獣人たちの敗色が濃厚となり、撤退の雰囲気が漂っていた時、怪物が突如現れた。
漆黒法典第五席次たるクワイエッセが残していったヒュドラが獣人軍の後方で暴れ狂う。
それにより殺到してきた数多の獣人を、蒼の薔薇は疲弊しながらも倒し続けていた。
この調子であれば、数刻のうちにヒュドラによって分断された敵軍を殲滅しきることができ、こちらも撤退の機会を作ることができると思われた。
しかしながら、その希望的観測が実現することはなかった。
九つの首が、何かに怯えるように鎌首をもたげ、後ずさる。
その再生能力と猛毒で戦場を支配していた魔獣が、震えていた。
「……なんだ?」
クレアが目を細めた先。
ヒュドラの足元に、ひとつの影が立っていた。
戦場に似つかわしくない、純白の毛並みを持つ巨躯。
身長は優に三メートルを超え、全身から立ち昇る闘気は陽炎のように空気を歪めている。
手には何も持っていない。だが、その五指についた爪は名剣のように鋭く輝いている。
獣人国王族、白獅子の大将軍──ザイード・オラスルダルと呼ばれる偉丈夫であった。
「グルゥ……騒がしいな、トカゲ風情が」
ザイードは、顔の前を飛び交う羽虫を払うように、無造作に腕を振るった。
ただの裏拳。
予備動作すらない、純粋な膂力のみによる一撃。
大気が破裂したような音が響く。
ヒュドラの九つの首のうち、三つが瞬時に弾け飛び、肉片となって四散した。
再生する暇などない。衝撃波が細胞の一つ一つまで破壊し尽くしている。
ザイードは踏み込み、残った胴体を素手で鷲掴みにすると、雑巾でも絞るようにねじ切った。
ブチブチブチッ、という繊維の断裂音と共に、伝説級の魔獣が肉塊へと変わる。
「な……ッ!?」
イビルアイが絶句する。
「ヒュドラを……素手で!? 魔法障壁も再生能力も無視して!?」
「不味い」
ザイードは、ねじ切ったヒュドラの肉を一口齧り、ペッと吐き出した。
「こんな腐った肉では腹の足しにもならんな」
彼はゆっくりと顔を上げ、遠く離れた城壁の上にいるクレアたちを見た。
その黄金の瞳が、値踏みするように細められる。
距離にして数百メートル。だが、目の前に立たれているような圧迫感が肌を刺す。
「ほう……。そちらの方が、幾分か美味そうだ」
ゾクリ、と。
クレアの全神経が警鐘を鳴らした。
格が違う。
コイツは「個」として完成された怪物だ。
英雄級すら軽く凌駕する、逸脱者の領域。
「来るわよ! 散開ッ!」
ラキュースの叫びと同時、ザイードが消えた。
否、速すぎて視界から消えたように見えたのだ。
爆発的な跳躍。数百メートルの距離を一足飛びに詰め、城壁の上に着弾する。
城壁が崩壊する。
ガガーランが、咄嗟に戦鎚を盾にして受け止める。
だが、その巨体がボールのように弾き飛ばされ、背後の櫓を粉砕して瓦礫の中に埋まった。
「ガハッ……! 重、てぇ……!」
「ガガーラン!」
「よそ見をしている暇があるのか?」
ザイードの爪が、今度はラキュースに迫る。
魔剣で受け流そうとするが、剣ごと腕が痺れ、膝が折れそうになる。
純粋な身体能力の暴力。技も魔法も、圧倒的な質量の前には無力化される。
「クソッ、速すぎる!」
ティアとティナが背後から斬りかかるが、ザイードの硬い毛皮には刃が通らない。
逆に尻尾の一撃で薙ぎ払われ、地面を転がる。
(……強い)
クレアは、戦場を滑るように移動しながら分析した。
速さ、硬さ、重さ。すべてにおいて、こちらの想定を超えている。
だが、クレアの目は死んでいなかった。
彼女は、ザイードの動きを観察する。
圧倒的な暴力。だが、そこには驕りがある。
彼は人間を敵として見ていない。せいぜい、活きのいい食材といったところだろう。
だから、攻撃が大振りだ。防御など考えていない。
(……見えない訳じゃない)
クレアの唇の端が吊り上がる。
不思議だ。
目の前の怪物は、確かに圧倒的に強い。兄貴の魔獣を一撃で屠るほどに。
けれど、その動きの"起こり"が、筋肉の収縮が、視線の動きが──手に取るように分かる。
これまでの連戦。
極限状態で最適解を選び続けてきた時間。
それが、クレアの知覚領域をこじ開けていた。
「ラキュース! 右!」
クレアの指示が飛ぶ。
ラキュースは思考するより先に身体を動かした。直後、彼女がいた場所をザイードの爪が通過し、空気を切り裂く。
「イビルアイ! 拘束!」
「間に合わせる!」
イビルアイが重力魔法を放つ。ザイードの動きが一瞬鈍る。
その隙に、瓦礫から復帰したガガーランが突っ込む。
「オラァッ! 硬ぇのが自慢らしいな!」
ガガーランは戦鎚の尖ったピック部分ではなく、打撃面をフルスイングした。
表面の毛皮を貫くのではない。
衝撃を内部に浸透させる、響きを武器とする一撃。
鈍い音が響く。
だが、ザイードは一歩も退かなかった。
膝すら折らない。
鋼鉄のような筋肉が、衝撃を完全に殺していたのだ。
「……何かしたか?」
ザイードが嗤う。再びの裏拳。
ガガーランが再び吹き飛ばされる。
「化け物がッ……!」
そこからは、一方的な蹂躙だった。
ラキュースの魔剣も、イビルアイの魔法も、決定打にならない。
傷はつく。だが、浅い。
ザイードの回復力が、こちらの攻撃力を上回っている。
「どうした? もう終わりか?」
ザイードが爪を振るうたびに、こちらの体力は削れていく。
消耗戦。
こちらの体力と魔力は底を突きかけている。
対するザイードは、息一つ切らしていない。
(……詰みね)
クレアは冷静に判断した。
普通にやれば、あと数分で全滅する。
攻撃を当てることはできている。
だが、急所は的確に外されており、致命傷を与えるだけの隙がない。
ザイードの防衛本能が、そのような攻撃を完璧に選り分けていた。
何かないか。
奴の意識を一瞬でも逸らせる、決定的な"何か"が。
そう思いながら観察を続ける。
ザイードの猛攻を上手く捌き始めたラキュースを見て、非常に頼りになるとクレアは感じる。
彼女は個の武力としては、クレアやガガーランに及ばない。
しかしながら、彼女の特異性は、その人生のすべてが他人を中心に見ているということだろう。
ラキュースは無意識に蒼の薔薇全体を統率する。
立ち位置、浮遊する剣たちの動き、腕の振り、首の動きのひとつが指示となり、蒼の薔薇が一つの生物のように動く。
ティアとティナが動きを鈍らせ、イビルアイの火力で牽制する。
ガガーランが正面で立ち合い、その後ろをラキュースが動き回り、決して相手に的を絞らせない。
それにより、クレアからザイードの認識から外れる瞬間が増えて来ている。
蒼の薔薇が安定させてきた膠着状態を利用し、クレアはさらに意図的に攻撃への参加を減らしていく。
ザイードの意識の外へと歩みを進めていく。
そして、クレアの視線が、瓦礫の中に転がるガラクタに止まった。
戦闘の衝撃で地面に落ちていたもの。
獣人の将軍から奪った『太鼓』。
そして、その近くに転がっている、新鮮な獣人の死体。
さきほどザイードの巻き添えを食らって死んだ、護衛兵の残骸だ。
(……人間には使えない。血脈による認証)
イビルアイの言葉が蘇る。
人間が叩いても音は鳴らない。
だが、獣人の手なら?
死体の手でも、血が通っていれば反応するのか?
イチかバチかの賭けだ。
クレアは走った。ザイードに向かってではない。
瓦礫の山へと。
ザイードは気付いていない。
ラキュースが吹き飛ばされるのが視界の端に移る。
それを見てザイードが飛び込んでいく。
その一瞬があれば十分だった。
クレアは死体のすぐ側に滑り込み、切断された腕を拾い上げた。
まだ温かい。
そして、太鼓を掴む。
獣人の手首をバチのように握りしめ、太鼓の革を思い切り叩いた。
ドォォン……。
腹の底に響くような、重く、湿った音が戦場に広がった。
ただの音ではない。
魂を震わせるような、魔力を帯びた波動。
「なっ……!?」
ザイードが、初めて動きを止めた。
その黄金の瞳が、驚愕に見開かれ、音のした方角──クレアを見る。
「祖霊の……鼓動? なぜ、貴様が!?」
バフはかからない。
不完全な発動ではあったのだろう。
だが、「人間が聖遺物を起動させた」というあり得ない現象が、ザイードの思考を一瞬だけ真っ白に染めた。
本能レベルの動揺。
最強の生物が晒した、致命的な隙。
「ラキュースッ!!」
クレアが叫ぶ。
吹き飛ばされていたラキュースが弾ける様にザイードに向かっていく。
浮遊する剣を頭部に向かって集中させる。
ラキュースは大上段から剣を振りぬくと見せかけ、頭部に意識が向いたザイードの足へと魔剣を突き立て、地面に縫い付けた。
そこに、イビルアイが全魔力を込め、最大化した特大の結晶の槍を放つ。
明らかに第六位階の範疇を超える威力に、受け止めたザイードの右腕がねじ切れる。
「そこだァッ!」
ガガーランが、折れた肋骨の痛みを無視して大きく跳んだ。
全体重を乗せた戦鎚が、左腕での受けを圧し潰しザイードの側頭部を捉える。
その一撃が脳を揺らす。
「──超技
ラキュースが魔剣を振り抜き、ザイードの胸板に深々と突き刺さる。
筋肉に阻まれ、心臓までは届かない。
だが、ザイードの意識を胸の痛みに向けさせるには十分だった。
防御ががら空きになる。
首筋の血管。脈打つ生命の奔流。
その一点が、赤く光って見えた。
(ああ、なんだ)
空中で体をひねりながら、クレアは思った。
兄貴も、ラナーも、こんな世界を見ていたのか。
すべてが計算通り。すべてが手のひらの上。
「じゃあね」
クレアのスティレットが閃いた。
狙うのは、ラキュースたちが作った一瞬の静寂。
その一点に、クレアの持つ運動エネルギーの全てを収束させる。
硬い音もなく、刃が吸い込まれた。
筋肉の鎧をすり抜け、骨の隙間を滑り、中枢へと至る。
「ガ…………ァ?」
ザイードの動きが止まった。
黄金の瞳から、急速に理性の光が失われていく。
理性から解き放たれた肉体が急速に力を増し、クレアを狙い身体を回転させ、その牙でもって食い千切らんとする。
クレアはその動きさえも見切っていた。
迫りくる
また、音もなく吸い込まれ、脳髄へと到達する。
脳髄の感触を感じた瞬間、自動的にそれを掻き混ぜる。
幼い頃から、戦場に立った時から繰り返した動き。
確実にその命を刈り取る動きだ。
ドォォォン……。
原始的で厳かな音を響かせながら、白き巨体が大地に倒れる。
巻き上がる土煙。
その中で、クレアは静かに着地した。
戦場にいた誰もが、その光景を信じられずにいた。
伝説級の魔獣を素手で屠った怪物が、人間たちの連携によって沈んだのだ。
彼は自分が死んだことすら理解できなかっただろう。
餌だと思っていた羽虫に、自分たちの神具の音により、殺された事実を。
「……ふぅ」
クレアは、軽く血振るいをしてスティレットを鞘に収めた。
息は上がっていない。
だが、手足は鉛のように重かった。
明らかに今までの限界を超えた動きをしたのだ。
天井を突き破る。この遠征に課せられた別の目的を達成した実感がある。
「やった……のか?」
瓦礫から這い出したガガーランが呆然と呟く。
「ええ。クレアの機転に助けられたわ」
ラキュースがへたり込み、震える手──恐怖と、極限の緊張からの解放──を握りしめた。
彼女たちも気づいていた。
自分たちが天井を越えたことに。
個の限界を超え、集団として一つの巨大な生き物のように機能した瞬間。
この死闘が、彼女たちを本当の意味での最高戦力へと鍛え上げたのだ。
「おい、クレア」
イビルアイが歩み寄ってくる。
「あの太鼓……まさか、死体の腕を使ったのか?」
「ええ。生きてる奴は協力してくれなそうだったから」
クレアは悪びれもせずに、獣人の手首を放り捨てた。
「使えるものは何でも使う。それが私の流儀よ」
「……ふん。見事だった」
イビルアイは仮面の下で笑ったようだった。
獣人軍の本隊は、王族の死に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように敗走を始めていた。
王族を失った彼らに、もはや戦う意志はない。
圧倒的な格の違いを見せつけられた彼らは、しばらくはこの地に足を踏み入れようとはしないだろう。
クレアは、足元のザイードの死体を一瞥し、興味なさげに背を向けた。
「さ、帰ろ。仕事は終わり。……われらが姫が待ってるわ」
その背中は、泥と血にまみれていたが、かつてないほどの自信を纏っていた。
戦場に風が吹く。その風は確かに、新しい時代の到来を告げていた。
*
数日後。
竜王国の王城にて、ささやかな、しかし心のこもった歓送の式が開かれた。
ドラウディロン女王は、あの日と同じように玉座に座っていたが、その表情はずっと明るかった。
彼女は、蒼の薔薇に莫大な報酬と爵位と永住権を与えた。
もちろん、竜王国にとどまってくれると思ってのものではない。
しかし、これだけ民のために戦ってくれた英雄に対して、竜王国はいついかなる時でも開かれているということを伝えたかったのだ。
そして、竜王女は別れ際にクレアを呼び止めた。
「そなた、名は?」
「……クレア、ただの治癒師です、陛下」
ドラウディロンは、鼻をならし、悪戯っぽく笑った。
「その目は、ただの治癒師の目ではない。今回もそなたが尽力してくれたことは兵より伝えて聞いておるわ!
……まあよい。ラナー王女には伝えておけ。
『友となる件、謹んでお受けする。近いうちに会いに行く』とな」
クレアは苦笑し、一礼した。
この幼い老婆もまた、ラナーの箱庭の住人──いや、隣人として、強く生きていくのだろう。
ラナーには短命な人間よりも、長命なものの価値観の方が似合いかもしれない。
願わくばラナーにとって本当の対等な友となってくれると良いと心から思った。
*
王国へと向かう馬車の中。
一行は、戦闘と連日の祝宴の疲れから泥のように眠っていた。
ラキュースだけが目を覚まし馬車の外をぼんやりと眺めていた。
その手には「三つ目の袋」が乗せられている。
『どうにもならない時に開ける袋』。
結局、使うことはなかった。
「……開けてみる?」
クレアが目を閉じたまま尋ねる。
「ええ。そうね」
ラキュースは封を切り、中の紙片を取り出した。
そこには、たった一行。
流れるような美しい文字で、こう書かれていた。
『お疲れさまでした』
「…………はあぁ~」
ラキュースは、力が抜けたように背もたれに倒れ込んだ。
「あの子……本当に、性格が悪いわ」
クレアものぞき込み、天を仰いだ。
もし、絶望的な状況でこれを開いていたら?
ラナーという圧倒的な天才でもってしても、そんな都合の良い助け船などないという、残酷な皮肉に見えただろう。
だが、生きて帰ってきた今、この言葉は最高に悪い冗談であり、同時に労いの言葉として響いた。
「一本取られたな」
いつの間にか起きていた、ガガーランが笑う。
ティアとティナ、イビルアイはまだ寝息をたてている。
この手紙を見ればイビルアイは憤慨し、双子ははしゃいだであろう。
その反応は自然に起きるまで取っておくことにする。
それに、彼女らが寝ている姿は存外可愛いものだなとクレアも素直に思っていた。
窓の外を流れる景色を眺めた。
半年近くぶりに王国へ帰る。あの箱庭へ。
そこには、もっと厄介で、もっと面白い日常が待っているだろう。
(……悪くないわね)
かつては、世界の全てが兄や神に決められた道の上の出来事に見えていた。
だが、今は違う。
泥にまみれ、それでも自分たちの足で走りきった充実感が、胸の奥に残っていた。
自身が良くない安定の形を突き破り、黄金の姫が望む予定外を手繰りよせた。
このことを早く彼女に伝えたいと思うクレアであった。