した瞬間、クレマンティーヌは正式に祖国の敵となった。
巫女姫の首が折れる鈍い感触と額から冠を引きはがしたときの逡巡。
神に捧げる尊い犠牲。
そう教えられてきた。
(ああ、馬鹿なことをしたものだ)
乾いた笑いが漏れる。
兄や両親はきっと、怒り狂うだろう。
大事に大事に育ててきた妹が六大神を裏切ったと知れば。
友人たちは、どう思うだろう。
――いや。もう、彼女たちは何も思わない。
胸の奥で、暗く澱んだものが蠢いた。
それに蓋をするように、クレマンティーヌは別の事を考える。
(あと数日逃げきれれば……国境さえ越えることができれば……)
リ・エスティーゼ王国。
腐った貴族と無能な王に支配された、滑稽な国。
だが、同時に。
ひとりだけ、例外がいる。
(――王国第三王女、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ)
長ったらしい名前。
だが、クレマンティーヌにとっては忘れ難い音の連なりだった。
最初に出会ったのはあの路地裏だ。
外套と治癒薬をこの私に施した、得体の知れない金髪の少女。
次にその名を聞いたのは、別の任務の折。
彼女をなぞり気まぐれに施しを与えた少年――クライムを通じて、その女の存在を知った。
少年の主への忠誠。
その主の異常なまでの怜悧さ。
王国の裏社会を抉り出すように動き続ける黄金の姫。
そして後に、蒼の薔薇や八本指を巡る諸々で彼女と直接会話を交わすようになってから――
クレマンティーヌはようやく、記憶の断片と現在を結びつけたのだ。
あの夜出会った少女と、
王城の高みから箱庭を見下ろす姫が、同一人物であると。
あのとき、すでにわたしの素性を掴んでいたのだ。
思い返してみれば、幼いときに法国で行われた式典に彼女が出席していたことがあった。
しかしながら、その一度きりの機会でそんなことが可能だったのだろうか。
ぞくり、と背筋を悪寒が走る。
恐怖か、快感か、自分でも判別できない。
だが、今のクレマンティーヌにとって重要なのは感情ではなく事実だ。
ラナーはクレマンティーヌが何者であるかを知っている。
法国の人間であり、特殊部隊である漆黒聖典の一人であることを。
その上で、彼女を「使える駒」として扱ってきた。
(ならば、法国から逃げた私をも――上手く使えるはず)
たとえ裏切り者であろうと。
むしろ、裏切り者だからこそ。
駒の価値を的確に見抜く女なら、
叡者の額冠を抱えて転がり込む裏切り者を、そう簡単には捨てはしない。
「ねえ、ラナー。――わたしを拾ってくれる?」
木々の間から、かすかに空が開ける。
国境を示す川の気配。
王国の土地の匂い。
息を吐き、クレマンティーヌは笑った。
この笑いは、もはや信徒のものではない。
六大神ではなく、まだ見ぬ“次の神々”に賭ける裏切り者の笑いだ。
追手の光がまた閃く。
しかし彼女のことを考えたとき、すべてがうまくいくような予感がした。
そして、遠くで鐘の音が響き、ひとりの姫が目を覚ます幻を見た。
*
リ・エスティーゼ王都、王城。
まだ夜明け前の静けさの中で、その部屋だけが暖かな灯火に包まれていた。
「……失礼いたします、姫様。すでにお目覚めでいらっしゃいましたか」
侍女の言葉に、ベッドの上の少女――ラナーは小さく微笑んだ。
「ええ。少し、胸騒ぎがいたしまして」
侍女は首を傾げる。
だがラナーはそれ以上説明しない。
代わりに、窓辺へと歩み寄り、まだ暗い王都の街並みを見下ろした。
石畳の路地。
屋根の形。
夜警の持つ灯りの揺れ方。
そのすべてが見知った、彼女の大切な箱庭の一部である。
(――そろそろ、ですね)
ラナーは静かに目を細める。
スレイン法国内部での動き。
自分が流していた餌に、どの魚が食いつくかを眺めるような、数年来の観察。
そして――ひとりの少女。
歪んだ愛と信仰に縛られながら、それでもなお、
世界の在り方に疑いの目を向け続けた、小さな祈り子。
「きっと、迷いに迷って……それでもこちらへ来てくださるのでしょう」
自分の手で壊し、自分の手で組み上げ直せる玩具。
過去に一度、拾い損ねた欠陥品。
今度こそ。
ラナーは、唇に指を添え、小さく笑った。
「――ようこそ王国へ、クレマンティーヌ」
箱庭の姫は、逃亡者を迎える支度を始める。
まるで、最初からそう決まっていたかのように。