早朝のエ・ランテル中央広場。
プレアデス商会の買取窓口は既に賑わっていた。
市民たちの手には、街の郊外や森の浅い部分でかき集められた、泥まみれの雑草や得体の知れない根が握られている。
少しでも早く自分の持ってきたものを金貨に変えようと窓口へと殺到していた。
それはもはや商取引ではなく、終わりのない黄金を生み出す魔法の箱に群がる亡者の群れだった。
だが、その狂騒は、広場を取り囲むように現れた重武装の集団によって分断された。
「道をあけなさい!」
早朝の冷気を切り裂くような凛とした声。
純白の聖職者の衣を纏ったクレアが、市長の権限で動員された五十名のエ・ランテル正規衛兵隊を率いて進み出る。
衛兵たちが槍の柄で石畳を叩き、強引に群衆を押し退けて商会の入り口に空間を作る。
騒ぎを聞きつけたのか、重厚な木製の扉が内側から開かれ、優雅なメイド服に身を包んだソリュシャン・イプシロンが姿を現した。
「……何の御用でしょうか? 朝から随分と物騒な方々ですね。
当商会の営業を妨害するおつもりなら、しかるべき対応をとらせていただきますが」
ソリュシャンの声は甘く、しかし絶対的な強者の余裕に満ちていた。
クレアは手にした分厚い羊皮紙の巻物を広げ、周囲の群衆にも聞こえるように、冷徹な声で告げる。
「昨夜、市長および有力者の署名により発令された
『エ・ランテル都市内医薬品安全管理条例』に基づく、緊急立ち入り検査である!
条文は以下の通りである!」
第一条 証明なき素材の使用は、その品質の如何を問わず、これを禁ずる。
第二条 抜き取り検査において、規定外の物が検出された場合、市民への健康被害を未然に防ぐため、当該組織の一切の流通を禁ずる。解除には追加検査の合格と都市長の許可を要する。なお、検査は指定監査機関が執り行う。
第三条 本条例に基づく安全性の立証責任は、行政ではなく事業者が負うものとする。
その言葉に、行列を作っていた市民たちがざわめく。
販売の停止? 買い取りの停止? それは彼らにとって死活問題だ。
「つまり、貴商会で流通しているポーションの素材について、生産履歴の証明を求めています。
第一条により、証明なき素材の使用は例外なく禁じられているので」
それに対して、ソリュシャンは美しい顔に微かな冷笑を浮かべ、反論の口を開いた。
「……少々、条例の解釈が強引ではありませんか?
ここに山積みになっているのは、今まさに市民の皆様から買い取ったばかりの『未分類の素材』です。
当然、これから当工房の基準で選別を行い、規定外の物は廃棄します。
まだ『使用』も『流通』もしていない段階のものを指して条例違反を問うのは、明らかな拡大解釈でしょう」
それは、法の抜け穴を突く冷静かつ的確な抗弁だった。
買い取り窓口の在庫を「商品の流通」と見なすのは、確かに法的にグレーな領域である。
だが、クレアはその流麗な詭弁にも怯むことなく、冷徹に言い放った。
「ええ、その主張は想定内よ。だからこそ『第二条』があるの」
「ほう?」
「本当に貴女たちに『選別して廃棄する』意思があるのか。それとも、買い取ったゴミをそのまま工房の大鍋へ放り込むつもりだったのか。
……第二条に基づき、指定監査機関である薬師ギルドを代表して、ンフィーレア・バレアレ氏に抜き取り検査を行わせ、その『実態』を確認させてもらうわ」
ソリュシャンの逃げ道を塞ぐように、クレアに促されたンフィーレアが震える足で一歩前に出る。
「……失礼します。では、『買い取り済・工房搬送用』の封がされているそちらの木箱を調べさせてもらいます。
先ほどの説明だとこちらは選別済みとのことですよね?」
ンフィーレアは衛兵に指示し、商会が工房へ送る準備を終えていた搬送用の木箱を開けさせた。
バサリ、と音を立てて机の上に中身がぶちまけられる。
「……ひどい有様です。これは、薬草などではない」
ンフィーレアは顔をしかめ、悪臭を放つその山の中から数本の草を拾い上げた。
「青く光るこの葉は月光草に見えますが、ポーションの原料としては何も価値のない偽月光草、通称『愚者のランプ』です。
それだけじゃない……見てください。
こちらの草に至っては……犬か獣の糞尿の臭いが染み付いている」
ンフィーレアの指摘に、持ち込んだ男がビクッと肩を揺らす。
「今までならば、例え貴重な素材でもこういったものは減額、あるいは買取を拒否されてきた。
しかし、あなた方はそれをそのまま、工房への搬送用木箱に詰め込んでいた!
選別の工程など最初から存在しない。これは明確な『素材としての使用』の前提だ!」
ンフィーレアは、広場に集まった市民たち――まさにそういったものを持ち込んだ張本人たち――に向かって声を張り上げた。
だが、言い逃れのできない事実を突きつけられたはずのソリュシャンは、ただ呆れたようにため息をついた。
彼女の顔にあるのは焦りではなく、物分かりの悪い子供を見るような酷薄な色だった。
「……仮に、それらを全て選別せずに工房の大鍋へ入れたとして、それが何か問題でしょうか?」
ソリュシャンの放った一言に、クレアは息を呑む。
「当商会が誇る抽出技術は、そちらの薬師様が用いるような原始的な煮沸とは次元が異なります。
泥だろうが糞だろうが毒草だろうが、不純物は精製過程で完全に消滅し、純粋な魔力溶液だけが抽出されるのです」
「な……」
「条例の第二条には『市民への健康被害を未然に防ぐため』とありますね?
結果として出力される当商会のポーションに、規定外の物質は一切含まれません。
健康被害が物理的に起こり得ない以上、入り口の素材がどのようなものであろうと我々の製品は完璧に安全であり、条例の理念には一切反していない。
……違いますか?」
それは、法の根源たる理念と技術力を盾にした、極めて傲慢で完璧な正論だった。
毒だろうが汚物だろうが、神の如き技術で完全に無害化している。そこに嘘は一切ない。
「健康被害を防ぐ」という条例の目的を満たしている以上、入り口の素材の選別を問うのは無意味であるという強烈な論理。
だが、それが感情で動く人間に理解されるとは限らない。
「……お、俺たちがむしった、犬の小便まみれの草から作った薬を……俺たちに飲ませてたってのか!?」
行列の先頭にいた男が、持っていた麻袋を取り落とし、血の気を失った顔で叫んだ。
錬金術で完全に浄化されていようが関係ない。
『自分たちが小銭欲しさに適当に売った汚物が、巡り巡ってそのまま自分たちの胃袋に入る』という、当たり前の事実に今頃気付いたのだ。
あまりにも愚かしい者たちである。
しかしながら、穢れの感覚に基づく、抗いがたい生理的嫌悪感は避けられない。
そして、『あんなゴミから作られた薬を、ありがたがって飲まされていたのか』という一周回った被害者意識を持ちはじめていた。
群衆の心理は、極端な振れ幅を持って反転する。
欲が深かった分だけ、裏切られたと感じた時の怒りは凄まじかった。
「ふざけんな! 汚えもん飲ませやがって!」
「俺の子供に何を飲ませた! 金返せ! この悪魔め!」
昨日まで商会を称賛し、救世主だと崇めていた市民たちが、一瞬にして目を血走らせた暴徒と化した。
怒りの声を挙げはじめたものは、きちんと選別の上で持ち込んでいたのかもしれないが、こうなってしまえば最早関係はなく、誰も彼もが怒号を挙げる。
投げられた石が、商会の美しい意匠が施された窓ガラスに命中し、ガシャーンという音を立てて粉砕する。
「……ッ!」
ソリュシャンの金色の瞳が、極限の殺意に細められた。
群がる人間ども。愚かで、論理も通じず、恩を仇で返す下等生物。
この程度の群衆、本気を出せば、数秒で広場ごと酸の海に沈め、溶解し尽くすことができる。
物理的な力はナザリックが圧倒している。
しかし、彼女は一歩も動けない。
『プレアデス商会は善良な組織として振る舞え。決して人間から敵対されるような真似はするな』
至高の御方、アインズ・ウール・ゴウンからの絶対の命令。
ここで自分に石を投げる無抵抗の市民を虐殺すれば、アインズの描いた遠大な計画に泥を塗ることになる。
武力も、莫大な資金力も、完璧な錬金術すらも、人間の非合理な感情と、それを縛る法の前に完全に封殺されたのだ。
ソリュシャンは初めて、人間社会という理不尽な泥沼の恐ろしさを知った。
膠着し、暴動が今にも弾けそうになったその時。
商会の裏手に、一台の豪奢な馬車が静かに止まった。
「お困りのようですね、ソリュシャンさん」
完全武装の護衛戦士たちを伴い、黄金の髪を揺らして現れたのは、ラナー王女だった。
彼女は暴徒の怒声や窓ガラスの割れる音など全く聞こえていないかのように、春の陽だまりのような優雅な微笑みを浮かべている。
「……王女。随分早くエ・ランテルに来たのですね。これは貴女の差し金ですか」
「まさか。私はただ、この街の混乱を収め、貴女たちの素晴らしい商会をお救いするための『解決策』をお持ちしただけですわ。……少し、中でお話ししませんか?」
*
商会の奥室。
外の喧噪がくぐもって聞こえる豪奢な応接間で、ラナーは出された紅茶のカップを優雅に傾け、ソリュシャンに向き合った。
「ソリュシャンさん。貴女たちの論理は正しい。
成分は完璧なのでしょうし、私にはその技術の底知れなさが理解できます」
ラナーは、言葉の通じない動物をあやすような、慈愛に満ちた声で言った。
「ですが、商売の相手は人間です。彼らは『真実』なんてこれっぽっちも求めていません。
彼らが買いたいのは『安心という名の感情の免罪符』なのです」
「……安心?」
「ええ。彼らは穢れを嫌う。論理ではなく、感情で。
だからこそ、『第三者が安全を保証した』というレッテルが必要なのです。
どんなに中身が完璧でも、包装が汚れていたり、悪い噂があれば人間は買わない。
……ですから、施療所を公式な監査機関として受け入れてください」
ラナーは懐から一枚の書類を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「施療所が手配した薬師たちが貴女たちの在庫を『検査』し、『市が認可した安全な商品』という小さな札を与えます。
実際には何もしなくてもいい。ただ、その小さな札があるだけで、市民の非合理な感情は満たされ、喜んで買います」
「……我々に、くだらない嘘を売れと?」
「ええ。人間とはそういう生き物です。
……その代わり、売り上げの三割を監査料として市に納めていただきます。
ああ、もちろん、ンフィーレアさんの身柄の引き渡し要求は破棄してくださいね」
ソリュシャンは唇を噛んだ。
それは降伏勧告ではなかった。
プレアデス商会という圧倒的な力を持つ暴れ馬の首に、エ・ランテルという都市の鎖を巻き付け、その手綱をラナーが握るための、悪魔の契約書だった。
*
同刻。ナザリック地下大墳墓、第七階層。
業火に照らされた豪奢な執務室で、デミウルゴスは伝言の魔法を通じて、ソリュシャンからの屈辱に満ちた報告を聞いていた。
『……申し訳ありません、デミウルゴス様。
人間の非合理な感情を利用され、不当な監査と莫大な利益の搾取を要求されました。
私の失態です。いかなる罰も……』
だが、報告を聞き終えたデミウルゴスは、怒るどころか、手にした赤ワインのグラスを揺らしながら喉の奥で歓喜の笑声を漏らした。
「ククク……ハハハハッ! 素晴らしい!」
その笑いに、通信の向こうのソリュシャンが明らかな困惑の気配を見せる。
「ソリュシャン、己を恥じる必要は全くありません。
君は『完全な論理』を完璧に実行した。
ただ、人間という泥に塗れた下等生物には、我々のソリッドすぎる論理は受け止めきれなかったというだけのことだ。
そこまでは予想通りです」
デミウルゴスは立ち上がり、背中の皮膜の翼を揺らした。
「人間の非合理性……感情や忌避感というものは、我々が彼らを管理する上で実に非効率で厄介なノイズだ。
恐怖による支配は簡単だが、今回のような『経済活動による支配』においては、そのノイズが致命的なバグとなる。
私は、あの王女が、この非合理な泥沼をどうコントロールして答えを出すのかに興味があった」
デミウルゴスの双眸が論文を読み解く学者のような知的な興奮に輝く。
「愚かな大衆を啓蒙して論理を理解させるのではなく、『安心という名の無意味なシール』を貼り付け、非合理な感情をそのまま利用して新しい利益を生み出すとは。
……見事な解答ですね」
売り上げの三割など、ナザリックの資産からすれば問題にならない。
重要なのは、ラナーが「ナザリックの完璧なシステムが引き起こす、人間との摩擦」を完全に吸収し、丸く収めるためのフィルターを自ら構築してみせたという事実だ。
利権が乱立していた市場が整理され、買取の窓口がほぼ一元化、しかもそれの監督は行政側で行える。
あまりにも利権が複雑化している王国において、このような交通整理は並大抵のことではできなかったであろう。
「彼女は我々に首輪をつけ、利益を掠め取ったつもりでいるのでしょう。
だがその実、我々ナザリックを人間社会の行政の中核に自ら組み込んでしまったことをどう考えているのでしょうか」
デミウルゴスは虚空に向かって恭しく頭を垂れた。
あの方は、最初からこの結末を見据え、彼女が自ら牧羊犬として完成するよう泳がせておられたのだろう。
我々の至高の主は、なんと慈悲深く、そして恐ろしいお方か。
「ソリュシャン。その条件で直ちに提携を結びなさい。……我々の優秀な部品の働きに、最大限の敬意を表して」
*
数日後。
プレアデス商会の店頭には、「エ・ランテル市・施療所認可済」という小さな札が提げられたポーションがずらりと並んでいた。
暴動は嘘のように収まり、市民たちは「これなら安心だ」「認可があるなら間違いない」と、再びポーションを買い求めている。
物理的な中身は昨日と一滴たりとも変わっていないというのに。
クレアは、広場の端からその光景を遠巻きに見つめながら、胃の辺りを強く押さえた。
「……結局、誰も損をしていないし、誰も血を流していないのよね」
隣に立つブレインが苦笑する。
「ああ。ただ、この街の経済も、市民の心も……怪物に管理される仕組みが完成しただけなんだよな」
「……こちらの怪物とあちらの怪物のどちらがマシなんだろうね」
深い敗北感と、得体の知れない徒労感がクレアの全身を包む。
しかし、これだけでは終わらなかった。
「お疲れ様でした、クレア」
背後から、美しい日傘を差したラナーが歩み寄ってくる。
彼女は商会の繁盛ぶりを満足げに眺めた後、ふと、思いついたようにクレアの耳元に顔を寄せた。
「……ところで、クレア」
「何?」
「ソリュシャンさんは言っていましたね。『自分たちの錬金術は完璧だ』と。……不思議だと思いませんか?」
ラナーの声は、蜂蜜のように甘い。
「それほど完璧な抽出技術があるのなら……なぜ彼らは最初、わざわざンフィーレアさんの『薬師としての腕』を執拗に求めたのでしょうね?」
「っ……!」
クレアの心臓が、早鐘を打つように跳ねた。
振り返ると、ラナーの理知の光を宿した瞳が、クレアの動揺を逃さず射抜いていた。
「……彼に、単なる薬師以上の『何か』があるからではありませんか?
その何かを、あの商会……いえ、彼らの背後にいる存在が欲しがっている。
……ねえ、クレア。私に何か、隠し事をしていますよね?」
ラナーの清々しい笑顔を見て、クレアは目元を歪めた。
どうやら、今度はこちらの怪物と対峙せねばいけないらしい。