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城塞都市エ・ランテル。
リ・エスティーゼ王国、バハルス帝国、スレイン法国という大陸の三大国が接する緩衝地帯に位置し、幾度となく戦火に晒されてきた歴史を持つ要衝である。
三層の城壁に囲まれたこの都市は、王都の華やかさとは無縁の、武骨で実利的な空気を纏っていた。
石畳は軍靴と車輪によって削られ、行き交う人々の顔には常にどこか緊張感が漂っている。
その第三城壁の内側、都市の心臓部へと続く大通りを一台の豪奢な馬車が進んでいた。
王家の紋章が刻まれたその車体を見れば、門番たちも道を空けざるを得ない。
馬車の窓には厚いカーテンが引かれ、中の様子を窺い知ることはできないが、沿道の市民たちは噂話に花を咲かせていた。
王都から、高貴な「聖女様」が派遣されてきたのだと。
その馬車の中で、噂の聖女様は盛大に舌打ちをしていた。
「……ッ、この服、本当に動きにくいのよ」
クレアは、首元まで詰まった純白の神官服の襟を指で引っかけ、不機嫌そうに吐き捨てた。
金糸で繊細な刺繍が施されたその衣装は見た目の美しさと引き替えに戦闘にはこれ以上ないほど不向きだ。
生地は上質すぎて汚れを許さず、裾は長すぎて足捌きを阻害する。
腰には愛用のスティレットを隠し持っているが、この服の上からでは抜くのに遅れが出るだろう。
「我慢してください、クレア様。それが今回の"武装"なのですから」
対面に座る女性が、嗜めるように言った。
彼女はかつて王都の裏社会で「八本指」の娼館を取り仕切っていた古株の一人だ。
ラナーによって組織が解体・再編された際、その事務処理能力と統率力を買われ、このエ・ランテル支部の表向きの責任者として抜擢された。
名はサンドラという。
地味だが仕立ての良い商人の服に身を包み、すっかり堅気の顔をしているが、その眼光には修羅場を潜った者特有の鋭さが残っていた。
「分かってるわよ。……はぁ。ラナーの趣味の悪さには付き合いきれないわ」
クレアは溜め息をつき、顔の前で手を振って聖女の仮面を被り直す準備をする。
表情筋を緩め、瞳の奥にある殺気を塗り潰し、代わりに慈愛と悲哀の塗料を流し込む。
鏡を見なくても分かる。
今の自分は、誰が見ても「信仰心に篤く、心優しい神の使徒」に見えるはずだ。
かつてスレイン法国で叩き込まれた、表向きの儀礼と演技の技術が、こんなところで役に立つとは皮肉な話である。
「到着いたします」
御者の声と共に、馬車がゆっくりと停止した。
窓の外には、エ・ランテル都市長の邸宅が見える。
今日ここで行われるのは、単なる歓迎会ではない。
この都市の実権を握る男たちとの、縄張りを巡る最初の切り結びだ。
「行きましょうか、サンドラ。……いいえ、今は『商会長』と呼ぶべきかしら」
「ええ、『聖女様』。お手柔らかにお願いしますよ」
扉が開く。
差し込む秋の陽光の中へ、純白の聖女が降り立つ。
その足取りは優雅で、どこまでも淑やかだった。心の中で、目の前に並ぶ兵士たちの喉笛をどう噛み切るかシミュレーションしていることなど、微塵も感じさせずに。
*
都市長邸宅の応接室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
上座に近い席には、この都市の長であるパナソレイ・グルーゼ・デイル・レッテンマイア都市長。
白髪交じりの厳格な老紳士であり、その眼光は長年この最前線を守り抜いてきた自負に満ちている。
その向かいには、筋骨隆々とした禿頭の男。エ・ランテル冒険者組合長、アインザック。
冒険者あがり特有の荒っぽさを隠そうともしない彼は、値踏みするような視線をクレアに向けていた。
その他にも、神殿長や魔法ギルドの代表者など、この都市の「表」を動かす顔役たちが勢揃いしている。
彼らの視線は一様に冷ややかで、警戒心に彩られていた。
無理もない。王都から突然やってきた、第三王女の威光を笠に着た若い女だ。
現場の苦労も知らず、理想論を振りかざして掻き回しに来たのだと思われているのだろう。
(……分かりやすいわね、田舎の権力者ってのは)
クレアは内心で鼻を鳴らしつつ、完璧な角度でお辞儀をした。
「お忙しい中、このような場を設けていただき感謝いたします。
ラナー殿下の名代として参りました、治癒師のクレアと申します。
以後、お見知り置きを」
鈴を転がすような声。その響きに、数人の男たちの毒気が抜かれたように表情を緩める。
だが、パナソレイとアインザックの目は笑っていなかった。
「丁寧なご挨拶、恐れ入ります、クレア殿」
パナソレイ都市長が、重々しく口を開く。
「ラナー殿下の改革の手腕は、ここエ・ランテルにも届いております。
王都の浄化、誠に見事なものだと。……しかし」
彼は言葉を切り、鋭い視線をクレアの隣に控えるサンドラへと向けた。
「その改革の一環として連れてこられた『新しい人材』について、少々疑義がございます。
貴女が立ち上げた『王都直轄商会』。
そこで雇用されている者たちの中に、かつて裏社会に関わっていた者が多数含まれているという報告が上がっておりますが?」
先制攻撃だ。
やはり、彼らの情報網も馬鹿にはできない。
八本指の残党を連れ込んだことは既に筒抜けだった。
サンドラが僅かに眉を動かすが、クレアは扇子で口元を隠し、余裕を持って微笑んだ。
「ええ、その通りですわ。都市長様のお耳に入っている通り、彼女たちはかつて罪を犯した、あるいは罪に巻き込まれた者たちです」
あっさりと認めたことに、パナソレイが虚を突かれた顔をする。
「認めるのですか? 犯罪者集団をこの要衝に引き入れたと」
「犯罪者ではありません。……『更生者』ですわ」
クレアは扇子を畳み、凛とした声で言った。
「彼女たちは、王都の浄化によって行き場を失った者たちです。
都市長様、もし彼女たちをここで受け入れなければ、どうなっていたと思いますか?
数千の食い扶持を失った人間が、野盗となり、娼婦となり、再び裏社会の底へ潜り込む。
そうなれば、王国の治安は根底から崩れ去ります」
「それは……確かにそうだが、だからといってエ・ランテルで引き受ける義理はない」
「いいえ、これはエ・ランテルにとっての『利益』です」
クレアは、サンドラに目配せをした。サンドラは手元の資料を各出席者に配る。
そこには、王都とエ・ランテル間における新たな物流ルートの計画書と、自警団組織の運用案が記されていた。
「彼女たちは、裏社会で生きてきたからこそ、裏の流儀を知っています。
どのルートを使えば盗賊に襲われにくいか、どの商人が不正をしているか、ゴロツキをどう締め上げれば静かになるか。
……彼女たちを、毒をもって毒を制すのです」
「……」
続きを促すように場が沈黙している。
「現在、エ・ランテル周辺の街道警備は、冒険者や正規兵の手が回っていませんよね?
彼女たちの組織した『自警団』は、正規兵が対応しきれないスラムや路地裏、そして商隊の護衛を安価で請け負います。
もちろん、法に則った形での雇用です」
アインザック組合長が、資料を見ながら低い声で唸った。
「……確かに、最近街道のゴブリン退治依頼が減って、商人の護衛依頼が増えすぎて困っていた。
新人の冒険者じゃ荷が重いし、ベテランは割に合わねえと嫌がる。
……こいつらが雑用を引き受けてくれるなら、うちは助かるがな」
「ええ。冒険者の皆様には、より高難易度で実入りの良い魔物退治に専念していただきたい。
それがラナー殿下の意向でもあります」
クレアの言葉に、アインザックの表情が軟化した。
実利を提示されれば、彼らは動く。
パナソレイも、資料の数字──自警団運用の費用対効果の良さ──を見て、渋い顔をしながらも否定の言葉を飲み込んでいた。
「……よろしい。その『自警団』とやらが法を遵守する限りにおいて、黙認しましょう。
ただし、一度でも問題を起こせば即座に排除します」
「感謝いたします。彼女たちの手綱は、私が責任を持って握っておきますので」
クレアはにっこりと笑った。
その笑顔の奥にある冷たさに気づいたのは、隣のサンドラだけだっただろう。
「さて、次の議題ですが……こちらが本題ですわ」
クレアは空気を変えるように背筋を伸ばし、神殿長とアインザックを交互に見た。
「王都直轄の『施療所』の設立についてです」
室内の空気が再び張り詰める。
これは、エ・ランテルにおける既得権益の聖域──「ポーション利権」と「治癒魔法の相場」に踏み込む話だからだ。
「クレア殿」
神殿長である初老の男が、不快感を隠そうともせずに口を開いた。
「王都から高位の治癒師がいらっしゃるのは喜ばしいことですが、無償や安価で治癒魔法をばら撒かれては困ります。
我々神殿も、寄付金によって運営されているのです。
相場を崩されては、神への奉仕もままならなくなる」
「分かっております。冒険者組合としても、ポーションの需要が減れば、薬師や採取依頼を受ける冒険者の稼ぎが減る。……そうでしょう?」
アインザックが頷く。
治癒魔法は高価で貴重だ。だからこそ、多くの冒険者は安価なポーションに頼る。
そのバランスが崩れれば、都市の経済が回らなくなる。
「ですから、私は提案します。……『
「
聞き慣れない単語に、男たちが顔を見合わせる。
「はい。これからの施療所では、全ての患者に治癒魔法をかけるわけではありません。
まず、専門の知識を持った者が患者を診察し、三つに分けます。
一つ目は、魔法を使わなければ命に関わる重傷者や、後遺症が残る恐れのある者。
二つ目は、ポーションや包帯、薬草による処置で十分に回復する軽傷者。
三つ目は……」
クレアの声が、少しだけ低くなった。
戦場を知る者だけが持つ、命に対する乾いた響き。
「手遅れのものか……」
アインザックが言葉を継ぐ。
「はい。私の治癒魔法は、一つ目の『重傷者』にのみ使用します。
その際の料金は、神殿の相場に合わせましょう。
そして、二つ目の『軽傷者』には、提携する薬師ギルドや商店から仕入れたポーションと衛生的な処置を提供します。
こちらは安価に、薄利多売で行います」
「……なるほど。魔法の安売りはしない、と?」
「ええ。私の魔力も無限ではありませんから。重要なのは回転率です」
確かに、現状としては、軽傷者が神殿に並んで重傷者の治療を遅らせたり、逆に重傷者がポーションで誤魔化して死なせたりといったことも起きている。
「適切な患者に、適切な治療を、最速で提供する。それがこの施療所の目的ということか……」
神官長も唸る。実際にこれで本当に利権が保証されるのか計りかねているのだろう。
クレアは机の上に、一枚の図面を広げた。
施療所の設計図だ。
受付、待合室、処置室、重症室が効率的に配置され、動線が計算されている。
「これが機能すれば、神殿の負担は減り、ポーションの消費量はむしろ増えるでしょう。
なぜなら、『施療所に行けば適切な処置が受けられる』という安心感が、冒険者たちの活動を活発化させるからです。
怪我を恐れて依頼を渋っていた者たちも、背中を押されるはずです」
アインザックが図面を食い入るように見つめ、やがて太ももを叩いた。
「……面白い。確かに、怪我の治りが早けりゃ、それだけ次の依頼に行ける回数も増える。
組合としても、冒険者の死亡率が下がるのは願ったり叶ったりだ」
「でしょう? 神殿にとっても、面倒な軽傷者の相手を減らしつつ、重傷者による寄付は保証されている。悪い話ではないはずです」
神殿長も、渋々といった様子ながら頷いた。
「実際に利用者が全体として増えるならば確かに……」
クレアは心の中で勝どきを上げる。
これはラナーの描いた絵図面通りだ。
感情や信仰ではなく、「数字」と「実利」で説得する。
彼らは自分たちの利益が守られ、かつ増える可能性が高いという計算が見えた時点で、反対する理由を失うのだ。
「……分かりました。都市長として、施療所の設立を認可しましょう」
そこで魔術師組合のラケシルが待ったをかける。
「待ってくれ。専門の知識を持った者が選別すると言ったが、非常に難しく責任の伴う仕事だ。
そんな人材が簡単に見つかるとは思えん」
「それは……確かに。冒険者組合には少なくとも居ないな……」
クレアは心配ないと応じる。
「当面の間は私が行います」
「貴女が?」
神官長が再び難色を示す。
「はい。私は王城で主に戦士団や貴族を相手に同様の仕事をした経験があります」
「ほう。その若さでそれほどの知識をお持ちなのか?」
「自信はありますが……生憎、能力を証明するのは難しいですね」
「ふむ」
そこでパナソレイから助け船が出る。
「そこはやってみるしかなかろう。実現するならば十分意味のある試みではある。
ただし、場所はスラム街との境界付近、旧兵舎跡地を使っていただきたい。
あそこなら人の出入りが激しくても問題なく土地代も安い」
「感謝いたします、パナソレイ様。
そこなら、貧しい方々にも手が届きやすいですし、冒険者の方々も立ち寄りやすい。最高の立地です」
パナソレイは、体よく厄介な場所を押し付けたつもりなのだろうが、クレアにとっては好都合だった。
スラムに近いということは、裏の情報を吸い上げやすく、八本指残党との連携も取りやすい。
「それでは、契約成立ということで」
クレアは立ち上がり、再び完璧な聖女の微笑みを浮かべた。
その背後で、夕闇が迫るエ・ランテルの街が、窓ガラス越しに赤く染まり始めていた。
*
会合が終わったのは、日が完全に落ちてからだった。
邸宅を出たクレアは、迎えの馬車には乗らず、夜風に当たるふりをして庭先を歩いていた。
護衛の兵士たちを遠ざけ、サンドラと二人きりになる。
「……疲れた。顔の筋肉が引きつりそうよ」
聖女の仮面を脱ぎ捨て、クレアは首をボキボキと鳴らした。
その変貌ぶりに、サンドラは苦笑する。
「お見事でした、クレア様。あの古狸どもを手玉に取るとは」
「ラナーの台本が優秀なだけよ。私はそれを読み上げた役者に過ぎないわ」
クレアは空を見上げた。
月が出ていない。暗い夜だ。
この都市の闇の中には、まだ見えぬ脅威が潜んでいる。
スレイン法国の監視の目、そしてエ・ランテルを死の都に変えようとする狂信者たちの気配。
表の調整は終わった。ここからは、裏の仕事だ。
「サンドラ、手筈通りに動いて。自警団を使って街のネズミたちを監視させるの。
特に、墓地周辺と、不審な魔力反応がある場所を重点的に」
クレアは独自にズーラーノーンになんらかの動きがありそうだという情報も掴んでいた。
「承知いたしました。……それと、例の件は?」
サンドラが声を潜める。
例の件。
ラナーからの特命事項、人材の発掘についてだ。
「バレアレ薬品店には、明日私が直接挨拶に行くわ。
施療所の薬を卸してもらう契約という名目でね。
リィジー・バレアレ婆さんと、その孫……ンフィーレアだったかしら」
クレアは懐から取り出した書類──ラナーから渡された調査リストを指先で弾いた。
「天才薬師の孫。コイツも並外れた薬師の才能を持ってるらしいわね。
使える駒になるかもしれない。……ま、ただの田舎の子供なら、適当におだてて使うだけだけど」
クレアは軽く伸びをして続けた。
「さあ、帰りましょう。明日は忙しくなるわよ。……聖女様の慈愛を、たっぷりと振り撒いてあげなきゃいけないんだから」
クレアは外套を翻し、闇の中へと歩き出した。
その足取りは、昼間の淑やかさとは違う、獲物を狙う獣のしなやかさを帯びていた。
エ・ランテルの夜が深まっていく。
都市の地下で蠢く死の気配と、無邪気な才能の輝きが、やがて交錯する時を待ちながら。