疾風走破と黄金姫   作:火屋

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第四話 竜の血

 

 

帝国の国境を越えた瞬間、世界の色が変わったように感じられた。

 

帝国領で見た整然とした石畳や、手入れされた街道は鳴りを潜め、代わりに車輪が拾うのは、荒れた大地の無骨な感触だけになった。

 

風に乗って運ばれてくる匂いも違う。

乾いた土の香りは消え、湿った泥と、焦げた木材、そしてどこか甘ったるい腐敗臭が鼻腔にまとわりつく。

 

馬車は、竜王国の領土を南下していた。

 

窓の外に広がるのは、かつて農村だった残骸だ。

踏み荒らされた麦畑。屋根の落ちた家屋。

 

だが、奇妙なことに「死体」が見当たらない。

 

血痕はある。争った跡もある。

だというのに、死者だけがどこかへ消え失せている。

 

 

「……気味が悪いくらい静かね」

 

 

ラキュースが、窓枠に指をかけながら呟いた。

 

 

「地図によれば、この辺りは先週の段階で防衛ラインが突破された地域よ。避難が間に合ったとは思えないけれど……」

 

「連れ去られたか、喰われたか」

 

 

ガガーランが不愉快そうに鼻を鳴らす。

 

 

「獣人どもにしちゃあ、食べ残しがなさすぎる気もするがな」

 

 

クレア──クレマンティーヌは、座席の隅で腕を組み、浅い眠りを貪るふりをしていた。

 

だが、その意識は冷え切っている。

 

革手袋の中で、指先が微かに粟立つ。

この空気感。この、「何もない」という違和感。

記憶の底にある、古い蓋が開きかけていた。

 

──脳裏によぎる。

それは、彼女がまだ十三にも満たない頃。漆黒聖典に入る前、ただの「有望な神官戦士」として戦場に放り込まれていた時代の記憶だ。

 

雨の降る森だった。

 

亜人の集落を殲滅する任務。味方の部隊は三十名。敵はその五倍。

 

泥に足を取られ、友人が叫び声を上げて倒れる。亜人の斧が振り下ろされる。

クレアは助けようと手を伸ばす。

だが、その手より先に──影が走った。

 

巨大な(あぎと)

 

友人も、亜人も、泥も、木々も。

 

すべてを等しく呑み込み、噛み砕く、圧倒的な捕食者。

 

その背後で、金色の髪の男が微笑んでいた。

 

 

『ああ、汚れているね。綺麗にしなくちゃ』

 

 

男は、友人のちぎれた腕を拾い上げ、まるで汚れたハンカチでも扱うように、魔獣の口へと放り込んだ。

 

 

『神の庭に、無駄なものは要らないんだよ』

 

 

──ッ。

馬車が大きく跳ねた衝撃で、クレアは目を見開いた。

心臓が早鐘を打っている。額には冷たい汗が滲んでいた。

 

 

「……悪い夢でも見たか?」

 

 

向かいに座るイビルアイが、仮面の奥から視線を投げてくる。

 

 

「……いや。ちょっと、昔の遠足を思い出しただけ」

 

 

クレアは軽口で返し、窓の外へ視線を逃がした。

 

そこには、焼け落ちた集落の跡が見えた。

煙も上がっていない。死体もない。

 

ただ、不自然なほど綺麗に均された地面だけが広がっている。

 

(似てる……)

 

あの日の森と、今のこの風景。

徹底的に掃除された、無の光景。

 

アイツがいるという確証はない。

だが、この国で起きている惨劇の裏側に、あの男と同じ美学を持つ何かが蠢いている予感が、クレアの喉を締め付けた。

 

 

 

 

数日後。

一行は竜王国の首都に到着した。

 

城壁に囲まれた都市は、人と物で溢れかえっていた。

だが、それは繁栄の証ではない。

 

地方から逃れてきた難民たちが、路上や広場を埋め尽くしているのだ。

 

荷車に家財道具を積んだ家族。親とはぐれて泣く子供。

包帯を巻いた兵士。

市場には物が少なく、誰もが血走った目でわずかな食料を奪い合っている。

 

 

「……限界ですな」

 

 

ローデンが、手帳にペンを走らせながら重い口調で言った。

 

 

「首都の機能が麻痺しかけています。これでは、前線への補給もままならないでしょう」

 

 

クレアは、群衆の目を観察する。

 

恐怖。疲労。そして、「誰かが何とかしてくれるはずだ」という、縋るような視線。

 

かつての自分が、神に、兄に向けていた目と同じだ。

 

 

(弱者の目。……反吐が出るわ)

 

 

馬車は群衆をかき分け、王城へと進む。

 

歴史を感じさせる石造りの城だが、その警備は厳重を通り越して神経質だった。

 

何度も検問を受け、ようやく中庭に通される。

 

そこで待っていたのは、文官のわりにはがっしりした体型をした中年にさしかかった男であった。

竜王国の宰相だ。

 

 

「お待ちしておりました!リ・エスティーゼ王国の使節団の皆様!」

 

 

宰相は、転がるように駆け寄ってくると、ラキュースの手を両手で握りしめた。

 

 

「よくぞ、よくぞ来てくださいました!

帝国の連中は手を貸さんと言うし、法国は焦らすばかりで……!

ああ、これでやっと陛下に良い報告ができる!」

 

「……ええ、微力ながら尽力させていただきます」

 

 

ラキュースが少し引き気味に応対する。

その様子を、ティアとティナが後ろから小声で品評した。

 

 

「中間管理職の悲哀を感じる」

 

「胃薬あげたい」

 

 

宰相に案内され、一行は城内を進む。

廊下ですれ違う文官たちも、皆一様に早足で、目の下に隈を作っていた。

 

この国の中枢が、過労とストレスで崩壊寸前であることが肌で感じられる。

 

通された謁見の間は、帝国のそれと比べれば質素だったが、歴史の重みを感じさせる造りだった。

 

だが、玉座に座る人物は、その重厚な空気に似つかわしくないほど小さかった。

 

黒髪に、黒い瞳。

豪奢なドレスに身を包んでいるが、その体躯は十歳にも満たない少女そのものだ。

 

竜王国女王、ドラウディロン・オーリウクルス。

 

「七彩の竜王」の血を引く、この国の守護者である。

 

 

「──遠路はるばる、よくぞ参った」

 

 

少女の口から発せられたのは、見た目にそぐわぬ、落ち着いた威厳ある声だった。

 

演技ではない。その瞳の奥には、数多の苦労を重ねた者特有の、濁った光が宿っている。

 

 

「リ・エスティーゼ王国の使節団、心より歓迎する」

 

 

ラキュースが進み出て、膝をつく。

 

 

「お初にお目にかかります、陛下。

 第三王女ラナー殿下の名代として、救援に参りました。蒼の薔薇、ならびに王国使節団です」

 

「うむ」

 

 

ドラウディロンは、その小さな手を顎に当てる。

視線が一行を走るのを感じる。

 

その背後で、ティアとティナが、我慢しきれないといった様子で囁き合った。

 

 

「……ちっちゃい」

 

「かわいい」

 

「ポケットに入りそう」

 

「お前たち!」

 

 

イビルアイが小声で叱責するが、ドラウディロンの耳はそれを拾っていた。

 

 

「……ふん。相変わらず、外の人間はわらわの鱗しか見ぬようだな」

 

 

女王は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

 

「宰相! 茶だ! それもとびきり渋いやつを! 喉が渇いてかなわん!」

 

「は、はいぃっ! ただいま!」

 

 

宰相が、慌てて飛び出していく。

そのやり取りを見て、クレアは眉を上げた。

 

(……随分と、気安い主従ね)

 

絶対的な主従関係というよりは、共に泥舟に乗る運命共同体のような、奇妙な連帯感がそこにはあった。

 

 

「さて、茶が来るまでの間、本題に入ろうか」

 

 

ドラウディロンは、玉座の上で足を組み替えた。

短い足が、宙でぷらりと揺れる。

 

 

「ラナー王女の噂は聞いておる。

 国内の貴族どもを黙らせ、帝国の皇帝とも渡り合う、稀代の智者だとか。

 ……して、その智者が、なぜ今更、死にかけの我が国に手を差し伸べる?」

 

 

少女の姿をした女王の目が、鋭くラキュースを射抜く。

ただの幼女ではない。竜の血を引く、超常の存在の末裔。

そのプレッシャーに、ラキュースは背筋を伸ばした。

 

 

「人類全体の守護のため。……それが表向きの理由でございます」

 

「表向き、か。正直でよい」

 

 

ドラウディロンはニヤリと笑った。

 

 

「で、本音は? 我が国を属国にでもするつもりか? それとも、わらわの血が目当てか?」

 

「いいえ」

 

 

ラキュースは首を振った。

 

 

「殿下が求めているのは、もっと単純なものです」

 

ラキュースは、懐から「二つ目の袋」を取り出した。

ラナーから託された、竜王国への手土産だ。

 

中に入っていたのは、一通の手紙と、小さな小瓶に入った香油だった。

 

ラキュースは手紙に目を通し、ふっと表情を緩めた。

 

 

「……なるほどね。あの子、相変わらずだわ」

 

「何だ、それは」

 

 

ドラウディロンが身を乗り出す。

 

 

「殿下からの、贈り物です。

 手紙にはこうあります。

 ──『お婆様には、甘いお菓子よりも薬の方が喜ばれるかと思います』と」

 

 

ラキュースは、うやうやしく小瓶を差し出した。

戻ってきた宰相がそれを受け取り、ドラウディロンの手元へ運ぶ。

 

女王は怪訝そうに小瓶を開け、匂いを嗅いだ。

爽やかだがどこか薬草じみた、鼻の奥がすうっとする香り。

 

華やかな社交界で使われるような甘いものではない。

筋肉の強張りをほぐし、血行を良くするための、実用的な薬用香油だ。

 

それも、かなり年季の入った貴婦人が好むような。

 

 

「……こ、これは……」

 

 

ドラウディロンは、引きつった笑いを漏らした。

 

 

「くっ、くく……!」

 

 

幼い身体を震わせて、老婆のように笑い出した。

 

 

「お婆様か! 言うではないか、王国の黄金姫!

 わらわの苦労を見抜いておったか!」

 

 

この国の民は、彼女を「可憐な幼き竜の末裔」として崇めている。

 

だが、遠く離れた王国の姫は、手紙一つよこさずに見抜いて見せた。

 

この幼い皮の下に、国政と演技に疲れ果て、肩こりと腰痛に悩む「老婆」がいることを。

 

『無理をするな』ということか、それとも『年寄りの冷や水は見ていられない』という皮肉か。

 

どちらにせよ、悔しいが、今の彼女には一番必要なものだった。

 

 

「陛下、これは……?」

 

 

宰相がおずおずと尋ねる。

 

 

「よい! 気に入ったぞ!」

 

 

ドラウディロンは香油を大切そうに持ちながら、玉座に深くもたれた。

 

 

「宰相、この者たちに最上の部屋を用意せよ。それと、前線の地図と現状の報告書をありったけ持ってこい」

 

「は、はいっ!」

 

 

宰相が再び走り去っていく。

その背中を見送りながら、ドラウディロンはラキュースに向き直った。

 

 

「蒼の薔薇よ、そして王国の使節よ。わらわの国を──わらわの民を、獣人の牙から守ってくれ。

 その働きには竜の血にかけて報うことを約束しよう!!」

 

「はっ!」

 

 

ラキュースたちが深く頭を下げる。

その背後で、クレアは静かに女王を観察していた。

 

(……ラナーも縛られる同じ化け物に同情でもしたのかね)

 

竜王の血を引く人間。

だが、目の前の童女からはどうしようもない「疲労」と「人間臭さ」が漂っていた。

 

神の血を引きながら、国という重荷に潰されそうになっている姿。

それは、どこか自分たち──血統や才能に縛られた者たちの末路に見えた。

 

(こいつも拾うつもりなのかしらね)

 

クレアは、小さく息を吐いた。

この国の行く末には興味がない。

だが、あの幼い老婆が、獣人に食い殺されるのは、なんとなく寝覚めが悪い気がした。

 

 

 

 

翌朝、一行はローデンの手配した馬車ではなく、軍用の幌馬車に乗り換えて東部戦線へと向かっていた。

 

道中、すれ違う兵士たちの列を見て、ガガーランが露骨に顔をしかめた。

 

 

「おいおい……マジかよ」

 

 

彼女の視線の先には、行軍というよりは敗走に近い兵の列があった。

 

足並みは揃わず、装備も統一されていない。

革鎧だけの者、錆びた槍を持つ者、中には農具のようなものしか持っていない者もいる。

 

何より、目が死んでいた。

戦う者の目ではない。「助けてくれ」と何かに縋るだけの、怯えた子供のような目だ。

 

 

「ひどいですね」

 

 

ローデンが手帳に何かを書き込みながら、重い口調で言った。

 

 

「帝国の職業軍人とは比べるべくもありませんが……我が王国の徴募兵と比べても、練度が低すぎます」

 

「練度以前の問題だわ」

 

 

クレアが、頬杖をつきながら冷ややかに言い放つ。

 

 

「『戦う気』がないのよ、こいつら」

 

 

幌の隙間から、農夫上がりのような若い兵士と目が合った。

彼はクレアたちを見ると、パッと顔を輝かせた。

 

 

「お、王国の援軍だ! アダマンタイト級冒険者様だ!」

 

 

その声に、周りの兵士たちも一斉にこちらを見る。

 

 

「助かった、これで俺たちは助かるんだ!」

 

「竜王様が遣わしてくれたんだ!」

 

 

歓声が上がる。

 

だが、それは「共に戦う仲間が来た」喜びではない。

「代わりに戦ってくれる盾が来た」という、依存の喜びだ。

 

クレアの目には、彼らの精神構造が透けて見えた。

この国は「竜王」という絶対的な守護者によって作られた。

だから、民の根底には染み付いているのだ。

 

──困ったら竜王様が助けてくれる。

──強い誰かが守ってくれるのが当たり前。

 

だが、竜王は去り、残されたのは「守られることに慣れきった弱い羊」たちだけ。

 

そこに、獣人という狼が放たれた。

羊たちは慌てて角の生えたふりをしようとしたが、付け焼き刃の武器で狼に勝てるはずもない。

 

負けて、死んで、生き残った者はさらに怯え、練兵する暇もなく、戦い方すら知らずに前線へ送られる。

 

 

「悪循環ね」

 

 

クレアは吐き捨てるように言った。

 

 

「弱いから死ぬ。死ぬから育たない。育たないから弱いまま。

 ……良くない安定の形ね」

 

ラキュースも苦い表情を浮かべている。

 

クレアも視線を切った。

 

かつての幼い自分も、そうだったのかもしれない。

六大神という絶対的な力に縋り、兄という天才の背中に隠れ生きていた。

 

彼らを見ていると、過去の自分が重なって見え、無性に苛立つ。

 

だが、今の彼女は違う。

ラナーという飼い主は、餌はくれるが、決して甘やかしてはくれない。

 

『自分の価値は自分で示せ』という無言の圧力が、クレアを研ぎ澄ませている。

 

その首輪の重さが、今のクレアにとっては唯一の誇りだった。

 

 

「到着しました」

 

 

御者の声で、馬車が止まる。

東部戦線の要所。城塞都市とは名ばかりの、急造された土壁で囲まれた拠点。

 

その向こう側から、地響きのような唸り声と、太鼓の音が響いてくる。

 

獣人の軍勢だ。

 

風に乗って、またあの臭いがした。

獣臭に混じって漂う、強烈な酸と腐敗の気配。

 

 

「さて」

 

 

ラキュースが魔剣の柄に手をかけ、覚悟を決めた顔をする。

 

 

「行きましょう。あの弱い羊を守るのが、今の私たちの仕事よ」

 

「へいへい。まあ仕方ねぇよな」

 

 

ガガーランが大槌を担ぐ。

 

クレアは、鞄からスティレットを取り出し、太もものホルダーに装着した。

 

戦場の空気。血と土の匂い。

 

クレアは、修道女の仮面を脱ぎ捨て、暗殺者の目を細めた。

張りぼての盾しか持たないこの国で、本物の牙を持つ者が誰なのか。

 

それを教える時間の始まりだった。

 

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