疾風走破と黄金姫   作:火屋

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第六話 膠着と予兆

 

太陽が西の稜線に沈み、空が毒々しい紫と赤のグラデーションに染まる頃、戦場はようやく静寂を取り戻した。

 

東部戦線、最前線の砦。

急造された土壁には、無数の爪痕と、乾きかけた赤黒い血がこびりついている。

 

だが、その上に立っているのは人間たちだった。

 

 

「お、俺たちは……生き残ったのか?」

 

「勝った……勝ったんだ!」

 

 

誰かが上げた声を皮切りに、歓声が波紋のように広がっていった。

 

抱き合って泣く者、槍を掲げて叫ぶ者、その場に崩れ落ちて神に祈る者。

 

圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、彼らは生き延びた。

 

蒼の薔薇という英雄の介入によって、首の皮一枚で勝利をもぎ取ったのだ。

 

砦の内側では、さっそく勝利の宴──といっても、配給の堅パンと薄いスープによる質素なものだが──が始まろうとしていた。

 

焚き火が焚かれ、張り詰めていた緊張が緩んでいく。

 

だが、その明るい熱狂の輪から少し離れた城壁の上には、冷たい空気を纏う者たちがいた。

 

 

「……気に食わねえな」

 

 

ガガーランが、愛用の戦鎚をドスンと足元に置き、兜を脱いで乱暴に髪をかき上げた。

 

その視線は、歓喜に沸く味方ではなく、闇に沈みゆく眼下の平原に向けられている。

 

 

「大将首を取ったんだ。普通なら総崩れになって、我先にと逃げ出すはずだろ?

 なのに、なんであいつらは踏みとどまってやがる」

 

 

彼女の指摘は的確だった。

 

将軍を失った獣人軍は、確かに一時撤退した。だが、それは潰走ではない。

 

数キロ後方、闇の奥で無数の松明が揺れている。

 

彼らは整然と距離を取り、そこで足を止め、こちらを睨み続けているのだ。

 

その光の数は、昼間の戦いで減ったようには見えない。むしろ、後方から続々と合流する増援によって、黒い海はさらに厚みを増しているようにさえ見えた。

 

 

「指揮系統が崩壊していない証拠だ」

 

 

イビルアイが、仮面の奥で目を細める。

 

 

「あるいは……我々が討ち取った将軍さえも、捨て駒の一つに過ぎなかったか」

 

「両方だろうね」

 

 

背後からかけられた声に、全員が振り返る。

 

そこには、戦場の土埃を払い落とし、いつもの飄々とした笑みを浮かべたクレア──クレマンティーヌが立っていた。

 

彼女の腰には、戦利品らしき奇妙な物体がぶら下げられている。

 

 

「おかえり、クレア。随分といい仕事をしたじゃない」

 

 

ラキュースが労いの言葉をかける。その顔には疲労の色が濃いが、仲間が無事に戻った安堵が浮かんでいた。

 

 

「ええ、運が良かったわ。道中の雑魚が『いなくなって』いたおかげで、将軍の寝首を掻くことに専念できたもの」

 

 

クレアは皮肉な笑みを深め、腰からぶら下げていた物をガガーランへと放り投げた。

 

 

「お土産よ。そのワンちゃんが大事そうに持ってた太鼓」

 

「ああん? なんだこりゃ、ボロボロじゃねえか」

 

 

ガガーランが片手で受け取ったのは、奇妙な文様が描かれた皮張りの太鼓だった。

 

大きさは人間の頭ほど。獣の骨を枠に使い、何かの皮革を強く張って作られている。

装飾は荒削りだが、そこからは禍々しい魔力の残滓が漂っていた。

 

 

「見せてみろ」

 

 

イビルアイが太鼓を受け取り、低位の鑑定魔法を行使する。

仮面の下で、彼女の紅い瞳が微かに光った。

 

 

「……ふむ。これはただの楽器ではないな。

 骨董品に近い古さだが、強力な『精神感応』の術式が編み込まれている。

 おそらく、獣人の氏族長クラスが持つ、群れを統率するための祭具の一種だろう」

 

「じゃあ、これをドンドコ叩けば、あいつらが踊り出す?」

 

 

ティアが興味津々で太鼓を突っつく。

 

ティナも横から顔を出し、「踊る獣人、見たい」と呟く。

 

 

「残念ながら、そう簡単にはいかん」

 

 

イビルアイは首を振った。

 

 

「これは『血』を鍵にしているタイプだ。特定の血統を持つ獣人が魔力を込めなければ、ただの太鼓に過ぎない。

 人間である我々が叩いても、不愉快な音が出るだけだ」

 

「ちっ、なんだよ。ガラクタかよ」

 

 

ガガーランがつまらなそうに鼻を鳴らす。

 

 

「ま、敵将を討った証拠にはなるわ。ラナーへの報告材料にはなるでしょ」

 

 

クレアは興味なさげに言い捨てた。

 

だが、その内心は穏やかではなかった。

 

彼女が不快なのは、太鼓が使えないからではない。

 

この太鼓を手に入れた経緯そのものが、兄の手のひらの上で踊らされた結果だと感じているからだ。

 

兄は、邪魔な護衛や斥候をすべて排除し、妹を最短距離で敵将の元へと導いた。

 

その、お膳立ての上でクレアは獲物を狩り、戦利品を得た。

 

結果だけを見れば、兄妹の完璧な連携だ。

 

それがどうしようもなく、虫唾が走る。

 

この太鼓は、兄から与えられた賞賛の証のように思えてならなかった。

 

 

(……ムカつく。いつか絶対、あのすました顔面にこの太鼓を叩きつけてやる)

 

 

「それで、クレア。敵陣の様子はどうだった?」

 

 

ラキュースの問いかけで、クレアは思考を切り替えた。

 

私情は後だ。今は情報を共有しなければならない。

 

 

「最悪よ。……あいつら、引かないんじゃない。引けないのよ」

 

 

クレアは、遠く揺れる松明の海を顎でしゃくった。

 

 

「後ろにいるの。もっとヤバいのが」

 

「ヤバいのが?」

 

「ええ。正確にはヤバい化け物に退路を塞がれているから、前に出るしかないのよ」

 

 

クレアの言葉に、蒼の薔薇の面々が顔を見合わせる。

彼女は詳細を語らなかったが、そのニュアンスは伝わったようだ。

 

獣人たちが恐れているのは、人間の反撃ではない。

 

彼らの背後、補給線や退路となるはずの森林地帯に潜む、見えない捕食者の気配に怯えているのだ。

 

逃げれば喰われる。進むしかない。

 

兄は、獣人の群れを恐怖でコントロールし、この砦へ──クレアたちの元へ、より濃密な殺意として押し固めようとしている。

 

 

「……なるほどな。敵は背水の陣を敷かされているわけか」

 

 

ラキュースが、覚悟を決めたように剣の柄を握りしめた。

 

 

「今日の勝利はただの時間稼ぎにしかならない。明日からが本番というわけね」

 

 

その時、城壁の下からローデンが駆け上がってきた。

いつも冷静な彼が、珍しく息を切らし、顔面を蒼白にしている。

 

 

「ら、ラキュース様! 斥候より緊急の報告が!」

 

「どうしたの? 落ち着いて」

 

「は、はい……。東方より、さらに大規模な軍勢が接近中とのことです。

 先ほどまでの敵とは装備の質が違います。

 掲げられている旗印は……『大食』。獣人国の王族直属軍です!」

 

 

その場に、重苦しい沈黙が落ちた。

 

獣人国を統べる獣の王。その血族が率いる軍勢。

彼らは人間を、対等な敵とは見ていない。

交渉の余地など欠片もない、「食料」としか見ていないのだ。

ただ食欲と蹂躙のためだけにやってくる、生きた災害。

 

 

「王族のお出ましかよ……」

 

 

ガガーランが、引きつった笑みを浮かべる。

 

 

「こいつは、骨が折れそうだ」

 

 

 

 

深夜。

 

戦勝の宴も終わり、兵士たちは泥のように眠りについていた。

明日の命も知れぬ中、束の間の安息を貪る寝息が、砦の中に満ちている。

 

クレアは一人、見張りの松明から離れた暗がりに座り込んでいた。

 

手元には、奪った太鼓が転がっている。

 

ラキュースたちは作戦会議と仮眠に入った。クレアも休むべきだが、神経が逆立って眠れそうになかった。

 

夜風に乗って、またあの臭いが鼻をかすめる。

酸と、微かな腐臭。

 

 

(……配置が変わった)

 

 

クレアの鋭敏な感覚が、戦場の空気の変化を捉えていた。

 

昼間、彼女が駆け抜けた右翼の森。

あそこから、獣人の気配が完全に消えている。

 

その代わり、その周辺にいたはずの獣人部隊が、何かに押し出されるようにして中央へ密集し始めていた。

 

左右の逃げ道を塞ぎ、中央突破のみを選択させる陣形。

 

兄は、盤面を整理している。

 

雑多に散らばった駒を、外側から削り取り、中央へと誘導しているのだ。

 

まるで、妹が戦いやすいように「敵をひとまとめ」にしているようでもあり、同時に「逃げ場をなくして追い詰めている」ようでもあった。

 

 

「……過保護なこと」

 

 

クレアは、暗い笑みを浮かべた。

 

これが兄なりの「援護」なのか、それとも「最高の舞台で死ね」という手向けなのか。

 

あるいは、ただ単に「効率的に掃除するため」にゴミを集めているだけなのか。

 

どちらにせよ、明日ぶつかる敵は、今日とは比べ物にならない密度になるだろう。

 

背後を塞がれた獣人は、死兵となって突っ込んでくる。

 

そして、その奥には王族率いる本隊も控えている。

 

(上等じゃない)

 

クレアは立ち上がり、王都の方角──ラナーのいる空を見上げた。

 

頼りない兵士。迫りくる獣の王族。

そして、背後で笑う兄。

 

詰みかけの盤面だ。

だが、今のクレアには、不思議と恐怖はなかった。

 

『自分の価値を示せ』という、あの絶対的な主人の言外の命令が恐怖を上書きしていた。

 

 

「……精々、美味しいところだけ頂いて帰るわよ」

 

 

彼女は足元の太鼓を拾い上げ、鞄に放り込んだ。

ガラクタかもしれない。

 

だが、あの強欲な飼い主なら、このガラクタすらも何かのチップに変えてみせるかもしれない。

 

そう信じられること自体が、クレアにとっては救いだった。

 

 

「さて、と」

 

 

クレアはスティレットを抜き、月光にかざした。

妖しげな光がクレアに落ち着きを与える。

 

夜明けまで、あと数時間。

東の空が、血のような赤色に染まり始めていた。

 

それは、これから始まる死の舞踏を予感させるようだった。

 

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