・前章のあらすじ
ラナーに王国の改革の基盤として、エ・ランテルで施療所と商会を立ち上げることを命じられたクレマンティーヌは、聖女クレアとして施療所の運営で一定の成功を収めていた。
法国からの監視の中、ンフィーレアを目的としてズーラーノーンに襲撃されるが、並外れた実力を持つ冒険者モモンの介入によって解決。
ンフィーレアのタレントを知ったクレアは、彼を待ち受ける運命に法国の道具にされた自身の過去を重ね、ラナーにタレントの情報を伏せる決断をした。
その頃、ラナーは理外の知性を予感させる悪魔と出会っており、自身もエ・ランテルへ繰り出す準備を進めていた……
第一話 プレアデス商会
エ・ランテル王都直轄施療所の夜は、昼の喧騒が嘘のように静かだ。
しかし、クレアの耳の奥にはまだ粘ついた声が残っていた。
助けてくれ。
こっちが先だ。
金ならある、裏から通してくれ。
うちの子を見てくれ。
――選別を受け入れた市民たちが、助かるための列を作っている。
それはラナーが設計した仕組みが機能している証左であり、喜ばしいことだ。
だが、その列の最後にいる者ほど、命が軽くなるという事実は変わらない。
この施療所は彼らにとっての最後の糸だ。
そして、糸が細ければ細いほど、人はそれを奪い合う。
執務机の上には、ラナーに送る定期報告書が山のように積まれていた。
施療所の運営状況、ポーションの在庫と流通予測、自警団との連携による治安維持コスト。
そして、ズーラーノーンの監視報告と、スレイン法国の影に関する考察。
羽ペンを置くと、指先が微かに痺れていた。
漆黒聖典の頃の筋肉が焼け付くような疲労とは違う。
精神が摩耗する。
文字という名の刃で、見えない敵と斬り結んでいるような感覚――そんな夜が続いている。
「……少し、根を詰めすぎたかしら」
独り言に返事はない。
代わりに、控えめな、しかしリズムの整ったノックが鳴った。
「失礼します、クレアさん」
ンフィーレアが、湯気の立つポットと夜食を抱えて入ってくる。
その表情は相変わらず穏やかで、だから余計に腹が立つほど眩しい。
この少年は、この腐った王都の掃き溜めの中で、なぜこうも無垢なままでいられるのか。
「今夜も、患者が多かったんですか」
「……そうね」
クレアは眉間を揉みながら答えた。
ンフィーレアは机の空いたスペースにポットを置きながら、困ったように眉を寄せる。
「皆が、ここを信じてくれた証拠ではあるんですけどね……」
「良いことよ。だから厄介なの」
クレアは短く笑い、カップに注がれた茶を啜る。安い茶葉だが、今はその熱さが心地よい。
「信じられた制度は、必ず生活に欠かせなくなる。
欠かせなくなれば、そこに寄生する虫が湧く」
「虫……商売、ですか?」
「ええ。列が出来れば、順番が出来る。
順番が出来れば、それを売る者が出る。
恥の概念を持たない者は何処にでも居るってわけ」
ンフィーレアが目を瞬かせた。
彼にはまだ、悪意の想像力が足りない。
「……そんな。命に関わる場所で」
「命に関わるからこそよ。人は生きるためならなんでもやる。
神殿が寄付金の額で救う命を選んでいたのと本質には変わらないわ」
不意に、扉の外で足音がした。
行儀の良い足音と、もう一つ、隠そうともしない堂々とした足音。
サンドラと、その後ろから長身の男が入ってきた。
青い髪を無造作に流し、腰に細身の刀を佩いた男――ブレイン・アングラウスだ。
たまたまこの街に滞在していたところを稽古に付き合うことを条件に捕まえた。
モモンの件もあるため、実力が確かな者を近くに置いておきたかったのだ。
「クレア様。日中の巡回報告です」
サンドラは強張った指先で紙束を広げた。
そこには、走り書きのメモがびっしりと記されている。
「施療所の列に“書き付け屋”が入り込んでいます。
診察順の相談、治療証の代筆、紹介状の作成……表向きは代書屋ですが、実態は違法な仲介業者です」
「代筆だけなら、まだ可愛いわね。
字の読めない者に便宜を図るのは、本来なら私たちがやるべき仕事だもの」
サンドラが困ったように眉根を寄せる。
クレアは無言で続きを促す。
「それだけではなくて、字の読めないものから、“これに印を押せば早く診てもらえる”って吹き込んで……高い手数料を取っているんです。
印を押した人は、なぜか列の割り込みを許されている。
自警団も見て見ぬふりです」
「列の前に。――つまり、優先札ってわけか」
クレアは不快げに眦を歪める。
施療所は選別によって“命の危険度順”を厳格に管理している。
それがこの場所の正義だ。
だが、管理があるからこそ、その例外に値段がつく。
「自警団の見回りが、間に合っていません。
彼らも元はただのゴロツキ上がりですから、病人を追い払うことに慣れていないし、小銭を握らされれば目も曇る。
……それと」
サンドラが声を落とす。その声音には、明確な恐怖が混じっていた。
「書き付け屋が"保証人"も売っています」
「保証人?」
クレアが問うと、後ろで刀の鯉口を弄っていたブレインが、つまらなそうに口を挟んだ。
「書き付け屋が保証人になって、金貸しからその場で借りるんだ。
それで返済が滞るときは代わりに書き付け屋が払う。
書き付け屋は滞るごとに手数料を取る。
それで借金が大きくなった頃合で劣悪な働き口を紹介するってな流れだ」
サンドラが頷き、契約書の例を見せる。
一度契約したら、死ぬまで利息を払い続けるハメになるような代物だ。
命の価値もすべてが市場の原理に飲み込まれていく。
「場所はどこでやってるの?」
「市場横の広場です。簡易の店舗として机が出ています」
「朝一番に見に行くわよ」
ンフィーレアが慌てて声を掛ける。
「クレアさん、無茶は――」
「無茶かどうかの線引きは私が決める」
そう言い捨てると、クレアは部屋を出ていった。
ブレインが肩をすくめ、当然のようにその後を追う。
廊下に出たところで、彼はニヤリと笑った。
「おい。これで貸し一つだぞ」
「あら、私は頼んでないわよ」
「アンタ一人って訳にも行かないだろ。ここじゃ聖女様なんだから。
その代わり、この件が片付いたら、一本立ち合え。……次はアンタの突きを見切ってやる」
「まあ、良い仕事をしてくれたら考えてあげるわ」
*
施療所の正面には、夜明け前だというのに、列ができはじめていた。
焚き火の煙と、体臭と、腐った傷口の臭いが混じり合う独特の瘴気。
老いも若きも、貧民も職人も、同じ虚ろな顔で並んでいる。
入口には大きな木札が掛かっている。
『軽症は午後。重症は先。命の危険がある者は前へ』
毎朝、係の者が読み上げているルール。
「……字が読めない方は、こちらへ。係りの者が聞き取ります。名前を言ってください。怪我はいつから? 熱は?」
聞き取りをする声が響く。必ずしも字が読めるとは限らないからだ。
だが、その声に被せるように、別の粘っこい声が割り込む。
「代書なら任せな。印の押し方も教える。
役人への口の利き方も、順番の相談も乗るよぉ」
薄汚れた帽子の男が、紙束を抱えて列の周りを歩き回っていた。
咳き込む病人の肩に手を置き、家族の不安に顔を近づけ、親身なふりをして笑う。
クレアは少し離れた路地の影から、その様子を観察していた。
サンドラが唇を噛み締めながら囁く。
「今朝、あの男がうちの“診察札”のような木札を配っているのを見ました。
……あの札を持つ者が、裏口から優先的に通されているとの情報があります」
「札が本物なら、うちの職員が買収されてるわね」
「偽物なら……」
サンドラにブレインが怠そうに答える。
「偽物でも、列は動くだろ。
『金で順番が買える』という噂が広まれば、真面目に並ぶ者はいなくなる。
疑心が増えれば、暴動が起きる。施療所の秩序なんて、簡単に崩壊するだろうな」
そのとき、列の中で、女が子どもを抱えて泣きそうになっていた。
子どもは熱に浮かされ、唇が紫色に変色している。
呼吸音がおかしい。恐らく肺の病の兆候だ。
「……お願いです。先に診てください。息が……この子、息が」
「順番だ。待てって言ってるだろ」
自警団の若い男が焦りながら制止する。
彼もまた、規則と人情の板挟みになり、どうすればいいか分からない目をしている。
群衆の視線が痛いのだ。
そこへ、待っていましたとばかりに書き付け屋が入り込んだ。
「奥さん、可哀想に。これじゃあ待てないな。……札が要る。
特別な札があれば早いぞ。――銀貨一枚でどうだ」
「銀貨……そんな、手持ちが……」
「命だろ? 着てるもの売ってでも作るもんだ」
女の手が震える。
クレアは一歩踏み出しかけて、止まった。
あの男の眼球を刺し貫けば済む。
だが、ここで私情で動くことは立場上許されないだろう。
クレアは舌打ちをして、背後の退屈そうな男の方へ振り返る。
「ブレイン。あの男の札を奪いなさい。――静かに、かつ派手に」
「どうすればいいんだよ」
ブレインが唇を歪める。
彼にしてみれば、こんなゴロツキ相手の仕事など、剣の稽古にもならない退屈な作業なのだろう。
「気づかれずに近づいて、一瞬で恐怖だけを植え付けなさいってことよ」
「…‥へいへい。仕方ねぇなぁ」
文句を言いつつも、ブレインは列の影へ溶けた。
その動きは、先ほどまでの荒っぽさが嘘のように洗練されている。
腐っても天才。足音どころか、気配すら消えている。
次の瞬間、男が振っていた紙束が、ふっと手の中から消えた。
「……あ?」
書き付け屋が振り返るより早く、ブレインが男の横を通り過ぎる。
誰も、彼が剣を抜いたところを見ていない。
ただ、男の手元で紙束だけが真っ二つに裂け、ハラハラと舞い散った事実だけが残った。
「え……?」
男が硬直する。
すれ違いざま、ブレインが男の耳元で低く囁く。
「札を配るな。次は首が飛ぶぞ」
男は悲鳴も上げられず、腰を抜かして這いずり逃げた。
紙だけを斬る神速の斬撃。
それが意味する技量を理解できたかは分からないが、本能的な死の恐怖が男を駆り立てたのだ。
「派手にやったぜ。……これでいいんだろ」
戻ってきたブレインは、鞘に親指を掛けたまま、不敵に鼻を鳴らした。
「ええ、上出来よ。天才剣士様」
「皮肉かよ」
クレアは列の先へ歩き、女と子どもの前に立った。
「その子をこちらへ。――黒札。すぐ診察室へ」
「はい!」
女が呆然とする。
クレアは聖女の微笑みを仮面のように貼り付け、しかしその瞳は硝子のように冷たく凪いでいた。
「――熱はいつから?」
「……昨夜から。急に苦しそうで……」
「なら、間に合う。急いで」
女が子どもを抱えて駆ける。
列がざわつき、そして少しだけ静まった。
正当な判断が下されたという安堵が広がったからだ。
サンドラが難しそうな顔をしている。
「木束は押さえましたが……、あれは末端でしょうね。一人二人脅したところで終わらないでしょう」
「分かってる。だから今日、金の源流を見るわ」
クレアは列の横を抜けていった。
ブレインもまた、無言でその後を追う。
*
市場横の広場は、スラムと市場の境界にある、王都の澱のような場所だ。
そこには、施療所とは別の列ができていた。
板で囲った仮設の机。そこに似つかわしくない上質な羊皮紙の束。そして、小さな印章箱。
看板は、偽りなくこう書いてある。
『口入れ 保証人取扱い』
机の向こうの男は、身なりの良い服を着て、感情のない声で筆を走らせていた。
「次。名前。腕。保証人の有無」
列の先頭の男が首を振る。
「いねえ。家族も死んだ」
「では、名義を買え。銀貨一枚だ。払えないなら前借りでいい。利子は
男は息を吸うように破滅的な条項を並べる。
言葉は丁寧で、態度は紳士的。
だが、やっていることは首に縄をかける作業だ。
横で、手続きを終えた別の男が口を挟む。
「おい、待てよ。先週、同じ契約で入った現場なんだが賃金の三割が消えたぞ。話が違う」
「契約書、第三条四項。『現場管理費および斡旋手数料は労働者の負担とする』。……読みましたよね? 印を押したのは貴方ですよ」
机の男は笑いもしない。事務的に契約書を指差すだけだ。
紙の上では、情けも涙も無駄だからだ。
クレアは少し離れて見ていた。胸が悪くなるような光景だ。
ブレインが小声で唸る。
「昔の八本指より、よほどタチが悪いな。暴力で脅すんじゃなくて、納得させてから奪ってやがる」
「綺麗だから、みんな引っかかるのよ。これは詐欺と変わらない」
列の後方には、さらに別の机があった。
こちらには冒険者が集まっていた。
笑顔の愛想の良い売り子が、若い冒険者に紙を差し出している。
「さあ、掛け金は一日あたり銅貨一枚!
たったこれだけで、万が一の負傷時には治療代が出る!
死んでも遺族に金が残る。安心を買いませんか?」
「……細かい字だな。読む気が失せるぜ」
「安心には決まりが要るんです。ほら、ここに印を――」
そこへ、腕を包帯で巻いた男が血相を変えて割り込んだ。
「嘘っぱちだ! 出ねえぞ、金なんて!」
「おや、お客様。規約を守られましたか?」
「守ったも何も、こっちは大怪我したんだぞ!」
「第十二条。『毒、呪い、および魔法由来の負傷歴の隠蔽』。
……貴方、過去に呪いを受けていましたよね?
申告漏れは重大な契約違反ですよ。
よって給付は無効、掛け金の返還もありません」
売り子は紙の一行を冷ややかに指で叩く。
冒険者は顔を歪めた。
「読めるかよ! こんなちいせえ字!」
「読めないなら、読める人に読んでもらってから契約すべきでしたね。
銀貨一枚でそういった紹介もしてるしね。
ここは商人の領分です。無知は罪ですよ」
周囲がざわつく。
だが“契約”という言葉が、不思議な強制力を持って空気を冷やす。
誰もが「自分が悪いのかも」と思わされている。
「それに、給付を受けるには施療所の正式な証文が要ります。
治癒師の印がね。――それがないなら、銅貨一枚たりとも払えません」
売り子は最後に、さらりと付け足した。
施療所の証文。
治癒師の印。
紙が紙を呼び、印が印を呼ぶ。
施療所が“馴染んだ”からこそ、その印は金になる。信用が、悪意によって換金されている。
クレアは、売り子の後ろに積まれた書類束を凝視した。
整然と積み上げられた書類。
均一な筆跡。計算され尽くした書式。
この王国の、識字率の低い一般市民に作れる代物ではない。
クレアは、売り子の袖口を見た。
縫い付けられた小さな糸印。
七つの星をあしらった商会の符号だ。
見覚えはない。
だが、その完璧に規格化された事務処理の美しさに、背筋が粟立つような既視感を覚えた。
人間味のない、徹底的な効率化。それはクレアが知る中で、最も恐ろしく、最も美しい“あの姫”のやり方に似ていた。
否、それ以上に――。
サンドラが震える声で耳打ちした。
「噂では、“新しい商会”が裏で支えていると……」
「名前は?」
「プレアデス商会というらしいです」
「聞き覚えがない名前ね」
「やり方は綺麗です。露骨に奪わない。紙で、真綿で首を絞めるようにやっている……」
「そうでしょうね。その方が長く搾れるからね」
クレアは踵を返した。
列に並ぶ人々の目が、救いを求めて追ってくる。
だが、契約がある以上は踏み込むことができない。
これに応じるにはより大きな強制力、法の力が必要となるだろう。
*
朝の騒ぎのせいで、余計に不安が増したのか施療所の列がいつもより長い。
執務室に入ると、机の上に封蝋付きの手紙が置かれていた。
王家の紋章。ラナーからの親展だ。
サンドラが報告する。
「王都からです。定期報告の催促と……追伸があります」
クレアは薄く笑った。背筋に冷たいものが走る。
あの姫は、王城の奥に座ったまま、この泥臭いスラムの空気まで嗅ぎつけているのかもしれない。
封を切り、目を走らせる。
少し癖のある美しい筆致で綴られたねぎらいの言葉。
だが、最後の一文だけが、妙に質量を持って迫ってくる。
『地盤が固まった頃に、私も視察という形でそちらに行きますと約束をしていましたね。そろそろ頃合でしょうか』
「……」
クレアはペンを取り、まずは安全な真実を書き始めた。
保証人。順番の利権。
そして、プレアデス商会という名が、現場で囁かれている事実。
書き終えたところで、クレアは一瞬だけ筆を止める。
今日、冒険者たちの集まる机の近くにいた“調査員”のような男の目。
あれは商人の目ではない。
隣で退屈そうに刀を磨いている、この男が「嫌な気配がする」と市場で呟いてもいた。
コイツの野性の勘は恐らく信用できるだろう。
この件は一筋縄ではいかない。
そう再認識し、これから待ち受けることを思うと気分が沈んできた。
また、安全ではない真実――ンフィーレアのタレントについてはまだ隠せているだろうか。それも不安である。
封をして、サンドラに渡す。
広場の灯りはまだ消えていない。紙束が動き、人が動き、金が動く。
その全てが、巨大な実験場の中で踊らされているように思えてならなかった。
不動産会社の不手際で引越先の契約がなくなり住居を失うところでした。
人間、住居が脅かされると不安定になるのでお気をつけください笑
更新が止まってる間にも読んでくださったり、お気に入り・評価してくださったみなさん、本当にありがとうございます!
社会に負けず頑張ります!