エ・ランテル第三層、スラム街との境界付近に位置する旧兵舎跡地。
そこに新設された「王都直轄施療所」は、異様な静寂に包まれていた。
開設から三日目。
本来ならば、安価な治療を求める人々で溢れかえっているはずの場所には、重苦しい緊張感が漂っていた。
「……暇ね」
診察室の椅子に深く腰掛け、クレアは不機嫌そうにペンを回した。
磨き上げられた床、整然と並べられたベッド、山積みにされた新品の包帯とポーション。
万全の準備を整えた施設は、肝心の患者がいないせいで、巨大な空き箱のようだった。
「申し訳ありません、クレア様」
傍らに控えるサンドラが、苦々しい顔で頭を下げる。
「説明は十分に行いました。ですが……市民の足が向きません。
やはり、『
「他人の命を選別する……だったかしら? 巷で流れている噂は」
クレアは鼻で笑った。
神殿側の圧力もあるだろうが、それ以上に民衆の心理的障壁が大きい。
これまで、金さえ払えば神官が平等に祈ってくれる(治るとは限らない)という世界で生きてきた彼らにとって、人間の判断で治療の優先順位を決めるという合理的思考は、冷酷な選別にしか見えないのだ。
「加えて、『王都から来た貴族の娘が、助かる命も見捨てている』という噂も。
……無知とは、それだけで罪ですわね」
サンドラが嘆息する。
クレアは立ち上がり、窓の外を見た。
通りを歩く冒険者や市民たちは、施療所の看板を横目に見ながらも、胡乱げに距離を取って通り過ぎていく。
「まあ、想定の範囲内よ。
甘い蜜だけ吸わせてもらえると思ったら大間違いだわ」
クレアは神官服の裾を翻し、出口へと向かった。
「ク、クレア様? どちらへ?」
「入り口よ。……そろそろ、騒がしくなりそうだから」
その言葉と同時だった。
表通りから、悲痛な叫び声と怒号が響き渡ったのは。
「どけ! どけぇッ! 急患だ!」
「リーダーが! リーダーが死んじまう!」
血相を変えて飛び込んできたのは、ミスリル級のプレートを下げた冒険者パーティーだった。
全身を高品質な装備で固めた戦士たちが、血まみれの男を乗せた担架を乱暴に運び込んでくる。
担架に乗っているのは、彼らのリーダーらしき重装戦士。
そしてその後ろから、軽装備のシーフの少年が、腕を押さえて顔面蒼白でついてきていた。
「おい! 聖女はどこだ! 治癒魔法だ、早くしろ!」
サブリーダーらしき大柄な男が、受付のサンドラに怒鳴り散らす。
待合室にいた数少ない患者たちが、怯えて隅に縮こまる。
「お静かに。ここは施療所です」
奥から現れたクレアの声に、男がギロリと睨みつけた。
「てめぇが噂の聖女か! 金なら払う! 神殿より高くても構わねぇ!
俺たちのリーダーを治せ! 今すぐにだ!」
男は金貨が入った袋をカウンターに叩きつけた。
クレアは袋を一瞥もしない。
彼女の目は、担架の上の男と、後ろに控えるシーフの少年を交互に見ていた。
リーダーの男は、胸部をマンティコアか何かの尾で貫かれたのだろう。
傷口が黒く変色し、紫色の泡を吹いている。
呼吸は痙攣し、瞳孔は既に反応していない。
一方、シーフの少年は腕を折られ、脇腹から出血しているが、意識ははっきりしている。
クレアは無慈悲に宣告した。
「そこのシーフの彼を診察台へ」
「……は?」
「リーダーの方は、そこの隅に寝かせておいて。
……黒札よ」
一瞬、場が凍りついた。
冒険者の男が、顔を真っ赤にして激昂する。
「ふざけんじゃねぇ! ガルドは俺たちの要だぞ!
こいつなんざ、ただの荷物持ちだ! 優先順位が逆だろうが!」
「優先順位を決めるのは貴方じゃない。治療をする私よ」
クレアは冷徹に言い放った。
「その男はもう手遅れ。猛毒が脳まで回ってる。心臓も半分溶けてるわ。
今から最高位の神官を連れてきても助からない」
「てめぇ……ッ!」
「対して、そこの少年は助かる。
ただし、あと十分放置すれば出血性ショックで死ぬわね。
だから彼を優先する。……何か文句ある?」
「文句だと……このアマ、俺たち『鉄の牙』を愚弄する気か!」
男が剣の柄に手をかけた。殺気が膨れ上がる。
ミスリル級冒険者の圧力。並の市民なら失禁するほどの威圧感だ。
だが、クレアは眉一つ動かさなかった。
むしろ、唇の端を吊り上げ、愉悦のような笑みを浮かべた。
「──抜けば?」
そう言ったクレアから放たれたのは、濃密すぎる「死」の気配だった。
冒険者の殺気が、子供の遊びに見えるほどの、本物の殺意。
英雄級を越える実力者の片鱗が、聖女の皮を破って漏れ出したのだ。
「ヒッ……!?」
男が凍りつく。剣を抜こうとした手が震え、動かない。
抜けば死ぬ。瞬きする間に、喉笛を掻き切られる。
その本能的な恐怖が、彼を金縛りにした。
「ここは私の庭よ。私のルールに従えないなら、貴方も『黒札』にしてあげる」
クレアは男の横を通り過ぎ、呆然としているシーフの少年の手を取った。
「さあ、来なさい。君はまだ助かる」
「あ、う……で、でも、リーダーが……」
「彼は死んだの。君が生き残って、彼の剣を持ち帰るのよ」
クレアは少年を処置室へと連れて行く。
残された冒険者たちは、動けなかった。
担架の上のリーダーが、最後にゴボリと黒い血を吐き、動かなくなるのを、ただ見ていることしかできなかった。
*
処置は迅速だった。
シーフの少年の傷を魔法で塞ぎ、折れた腕を固定する。
「……はい、終わり。黄色札相当ね」
クレアが手を離すと、少年は泣きながら礼を言った。
だが、待合室の空気は最悪だった。
冒険者たちはリーダーの遺体を囲み、クレアを憎悪の目で見ている。
「……見殺しにしやがって」
「死神め」
彼らの言い分も分かる。
感情論で言えば、英雄であるリーダーを優先すべきだった。
奇跡を信じて、最後まで足掻くべきだった。
それを「無駄」と切り捨てたクレアは、彼らにとって悪魔に等しい。
(……ま、嫌われるのは慣れてるしね)
クレアが肩を竦めた時だった。
「道を開けてください~納品です!」
張り詰めた空気を読まない、元気な声が響いた。
入り口から荷車を押して入ってきたのは、薬師の使いであろう少年だった。
「チッ、なんだガキ! 今取り込み中だ!」
「薬品の補充に来ました……あと、検死も必要そうですね」
ンフィーレアは、殺気立つ冒険者たちの間を平然と通り抜け、リーダーの遺体の前に跪いた。
そして、その傷口の臭いを嗅ぎ、変色した皮膚に触れる。
「……猛毒ですね。マンティコアですか?」
「あ、ああ……そうだ。だから解毒魔法をかけてくれれば……」
「無理です」
ンフィーレアはきっぱりと言った。
クレアの冷たさとは違う、専門家としての静かな断定だった。
「この毒は、血管に入ってから数分で血液を凝固させます。
ここへ運ばれてきた時点で、既に脳への血流は止まっていたはずです。
……もし魔法をかけていたら、心臓が無理やり動かされて、全身の血管が破裂して、もっと苦しんで死んでいたでしょう」
「な……」
「手の施しようがありません。何もせずに祈るのが正解です」
ンフィーレアは、遺体の目を静かに閉じさせ、祈りを捧げ、冒険者たちに向き直った。
「貴方たちは、リーダーと仲間、両方を失いたかったんですか?
それとも、仲間だけでも救った聖女様を恨むんですか?」
その言葉に、冒険者の男は言葉を失った。
よく見ればこの少年は天才薬師バレアレの孫であることに気づく。
それがクレアの判断を「正解」だと裏付けたのだ。
「……クソッ」
男は悔しげに拳を壁に叩きつけ、そして深く頭を下げた。
「……すまねえ。俺たちが、取り乱してた」
「分かればいいわ。……サンドラ、遺体の安置所へ案内してあげて」
クレアが指示を出すと、冒険者たちは大人しく従った。
去り際、シーフの少年が何度もクレアに頭を下げていく。
静寂が戻った待合室で、クレアは大きく息を吐いた。
「……余計なこと言わなくていいのよ。悪役は私一人で十分なんだから」
「事実を言っただけですよ」
少年は荷車からポーションを取り出しながら、ニコニコと笑った。
「名前は?」
「ンフィーレア・バレアレです。お婆ちゃんからこの施療所の話は聞いています」
「ん。私はクレアよ」
「よろしくお願いします。クレアさん」
そう言って手を差し出す少年の顔には、命を扱う同業者への尊敬が見て取れた。
「あなたの見立ては正確でした。
普通なら、ミスリル級の冒険者に脅されたら、無理だと分かっていてもポーズだけで治療しちゃいますよ」
「私は嘘が嫌いなの」
クレアはそっぽを向いたが、耳が少し熱いのを感じた。
自分の冷徹な判断を、「冷酷」ではなく「正確」と評価してくれる人間がいることに面映ゆさを感じる。
「さて……これで少しは、この施療所の『本当の使い方』が広まればいいんだけど」
*
クレアの予感は的中した。
この件は、瞬く間にエ・ランテル中の冒険者の間に広まった。
死神、鉄の女、選別者。
様々な異名と共に、施療所には本当に助かりたい者たちが押し寄せ始めた。
彼らは、クレアが札を渡すのをただ待つ。
「次! ……黄色。処置室へ!」
「はい!」
戦場のような忙しさが始まった。
それを手助けするためにンフィーレアも自然とこの施療所に詰めるようになっていた。
クレアが診断し、ンフィーレアが薬を選び、サンドラたちが処置する。
その回転は、ついこの前までとは比べ物にならないほど速く、正確だった。
休憩時間。
泥のように疲れ果てたクレアに、ンフィーレアがハーブティーを差し出す。
「お疲れ様です、クレアさん」
「……君こそ。今日は帰っていいと言ったのに」
「こんなに勉強になる現場、他にありませんから!」
少年の笑顔は、血と消毒液の臭いの中でも輝いていた。
クレアはカップを受け取り、苦笑する。
「……君は、本当に変わってるわね」
「そうですか? 僕は、クレアさんのやり方、好きですよ。
誰にでも優しいわけじゃないけど……誰よりも命に対して誠実だと思います」
「誠実、ね……」
クレアは窓の外を見た。
夜の帳が下りつつあるエ・ランテルの街。
その光と影の境界で、自分はこの少年に支えられている。
「……ありがとう、ンフィーレア君」
「え?」
「独り言よ。……さ、休憩終わり。まだ行列が待ってるわ」
クレアはカップを置き、再び戦場へと戻っていく。
その背中は、以前よりも少しだけ軽く、そして力強く見えた。
*
施療所の屋根の上。
その様子を無感情に見下ろす、灰色の影があった。
「へぇ……。人間たちに混ざって、随分と上手くやってるじゃないか」
中性的な顔立ちには、幼さがまだ残っている。
手元の羊皮紙に、淡々と筆を走らせる。
『エ・ランテルの聖女は確実に捜索中のクレマンティーヌと思われる。奪われた国宝は確認できず』
「道具が感情を持つなんて、バグの始まりだよ、センパイ」
彼は小さく嘲笑うと、闇の中へと溶けていった。
そして、もう一つ。
エ・ランテルの地下、暗渠の奥深く。
腐臭と闇が支配する空間に、異質な音が響いていた。
ズズ……ガリ……。
重い鉄塊を引きずる、不快な摩擦音。
喪服のような漆黒のドレスを纏った女──ヴィエラは、何も語らない。
ただ、天井の隙間から漏れてくる地上の「生の気配」を、うっとりとした表情で見上げているだけだった。
その艶めかしい唇が、音もなく弧を描く。
獲物を前にした捕食者の歓喜だけがそこにはあった。