カラン、カラン──。
不吉な鐘の音が、エ・ランテルの夜気を震わせていた。
「死ねェッ!!」
クレアの絶叫と共に、銀閃が走る。
怒りと殺意を極限まで乗せた、必殺の突き。
だが、その鋭い切っ先は、漆黒の鉄塊によって阻まれた。
火花が散る。
ヴィエラは巨大なモーニングスターを盾のように掲げ、クレアの一撃を涼しい顔で受け止めていた。
「あはは! いいねぇ、いい顔だ!
さっきまでのすました聖女面より、今の顔の方がずっと可愛いよォ!」
「黙れ……ッ! その口を縫い合わせてやる!」
クレアは追撃を繰り出す。
高速の連撃。
だが、ヴィエラはドレスの裾を翻し、紙一重で躱していく。
「遊びたいけどさァ……聞こえる?」
ヴィエラが唐突にバックステップを踏み、距離を取った。
彼女はうっとりとした表情で、墓地の方角──鐘の音が響く空を見上げた。
「カジーの合図だ。宴の始まり。
……主役を迎えに行かなきゃ」
「逃がすと思ってるの!?」
「逃げる? 違うよォ」
ヴィエラは、嗜虐的な笑みをクレアに向けた。
「……貴女が
クレアの背筋が凍りつく。ンフィーレアのことだろう。
「あの子も可愛いし、貴女も良い声で泣いてくれそうだしそっちの方が楽しいわよねぇ!!!」
「待てッ!!」
クレアが飛び出すが、ヴィエラは人間離れした跳躍力で屋根へと飛び乗った。
「鬼ごっこをしましょう!!施療所まで!!遅刻したら、あの子の指から一本ずつ潰しちゃうからねぇ!」
高笑いを残し、喪服の女は闇夜へと消えた。
同時に、路地裏のマンホールや地面から、無数の影が這い出してくる。
ゾンビ。スケルトン。グール。
アンデッドの群れが、クレアの行く手を阻むように溢れ出した。
「邪魔よッ!!」
クレアは叫び、群がる腐肉を切り裂いて走る。
怒りで視界が赤く染まる。
だが、その奥底には冷たい恐怖があった。
間に合うか。
あの怪物が施療所に到達する前に。
*
*
街は大混乱に陥っていた。
エ・ランテルは城塞都市であり、住民たちの多くはいつか来る戦火への覚悟を持っている。
だが、それは「外」からの侵略に対してだ。
「内側」から、それも死者が溢れ出す事態など想定外だった。
「ひ、ひぃぃぃッ! 来るな、来るなぁぁッ!」
「お父さん! お父さぁぁん!」
逃げ惑う市民を、腐った手が引きずり倒す。
石畳は鮮血で濡れ、平和な食卓は死肉を喰らう饗宴の場と化していた。
衛兵や冒険者たちが応戦するが、数が違いすぎる。
倒しても倒しても、次から次へと湧き出してくるのだ。
それはまさに、死が死を呼ぶ螺旋。
クレアは一瞥もくれず、屋根の上を最短距離で駆け抜ける。
眼下では、見知った顔の自警団員たちが、簡易バリケードを築いて必死に応戦しているのが見えた。
「こ、こいつらキリがねえぞ!」
「下がったら殺される! 姐さんに殺されるぞ! 踏ん張れ!」
サンドラの指揮の下、彼らは恐怖に駆り立てられて戦っていた。
だが、あの程度の戦力では時間の問題だ。
(ンフィーレア……無事でいなさいよ!)
クレアは祈るように駆ける。
あの少年だけは。
あの純粋な笑顔だけは、絶対に守らなければならない。
それは任務のためではない。彼女自身の意地だった。
施療所の入り口には、奇妙な肉の壁が現れた。
三メートルを超える、縫い合わされた腐肉の集合体。
こんな趣味の悪いヤツはズーラーノーンにしか居ないだろう。
そして、街灯の上には、先回りしたヴィエラが足を組んで座っていた。
「遅いよォ、聖女ちゃん。
グロムちゃんが先についちゃったよぉ?」
巨人の一撃が、施療所の扉を叩く。
強化された木製の扉が悲鳴を上げ、蝶番が弾け飛ぶ。
「させるかぁッ!」
クレアは屋根から跳躍し、流星のごとく巨人の頭上へ落下した。
狙うは延髄。
加速と重力を乗せた、必殺の一撃。
刃は深々と突き刺さった。だが、骨を断つ感触がない。
まるで泥沼に石を投げ込んだかのように、肉に刃がズブズブと沈んでいく。
「……は?」
クレアが驚愕に目を見開く。
巨人は痛痒を感じた様子もなく、緩慢に首を回した。
その濁った瞳が、肩に乗ったクレアを捉える。
「ウ、ガァッ!!」
丸太のような腕が、暴風を伴って迫る。
クレアはとっさにスティレットを手放し、巨人の肩を蹴って後方へ飛んだ。
空気を切り裂く音。見た目通り膂力も半端ではなさそうだ。
クレアは着地し、予備のダガーを抜く。
「なによこいつ……! 刺突無効!?」
最悪の相性だ。
クレアの戦法は、急所を一点突破する暗殺術。
だが、この肉塊には急所がない。
脳も心臓も、腐肉の中に分散しているのか、あるいは核が別の場所にあるのか。
いくら刺しても、ダメージが通らない。
「あはは! 残念だったねぇ!
グロムちゃんの中身はギュウギュウだよォ。アンタの爪楊枝じゃ、痒くもないってさ!」
難攻不落の盾に加えて、ヴィエラも控えている。
さらに、時間をかければ無数のアンデッドが押し寄せてくる。
状況はかなり厳しい。
しかし、退くわけにはいかない。
ここで引けばンフィーレアは敵の手に落ちるだろう。
ズーラーノーンがどこかで彼の
そんなときに、施療所から飛び出したのはンフィーレアだった。
彼は震える手で、数本の瓶を握りしめていた。
その後ろには、サンドラや怪我人たちが怯えている。
「僕はクレアさんを置いていけません!」
「馬鹿ッ! アンタが一番の狙いなのよ!?」
「それなら!僕が囮になれば……!」
ンフィーレアは、あろうことか前に出た。
そして、手に持った爆薬の入った瓶を、グロムに向かって投げつけた。
パァンッ!!
炎が上がり、グロムの表面が焼ける。
腐肉が焦げる臭いがあたりに立ち込める。
だが、巨人は僅かに怯んだだけだ。
「……可愛い抵抗じゃなぁい♡」
ヴィエラが目を細める。
グロムが咆哮し、巨大な肉切り包丁をンフィーレアに振り上げた。
「やめろぉぉぉッ!!」
クレアが駆ける。
間に合うか。いや、間に合わせる。
武技を重ねがけ、限界を超えた加速を行う。
自身の筋肉が断裂する音を聞きながら、彼女はンフィーレアの前へと滑り込んだ。
ダガーを構える。
受け流せない。質量が違いすぎる。
なら、肉を切らせて骨を断つ。
左腕を犠牲にして、その隙に懐に入り、内側から爆発薬を炸裂させるのだ。
しかし、これは上手く行かないことをクレアの経験が直感した。
濃密な死の匂いが溢れ出してくる。
走馬灯のように記憶が駆け巡る。
決して良い思い出とは言えない任務に明け暮れた半生。
見たくもない兄や両親との生活も甦ってきた。
ラナーやルミィ出会い過ごした王都、忙しくも充実したエ・ランテルでの日々。
これが私の最期か。
誰かを守って死ぬなんて、らしくない。
でも、まあ、あの兄に殺されるよりは、ずっとマシか。
包丁が振り下ろされる。
クレアはその瞬間を待った。
──だが。
その瞬間は訪れなかった。
代わりに凄まじい金属音が、夜気を切り裂いた。
クレアの目の前。
そこに、漆黒の壁が立っていた。
「……チッ、騒がしいな」
低く、地を這うような男の声。
クレアは呆然と見上げた。
全身を漆黒のフルプレートアーマーに包んだ、巨漢の戦士。
背中には二振りの大剣。
彼は、片手で抜いた一振りの大剣だけで、グロムの全力の一撃を受け止めていたのだ。
微動だにせずに。
「モ、モモンさん……?」
ンフィーレアが、信じられないという顔で呟く。
そう、彼は最近エ・ランテルで噂になっている冒険者。
漆黒のモモン。
「……なんだ、その汚い肉塊は」
モモンは、兜の奥から不快そうにグロムを見下ろした。
「せっかく静かに考え事をしていたというのに。
外でハエが飛び回っている音が気になって来てみれば……この有様か」
彼は軽く腕を振るった。
ただそれだけで、グロムの巨体が木の葉のように弾き飛ばされた。
数メートル後方の民家に突っ込み、家屋が倒壊する。
圧倒的な膂力。
クレアは戦慄した。
魔法による強化なしで、あれだけの質量の物体を弾き飛ばすなど、人間の領域ではない。
「な、な……!?」
街灯の上のヴィエラが、初めて余裕を崩した。
「アンタはだれよぉぉ!!邪魔しないでよぉぉ」
「黙れ」
モモンがヴィエラを一瞥する。
殺気ですらない。
ただ、道端の石ころを見るような、絶対的な強者故の無関心だ。
「……ナーベ」
「ハッ」
モモンの背後から、一人の美女が現れた。
東方風の顔立ちと髪の色の魔法詠唱者。
『美姫』ナーベだ。
「周囲の雑魚を掃除しろ。一匹たりとも近づけるな」
「承知いたしました、モモンさ……モモンさん。
この程度の羽虫どもは一瞬で片付けさせていただきます」
ナーベが冷酷な笑みを浮かべ、杖を構える。
次の瞬間、連鎖する雷撃が走り、通りを埋め尽くしていたゾンビの群れが一瞬で灰燼に帰した。
夜の闇を一瞬で昼間のように照らし出す閃光。
そして、その後に残ったのは、炭化した死体の山だけだった。
(……化け物か、こいつら)
クレアは乾いた笑いが出そうになった。
自分も大概「規格外」だと思っていたが、目の前の二人は次元が違う。
これが、英雄級?
いや、それ以上だ。
この戦士は、人間ではないのかもしれない。
「おい、そこの女」
モモンが振り返り、クレアを見た。
「お前がここの責任者か?」
「……ええ、そうよ」
クレアは痛む腕を押さえながら、なんとか気丈に答えた。
敵か味方か分からない。
だが、少なくとも今は敵対しない方がいいのは明らかだった。
「助太刀する。その薬師に死なれると困る。
有益なポーションを作るようなのでな」
モモンはそう言うと、大剣を肩に担ぎ直し、瓦礫の中から起き上がろうとしているグロムへと歩き出した。
「あの肉塊と、そこの跳ねっ返りの女。
……俺が片付ける。文句はないな?」
「……ないわ。好きにして」
「交渉成立だ」
モモンが地を蹴る。
その速度は、クレアの動体視力ですら追いきれないほどだった。
グロムの前に瞬時に肉薄し、大剣を一閃。
再生しようとしていた腐肉の腕が、今度は根元からごっそりと斬り飛ばされる。
「ギャァァァッ!?」
痛覚を持たないはずのグロムが、魂を削られたような悲鳴を上げた。
ただの物理攻撃ではない。魔法的な何かが付与されているのか、あるいは単なる威力が再生能力を超えているのか。
「なっ……グロムちゃん!?」
ヴィエラが慌てて飛び降り、モーニングスターを構える。
「よくも……よくもォ!!
許さないよォ! アンタも肉団子にしてやるッ!」
「やれるものならな」
モモンは挑発的に手招きした。
死都と化したエ・ランテルの夜。
怪物による蹂躙が今まさに始まろうとしていた。
クレアはンフィーレアを背に庇いながら、その光景を目に焼き付ける。
自分たちにできることは、その余波で吹き飛ばされないよう、必死に地面にしがみつくことだけだった。