森の闇の向こうから、車輪の軋む音が近づいてくる。
木々の隙間に、揺れる灯りがひとつ見えた。
やがて、それが覆いをかぶせた馬車のランタンだと分かる。
一見すれば荷を満載した商人の馬車だ。
だがクレマンティーヌは、一目で「違う」と判断した。
車輪の軌道。
御者の手綱さばき。
無駄のない停止動作。
戦に出たことのない者たちの動きではない。
(さあて、どんな“迎え”かしら)
崩れかけた石垣から腰を上げ、包みを抱え直す。
外套のフードを深くかぶり、森の影を背負う位置に立った。
馬車が空き地の端で止まり、御者台から男がひとり降りる。
粗末な外套に身を包んでいるが、その所作には妙な静けさがあった。
御者の後ろから、もうひとり。
革鎧にマントを羽織った護衛と思しき男が姿を現す。
馬車の扉が内側から開いた。
「……お待たせいたしました」
姿を現したのは、侍女服の女だった。
王都でよく見かける程度のそれなりの仕立て。
だが裾さばきも足運びも、ただの侍女にしては身軽すぎる。
(侍女に見せかけた護衛。気合いが入ってるじゃない)
侍女はクレマンティーヌを正面から見据えた。
暗がりの中なのに、目がよく合う。
夜目に馴れた者同士の視線だった。
しばし、沈黙。
先に口を開いたのは侍女の方だった。
「――壊れずにここまで来てくださって、何よりです」
喉の奥で笑いが弾ける。
あの夜、路地裏で金髪の少女にかけられた言葉。
それとほとんど同じ文句だ。
「……あの女の差し金って自己紹介? 丁寧ね」
「恐れ入ります。殿下より、そう申し伝えるよう命じられております」
侍女が恭しく一礼する。
その仕草にわずかな誇らしさが混じっているのをクレマンティーヌは見逃さなかった。
「私どもは王都までのご案内を仰せつかっております。
どうか馬車へ」
クレマンティーヌはあえてすぐには動かなかった。
御者と男の強さを視線で測る。
動きのどこにどれだけの力が込められているか。
(三人。全員それなりに動ける)
(今の消耗した状態でやり合うのはさすがにキツそう)
それに――。
(ここで暴れて、あの女の機嫌を損ねるのも悪手か)
踵を返し、馬車へ向かう。
侍女が一歩下がって道を譲る。
クレマンティーヌはその横を通り過ぎざま、わざとらしく鼻を鳴らした。
「いいわ。案内してちょうだい。
壊れ物の扱いには慣れてるんでしょう?」
「ええ。それはもう」
侍女は薄く笑ってみせた。
それは、ラナーの笑みをうすめたような笑みだった。
*
馬車の中は外見よりも広く感じられた。
厚いクッションが敷かれた座席。
小さなランタンがひとつ灯っており、内側から外の気配がうっすらと透けて見える。
クレマンティーヌは包みを膝に乗せたまま、対面の席に腰を下ろした。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。
しばらくは車輪の音と揺れだけが続いた。
最初に沈黙を破ったのは侍女だった。
「まずは、ようこそ――リ・エスティーゼ王国へ」
「挨拶は受け取っておくわ」
「光栄に存じます」
侍女は一礼すると、膝の上にきちんと手を重ねた。
「私はラナー殿下付きの侍女で、ルミィと申します。
殿下の代理として、しばしの間、お世話をさせていただきます」
「ルミィね」
「はい。今は、そう呼ばれております」
今は――、という言い方にクレマンティーヌは片眉を上げた。
「本当の名は?」
「処分された家の娘に、名乗る名はございませんわ」
「……へえ」
そう言い切る図太さに、クレマンティーヌは少しだけ口の端を上げた。
そういう態度を見ると荒らしたくなる。
「処分された家ってのは?」
「地方の小さな領地を預かっていた家です。
王都の有力貴族様方の懐を寂しくしてしまいまして」
クレマンティーヌは、すぐに察した。
(税を誤魔化すのを断ったか、王家寄りに数字をいじったか。ろくでもない理由ね)
「横領をした、ことになっております。
実際に懐へ入れたのは別の方々でございましたけれど」
「それで家ごと潰されて、お嬢様は行き場なく、ってわけ」
「はい。修道院送りの予定でしたが――」
ルミィは、そこでわずかに目を細めた。
「殿下が“拾って”くださいましたの」
「……拾い物仲間ってわけね」
「その通りでございます、クレマンティーヌ様」
ルミィは、うっすらと愉快そうな顔をした。
「様」を付けながらも、どこか対等な匂いがする呼び方だ。
「そっちの二人は?」
「御者は職人街から召し上げられた者。
護衛は殿下と同じ派閥に属する貴族様からのお預かり物です」
「やっぱり名前は教えないのね」
「名を知らぬ方が生き残りやすいこともございますので」
それは、クレマンティーヌもよく知っている理屈だ。
名を知らなければ、報告の精度は落ちる。
そして、使う側もその駒の機能だけに集中できる。
法国では、そういう“楽なやり方”を嫌というほど学んできた。
(王国も似たようなものってことね)
「このまま王都まで直行?」
「いえ。まずは郊外の拠点へ。
そこで装いや荷を整えたのち、別の姿で王都へ入っていただきます」
「周到ね。さすが、あの女」
「殿下は、拾い物を大切になさいますから」
その言い方に、クレマンティーヌは乾いた笑いを漏らした。
「クライム様も、私も、クレマンティーヌ様も。
皆、殿下の箱庭に並べられた拾い物ですわ」
「その中で、どれが一番のお気に入りか、聞くのは野暮?」
「野暮ですわね」
即答する。
その迷いのなさに、クレマンティーヌは少しだけ感心した。
*
馬車は森を抜け、開けた土の道へ出た。
ランタンの明かりがわずかに揺れる。
窓越しに見える空には、星がいくつか瞬いている。
「この辺りは、もう完全に王国領よね?」
「はい。形式上も、実質的にも」
「……法国の連中が、ここまで追ってくる可能性は?」
「ございません」
ルミィの声に迷いはなかった。
「国境付近の巡回を増やすよう、すでに手が回っております。
法国側の動きもある程度は把握しておりますので」
「“ある程度”か」
「ええ。殿下とて万能ではありませんもの」
わざとらしく肩をすくめてみせる。
クレマンティーヌは、その演技じみた仕草の裏にある本音を探ろうとした。
法国側の動き。
叡者の額冠の持ち出し。
巫女姫殺害。
ラナーがどこまで読み、どこまで誘導したのか。
(それを確かめるのが、これからの仕事ってわけね)
逃げるだけの立場から、情報を拾い並べる立場へ。
法国の歪んだ価値観から逃れるために選んだ道が、今度は別の怪物の箱庭へ続いている。
それが滑稽であることを、クレマンティーヌ自身もよく分かっていた。
*
数時間も走ったところで馬車が大きく揺れた。
わずかに速度が落ちる。
「そろそろ拠点に到着いたします」
ルミィの声に合わせるように、御者の掛け声が聞こえた。
窓の外には小さな村の灯りが見える。
だが馬車は村に入らず、その手前で道を外れた。
林の中を少し進むと、古びた石壁に囲まれた建物が現れた。
教会だった場所だと、すぐに分かった。
小さな鐘楼。
崩れかけた聖堂の屋根。
だが扉は新しい木材に替えられており、周囲には最近の足跡がいくつか残っている。
「昔は地方貴族の祈りの場だったそうです。
今は殿下の“遊び場”ですけれど」
「遊び場、ね」
「駒を並べたり、隠したりするには、ちょうどよろしいかと」
馬車が止まり、扉が開く。
夜気が一気に流れ込み、肌を刺した。
クレマンティーヌは外套の前を合わせ、包みを抱え直す。
御者と護衛が周囲を警戒する中、ルミィが扉を開けた。
「どうぞ、中へ」
「……罠じゃないでしょうね?」
「罠なら、もっと分かりにくくいたしますわ」
それは、ラナーが口にしそうな台詞だった。
クレマンティーヌは鼻で笑い、教会だった建物の中へ足を踏み入れる。
*
内部は、外観よりも整っていた。
壊れた長椅子は隅に寄せられ、代わりに簡素な机と椅子がいくつか並んでいる。
奥には寝台が二つ。
壁には地図と、王都から国境までの道のりを示す印がいくつも記されていた。
祈りの場は、立派な拠点に変わっていた。
その躊躇のなさに軽いめまいを覚えながらも、どこかで納得している自分がいる。
六大神を飾る祭壇ではなく、ラナーの箱庭を飾る駒を並べる場所として、
ここは機能しているのだろう。
「まずはお身体の手当てを。
服も、このままでは王都に入れません」
ルミィが指で長椅子のひとつを示す。
その上には折り畳まれた衣服がいくつか置かれていた。
質素だが丈夫そうな布。
平民に紛れられる程度の地味さと、動きやすさを両立した服だ。
「殿下がご用意なさったものです。
お気に召さない部分があれば、後ほど調整を」
「たぶん、ぴったりかと思いますが」
クレマンティーヌは外套の留め具に手をかけていた。
ルミィと護衛たちが、自然と視線を外す。
その気遣いが本心か演技かを測るのは、今は後回しにした。
(とりあえず、着替えたいのは間違いないしね)
流血と泥で汚れた服を脱ぎ捨て、最低限の手当を受けた後、
用意された服に袖を通す。
本当に、ぴったりだった。
肩幅。
腕の長さ。
腰回りの余裕。
どれも、彼女に合わせて誂えたかのようだ。
「……採寸した覚え、ないんだけど」
「殿下は、よく人を観察なさいますから」
「……」
だからこそ、彼女のもとに逃げるのだ。
その観察の目が、自分の兄や法国と別のものを見ていると思ったから。
六大神ではなく、外から来る“何か”。
(そこに賭けるっていうなら……付き合ってみても、いいかもしれない)
新しい服の裾を整え、包みを抱える。
ルミィが改めてクレマンティーヌの全身を一瞥した。
「お似合いですわ」
「ありがと。……で、いつでるの?」
「夜が明けてから。
少しお休みいただいたあと、別の馬車で向かいます」
「殿下は?」
「すでにお待ちです。
あなたの状態を確認なさるのをとても楽しみにしておいでですよ」
法国にどんな扱いを受けたのか。
その言外の意味に、クレマンティーヌは肩をすくめた。
「ほんと、趣味が悪いわね」
「ええ。ですからこそ、私たちに価値を見いだしてくださる」
ルミィの目が、静かに笑った。
その言葉に、自分も含まれていることを、クレマンティーヌは理解していた。
六大神に歪められ、兄に縛られ、友人たちを奪われた自分。
その壊れた部分を、あの箱庭の姫は見落としはしないだろう。
「……いいわ。好きに見ればいい」
長椅子に腰を下ろし、背もたれに身を預ける。
まぶたが重い。
川を渡る前から、眠気はとっくに限界を超えていた。
ここまで張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる感覚がある。
「少しだけ、寝るわ」
「はい。お休みくださいませ、クレマンティーヌ様」
叡者の額冠を抱えたまま、目を閉じる。
最後に意識の端に浮かんだのは、あの路地裏の夜のことだった。
外套をかけられた自分。
壊れずにここまで来てくださいな、と微笑んだ金髪の少女。
今度はどんな衣を着せられるのか。
そんなことを考えながら、クレマンティーヌは静かに眠りへ落ちていった。
本作のラナーはクレマンティーヌという掘り出し物を見つけた影響で、原作のようにクライムだけに傾倒せず、収集家のような気質になっています。
それにより、原作より多くの情報を手に入れて、より積極的に動いています。
コメント&評価&お気に入り登録ありがとうございます。
反応もらえるって嬉しいんですね……