帝都を離れて数日、馬車の揺れ方がまた変わってきた。
踏み固められた街道そのものはまだ整っている。だが、脇に見えるものが違う。
よく手入れされた畑の代わりに、耕作を放棄された土地が増え、遠くには煙を上げる集落がぽつぽつと見える。
道沿いを行き交う影も変わっていた。
荷車を引く商人に混じって、背中に家財を括りつけた家族連れ、包帯だらけの兵士の小隊。
「……竜王国は目前ですね」
御者台のすぐ後ろで、ローデンが静かに言った。
「帝国軍は竜王国そのものに深入りはしていませんが、国境の宿場や砦には兵を増やしています。
難民も、ここ数日で目に見えて増えているようです」
ラキュースは軽く頷き、窓の外に目を向ける。
荷車の脇を、ぼろ布をまとった子どもがとぼとぼ歩いている。手には粗末な布袋ひとつ。
母親らしき女は、ただ無言で、その小さな背中を見ていた。
「……浮かない顔だな、リーダー」
ガガーランが、窓枠にもたれて声をかけた。
「浮かぶ要素があるなら教えてほしいくらいだわ」
ラキュースが表情を曇らせる。
「地方には
ローデンが現状を伝える。
「陽光の連中も主力を抑えるのでいっぱいいっぱいだろうからね~。信仰の火は獣人に良く効くけど、ぶっちゃけそこまで強くもないからな~」
「雑魚は減らせるけど強い個体は無理だろうね~」とクレアは続ける。
主力を押し返せたとしてもこういったはぐれた獣人による被害はしばらく続くだろう。
ラキュースはそういったことを考えると暗澹たる気持ちになるのだった。
*
その日の夕方、一行は国境近くの宿場町に入った。
大きくはないが、低い石壁に囲まれた町だ。中には宿屋と酒場、兵の詰所が並んでいる。
街道沿いの町であるのに暗い雰囲気が漂っている。
宿屋の食堂で簡単な夕食を済ませると、ガガーランは早々に酒場へ、双子は部屋に荷を運び、イビルアイはローデンと地図を広げて明日の行程を確認し始めた。
クレアは、食堂の隅の椅子にもたれながら、壁に掛けられた色あせた十字架をちらりと見上げる。
「教会、あるんだ?」
「一応は、ね」
宿屋の亭主が、皿を片付けながら答えた。
「巡礼に来る人なんて、もうほとんどいませんけど。最近は、祈るより荷をまとめて逃げる方が忙しいから」
「神様も暇じゃないってことかねぇ」
「さあ、どうでしょうね」
亭主は曖昧に笑い、カウンターの奥へ引っ込んでいった。
クレアは椅子から腰を上げ、イビルアイたちのところへ歩いていく。
「ちょっと外。教会に顔出してくる」
「教会?」
イビルアイが仮面を向ける。
「殿下から“沿道の教会で聞けることがあったら聞いておけ”って頼まれててさ。戦況でも、逃げてきた人の話でも、何かあればね」
「……そういうことなら、本来は二人一組で行くべきだと思うが」
「お堅いねぇ。宿場の教会で何が起きるっていうのさ」
「何も起きないでほしいから言っている。ローデン、兵を一人つけられるか?」
「今は詰所も手いっぱいですからね。夜の巡回に穴を開けたくはありません」
ローデンは申し訳なさそうに首を振る。
「教会まではすぐそこですし、街道沿いから外れるわけでもない。クレアさん一人なら、まだ危険は少ないでしょう」
「ほらね。さくっと行って、さくっと戻るから」
クレアは笑い、外套の襟を立てて宿を出た。
*
夜気は思ったよりも冷たく、鼻先に鉄の匂いが微かに残っていた。
昼間に通った砦では、抜き身の剣が何本も見えていた。まだこの町に血の匂いは漂っていないが、その気配は迫ってきている。
石畳の路地を抜けると、小さな教会が見えてきた。
木造の礼拝堂に、色の抜けたステンドグラス。扉は鍵がかかっておらず、押せば軋む音を立てて開く。
中には誰もいない。蝋燭も灯っていない。
クレアは一歩足を踏み入れ、視線を巡らせる。
右手の壁際、目立たない位置に小さな扉がある。普通なら掃除用具が入っている物置にしか見えない。
扉を指の関節で軽く叩き、ひと呼吸置いてから、低く言った。
「──“死はすべてを平等にする”」
奥で小さな物音がした。
しばらくして、扉が内側からわずかに開く。細い蝋燭の光とともに、フードを被った男の顔が覗いた。
痩せた頬に、目だけが妙にぎらついている。
「……古めかしい合言葉だな」
「私は嫌いじゃないけどね」
「最近は表の教会から入ってくる者は、そう居ないからな」
男は扉を広く開き、クレアを招き入れた。
狭い階段を下りると、湿り気を帯びた空気が肌に触れる。
地下室には粗末な机と椅子、棚には黒いローブと汚れた本が並んでいた。
数人の男女がいて、その全員が、クレアを見る目を一瞬だけ細める。
「よく来た、巡礼の姉妹」
先ほどの男が口を開く。
「王国に取り込まれたと聞いたが?」
「まあ、立場はできたかな」
クレアは部屋の隅の骨の杖を一瞥した。
この空気。この匂い。
ズーラーノーンの隠れ家はどこも似たようなものだ。
「第三王女の話は聞きたい?」
「王都の噂は聞いている。我らも耳を塞いでいるわけではない」
男は肩をすくめる。
「“民の国”を掲げて貴族を締め上げた王女殿下、か。おかげで王都周辺で死体を集めるのは少しやりにくくなったよ」
「そりゃ悪いね。こっちも信用を得ないとだから」
「土産はあるということか?」
男はにやりと笑った。
「獣人と竜王国。あんたたちも注視してるんでしょ?」
「当然だ。死と混乱が溢れる場所に、我らが行かぬ理由はない」
男は棚から粗末な地図を取り出し、机の上に広げた。
竜王国の輪郭。その南側に、赤い印がいくつも付いている。
「ここ最近、我らが見聞きした面白い場所だ」
「面白いねぇ」
「南部の村々がかなり獣人に襲われている。だが、全部が同じように荒らされているわけではない」
男は指で地図をなぞった。
「獣人どもが好き勝手に暴れた後は、血の匂いが残る。骨と肉と、燃え残った家と。
だが──数箇所、奇妙に片づいている村が見つかっている」
「片づいてる?」
「死体も、半端に残った武具もない。獣人も残っておらず綺麗になっている」
地下室の他の者たちが、それぞれに頷く。
「我らの仲間が死体集めに向かったが、何も拾えずに引き返してきた。肉片すらなかったそうだ」
クレアは椅子の背にもたれ、組んだ足を組み替えた。
「獣人がきれいに片づけて帰るなんて、まずありえない」
「そうだな」
「じゃあ、誰かが掃除してるってことね。竜王国側?」
「そこが妙でな」
男は指を止める。
「竜王国の軍が通った形跡もない。避難民が組織的に片づけた様子もない。
ただ、村の外に十字架を建てた塚がある。念の為、掘り返してみたが、しっかりと焼かれた骨だけが入っていた」
クレアは鼻で笑った。
「誰かがご丁寧に火葬して墓を建てて回ってるってこと?」
「そういうことになる」
男は肩をすくめる。
「少なくとも我々とは相容れない可能性が高い。その正体を確かめて欲しい」
男の視線が、クレアを射抜く。
クレアは肩を竦めた。
「私たちは獣人を減らしに行くのであって、謎解きに行くわけじゃないよ」
「だが、王国の姫は謎解きが好きなのではないか?」
クレアは笑い、否定も肯定もしなかった。
「そっちからの土産はそんなところ?」
「ほかにもいくつかあるが……」
男は少し考え、首を振った。
「そちら次第だな」
「賢明だね」
クレアは立ち上がり、机の上の地図をもう一度眺めた。
赤い印のいくつかを指先でなぞる。
それはどこかに移動しているようにも見える。
「どこかを目指している?」
「心当たりは?」
「さあね」
クレアは唇だけで笑う。
「誰かが実験してるのかもね」
地下室の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
男はわずかに目を細めた。
「謎かけでもしているのか?」
「さあね」
クレアはあっさりと言った。
「……情報の対価は渡すべきでは?」
「まあ
「……妥当なところだろう。ひとまずは忠誠がまだあるということにしよう」
「別にアンタらに忠誠を捧げた訳じゃなくて、闇の神の敬虔なる信徒ってだけだからね。勘違いしないように」
腰のスティレットを撫でる。
冷たい感触が身体がそこにあることを教えてくれる。
「……忠告をひとつ」
クレアは振り向きながら言った。
「王国の姫は世間で思われているような、善良な奴じゃないよ。自分の害となるものには冷徹だ」
「心得ておこう」
男は素直に頷いた。
「お前も、死に場所を間違えぬように」
「自分で死に場所が選べればいいんだけどね」
クレアは片手を挙げ、階段を上がっていった。
*
教会の礼拝堂に戻ると、外の冷気が一気に押し寄せてくる。
さっきまで地下にいたせいで、夜気がやけに新鮮に感じられた。
星の光は、雲に隠れてほとんど見えない。
町の外れからは、遠く砦の方角に灯りがいくつか見える。
その光の向こうに、赤い印がついた地図の村々を思い浮かべた。
「……ラナーならすぐわかるんだろうねぇ」
誰に言うでもなく呟いてから、クレアは宿へと戻った。
*
宿屋の部屋では、イビルアイが机に紙を広げていた。
ラナーから預かった帳面だ。
クレアが入ると、イビルアイはちらりと仮面を向ける。
「遅かったな」
「ちょっと話し込んじゃってね」
クレアは外套を脱ぎながら言った。
「教会の人たちも、戦が長引くと大変みたいよ」
「……何か情報はあったか?」
イビルアイが、わずかに言葉を選ぶように問う。
クレアは少しだけ考え、肩をすくめた。
「噂程度だけど、獣人の食べ残しすら見つからない村があるらしい」
「きれいに、か」
「しっかりと弔われてるらしい」
イビルアイはしばらく黙ってから、帳面の端に小さく何かを書き留めた。
クレアはベッドに腰を下ろし、背を壁に預ける。
瞼を閉じると、赤い印のついた地図と、地下室の湿った空気が思い出された。
明日には、竜王国との国境が見えてくるだろう。
少し仕事が立て込んでるので、次回更新に三日くらい時間を頂くと思います。