「そぉれ、まずは一発っ!」
ルプスレギナが、子供がボールを投げるような気軽さで錫杖を振るった。
だが、そこから生み出されたのは暴風だった。
巨大な鉄塊が空気を引き裂き、クレアの頭があった空間を通過する。
一拍遅れて発生した衝撃波が、背後の木箱を粉々に粉砕した。
木片が弾丸のように飛び散り、倉庫の壁に深々と突き刺さる。
「……ッ!」
クレアは息を呑む暇もなく、地を転がった。
回避ではない。ただ、風圧に弾き飛ばされただけだ。
直撃すれば、防御の上からでも内臓が破裂していただろう。
(速い……! それに、重すぎる!)
クレアは冷や汗を流しながら、即座に体勢を立て直す。
彼女は元漆黒聖典第九席だ。英雄領域の身体能力と、数多の修羅場を潜り抜けた経験がある。
だが、目の前のメイドは、その経験則が通用しない存在だった。
魔法職の気配を漂わせながら、やっていることは純粋な物理攻撃。
しかも、その身体能力は戦士職を遥かに凌駕している。
殴って、治せて、硬い。
持久戦になれば百パーセント負ける相手だ。
「あはは! 逃げ足だけは一丁前っすねえ!
鬼ごっこは得意っすか?」
ルプスレギナが楽しげに笑い、地面を蹴る。
石畳が爆ぜ、赤い影が迫る。
クレアは武技『不落要塞』を発動し、スティレットで錫杖の軌道を逸らそうと試みるが、接触した瞬間に腕の骨がきしむ音がした。
(受け流せない!? なんだこの質量は!)
クレアは舌打ちし、バックステップで距離を取る。
まともに喰らえば戦闘不能になるだろう。
じとりと嫌な汗が背を伝うのを感じた。
一方、ブレイン・アングラウスもまた、悪夢の中にいた。
「硬ぇ……ッ!」
ブレインは歯を食いしばり、襲い来る巨大な虫を刀の腹で受け止める。
エントマが放った刃虫は、空飛ぶ短剣のようなものだ。
一匹一匹が、熟練の兵士が振るう剣と同等の威力と、鋼鉄以上の硬度を持っている。
ガギィッ! と嫌な音がして、刀の刃こぼれがまた一つ増えた。
「あらぁ、もうおしまい?
私の可愛い子たち、まだお腹が空いてるみたいよぉ」
エントマが袖を振ると、さらに数枚の護符が舞い、新たな羽音が加わった。
四方八方からの包囲攻撃。
それは剣術でどうにかなる量ではない。物理的な飽和攻撃だ。
「くそっ……!」
ブレインは防戦一方だった。
斬れない。刃が通らないのだ。
無理に斬ろうとすれば、既にヒビが入った刀が砕け散る。
かといって、受け続ければジリ貧だ。
(どうする? どうすればいい?)
思考が加速する。
恐怖で視界が狭まる。
虫の複眼が、牙が、羽音が、ブレインの感覚を塗り潰していく。
その時、一際巨大な刃虫が、ブレインの首を狙って突進してきた。
ブレインは反射的に刀を合わせる。
合わせてしまった。
高い音が響き、ブレインの手には、軽くなった感触だけが残った。
宙を舞う銀色の破片。
刀身の半ばから、愛刀が砕け散っていた。
「あ……」
「あらぁ。折れちゃったぁ。じゃあ、もう終わりねぇ」
エントマがつまらなそうに呟く。
武器を失った剣士になど、用はないと言わんばかりに。
無防備になったブレインへ向けて、刃虫たちが一斉に牙を剥く。
死ぬ。このままでは、ただの肉塊になって食われる。
『勝とうとするんじゃないわ。死なないように立ち回るのよ』
死なないように。
そうだ。俺はまだ、何も成し遂げていない。
ガゼフを超えるどころか、こんな名もなき倉庫で、化け物の餌になってたまるか。
ブレインの呼吸が変わった。
恐怖で乱れていた呼吸が、深く、静かなものへとなり、腹の底に沈殿していく。
極限の集中力が、周囲の時間を泥のように遅く変える。
刀は折れた。
だが――「斬る」というイメージだけは、脳髄に焼き付いている。
今まで何万回と振るってきた刀だ。
長さ、重さ、空気抵抗。
たとえ現物がなくなろうと切っ先があるべき場所を知っている。
失われた刃を幻視しろ。
そこに「ある」と信じ込め。
俺の剣は鋼ごときに依存するほど柔なものだったか?
否。
ブレインは、折れた柄を構えた。
傍から見れば、届くはずのない虚空への素振り。
だが、彼の脳内では、かつてないほど鋭利で巨大な刃が形成されていた。
「――武技、『空斬』!」
ブレインが柄を一閃させた。
ヒュンッ!!
空気が裂ける音がした。
折れた切っ先の延長線上に、不可視の「風の刃」が発生する。
それは強烈な真空の断層となり、迫りくる刃虫を正面から両断した。
ズバンッ!!
緑色の体液が舞い、真っ二つになった蟲がブレインの左右へと落ちていく。
「……は?」
エントマが、ポカンと口を開けた。
複眼の仮面が、信じられないものを見るようにブレインへと向く。
「な、なに今のぉ? 剣がないのに、斬れたぁ?」
「……はぁ、はぁ……」
ブレインは脂汗に塗れながら、折れた柄を構え続けた。
偶然だ。土壇場の火事場の馬鹿力。
もう二度は撃てないかもしれない奇跡の一撃。
だが、その一撃は確実に英雄の領域に達していた。
「へっ……見たかよ、化け物。
俺の剣は、折れてからが本番なんだよ」
その虚勢が、エントマの警戒心を強めた。
未知の技への警戒。
そのわずかな膠着状態こそが、クレアが待っていた隙だった。
「ブレイン! 伏せなさい!!」
クレアの叫びが、倉庫に響き渡った。
ブレインは理由も分からず、即座に床へと身を投げた。
「え?」
エントマとルプスレギナが、同時にクレアを見た。
クレアは倉庫の隅――小麦粉や、揮発性の薬品が入った樽が積まれたエリアに立っていた。
彼女は先ほどから逃げ回っていたわけではない。
ルプスレギナの攻撃を誘導し、彼女の暴風で荷を破壊させ、中身を撒き散らさせていたのだ。
宙には、小麦粉と可燃性の粉塵が、白煙となって充満しつつあった。
そこに、クレアが手にした小さな火種――火を起こす生活魔法のスクロールが光る。
「遊んでくれてありがと。
お礼に、とびっきりの花火を見せてあげる」
散った火花が、白煙に触れる。
刹那。
爆音が、鼓膜を叩き潰した。粉塵爆発。
閉鎖空間に充満した可燃性粉塵への引火は、爆弾など比較にならない熱量と爆風を生み出す。
倉庫内が、紅蓮の炎に包まれた。
爆風が天井を吹き飛ばし、積み上げられた木箱が崩落する。
エントマの悲鳴が上がる。
蟲使いである彼女にとって、炎は天敵だろう。
彼女は顔を覆い、護符を守るように縮こまって後退する。
「うわ、あっつ! こりゃ派手な花火っすねえ!」
ルプスレギナは炎の中でも平然としていたが、爆風で巻き上がった煙と炎で視界を奪われていた。
再生能力を持つ彼女でも、視界ゼロの爆炎の中では即座に獲物を補足できない。
「今よ!」
クレアが炎の中から飛び出してきた。
彼女は床に伏せていたブレインの襟首を掴むと、爆風で吹き飛んだ壁の大穴へと全力で疾走した。
「げほっ、ごほっ……! おい、何しやがった!」
「説明はあと! 走れ!」
二人は黒煙を突き破り、夜の冷気の中へと躍り出た。
眼下には、市場の汚水を流すドブ川が流れている。
黒く濁った、ヘドロの臭いがする川だ。
「飛び込むわよ!」
「はあ!? ふざけんな、あんな汚え……」
「死ぬのとどっちがいいの!
臭いを消すのよ! あの狼女に追跡されたら終わりよ!」
クレアは問答無用でブレインを蹴り落とし、自らも鼻をつまんで暗い水面へとダイブした。
バシャン、と大きな水音がして、二人の気配は濁流の中へと消えた。
冷たい汚水が口に入り込み、吐き気を催すが、今はそれどころではない。
水底を這うようにして、二人は下流へと流されていく。
*
燃え盛る倉庫の前。
消防の鐘が鳴り響く中、二人のメイドが並んで立っていた。
エントマは焦げた着物の袖を見て、不機嫌そうに唸っている。
彼女の周りでは、数匹の虫が黒焦げになって落ちていた。
「……あつい。あついのは嫌い。
あいつら、許さないぃ。絶対食べるぅ……」
「あはは、災難だったっすねえ、エンちゃん」
ルプスレギナは、煤けた顔を拭おうともせず、ニヤニヤと笑いながらドブ川の方角を見つめていた。
その瞳は、逃げ延びた獲物への称賛と、さらなる加虐心で輝いている。
「追いかけます? 今ならまだ、臭いを辿れるっすよ」
狼の嗅覚を使えば、ドブ川に逃げた程度では誤魔化せない。
本気で追えば、数分で首を狩れるだろう。
だが、エントマは首を振った。
「……ううん。デミウルゴス様が『深追いは無用』ってぇ。
それに、お洋服が焦げちゃったから、着替えないとぉ」
「ちぇっ、残念っす。
ま、今日はもうお腹いっぱいっすかね」
ルプスレギナは錫杖を担ぎ直し、炎上する倉庫を背にして歩き出した。
その背中には、一切のダメージが見られない。
あれだけの爆発を受けても、彼女たちにとっては「少し熱かった」程度のことなのだ。
「まあ、逃げた先も地獄っすからねえ」
ルプスレギナの愉悦に満ちた呟きが、夜風に溶けた。
彼女たちは知っている。
この街全体が、既にナザリックという巨大な蜘蛛の巣の中であることを。
巣から落ちた獲物が、次にどこへ向かうのかを。
人間が必死に足掻く様を、特等席で楽しむ。
それが、勝者の特権なのだから。
絶対にオタクが書いてみたいものランキング第一位、『粉塵爆発』(一生チャンスがこなそうなので書いちゃった)