夢とうつつの境目で鐘の音が鳴ったような気がした。
重いまぶたの裏で、石畳の路地と金髪の少女が浮かぶ。
外套の重さと骨の軋む痛みのせいだろう。
そのすべてを振り払うように、クレマンティーヌはゆっくりと目を開けた。
天井は低く、木の梁がむき出しになっている。
古い教会特有の、石と木が混じった匂い。
昨夜見た室内と同じだ。
寝台の脇では、ランタンの灯りが絞られ、わずかな光だけが揺れている。
「お目覚めですね」
声の方を向くと、ルミィが椅子に腰掛けていた。
いつの間にか侍女服を着替え、より簡素な上着にエプロンを重ねている。
「どれくらい寝てたの?」
「半日ほど。今は、もう夜明け前です」
「……寝過ぎね」
「それくらい、お疲れだったということですわ」
ルミィは淡々と告げると水の入った木杯を差し出した。
クレマンティーヌは上半身を起こし、杯を受け取る。
冷たい水が喉を下りていく。
その冷たさが、ようやく「生きている」という実感を連れてきた。
「傷の具合はいかがでしょうか?」
「多少はマシになったってところ」
ルミィは、ちらりとクレマンティーヌの手元を見る。
「ご自身でも
「……よく知ってるじゃない」
「蒼の薔薇のリーダー殿と仲がよろしいことも、存じておりますので」
ラキュース。
クレマンティーヌは、その名を思い浮かべて、わずかに視線をそらした。
ラナーとの関係を続けるうちに、王都で何度か活動を共にする機会があった。
その中で半ば押しつけられるように教わった治癒魔法。
「力を持ってるなら、人を殺すだけじゃなくて治すのにも使いなさい」と笑った女の顔。
「……あいつのこと、今は思い出したくないわ」
「そうですか」
ルミィはじっとこちらを見た後、話を切り替えた。
「そろそろ、出立の準備をお願いできますか。
王都へ向かう別の馬車が、間もなく到着いたします」
無言で寝台から足を下ろす。
身体の奥に残る疲労感は抜けていないが、動けないほどではない。
部屋の隅には、昨夜着替えた服が整えられて置かれていた。
そのすぐそばに、布で包まれた小さな包み。
クレマンティーヌは、そっとそれを手に取った。
感じる硬さと冷たさは、まだ変わっていない。
喉の奥でかすかに笑いが漏れた。
*
馬車は昨日のものよりいくらか派手だった。
外から見れば、地方貴族の馬車か、裕福な商人のそれに見える。
御者と護衛も入れ替わっている。
今度の男たちは、いかにも王都育ちといった身のこなしだ。
ルミィは相変わらずクレマンティーヌの斜め後ろに控え、ほとんど口を開かない。
馬車が村を抜け、やがて舗装された街道へ入る。
揺れが少なくなり、ランタンの火が安定した。
窓越しに見える空は、ゆっくりと白み始めている。
「王都まではあとどれくらい?」
「昼前には、外郭には着くかと」
「堂々と正門から入るつもり?」
「そうですね。貴族の馬車を止める愚か者はこの王都にはおりませんから」
クレマンティーヌは王都の内情があの頃とさして変わってないことに嘆息した。
王都には任務で訪れたことが幾度かある。
最初の任務は十三歳の頃だった。
表向きは法国と六大神を祀る神殿との連絡役、
本当の目的は救済の礎たる王国を汚染する貴族の調査であった。
その貴族は調べれば調べるほど埃が出て来て、あっさりと暗殺することが決定された。
散々悪事を働いていたくせに、年端も行かぬ少女に酷く怯え、
必死に命乞いをする豚が面白くて仕様がなく、
いつもよりも時間をかけて嬲ってしまった。
それが良くなかった。
悲鳴を聞きつけた尋常ではなく手練れの
民衆を盾として命からがら逃げたが、手負いの身となってしまい、
路地裏へと迷い込んだのだった。
そうしてあの女に出会うことと相成った。
その数年後には、八本指の麻薬流通ルートの特定のために再び王都を訪れている。
法国において王国は、問題視はされていたが緊急性はあまりなく、
優先度の低い土地である。
当時のクレマンティーヌはその戦闘力に対して、
精神の安定性や気性に不満があり、王国に回されていたのであった。
もっともその精神的な不安定さの原因は兄によって与えられた心的外傷に由来していたのだが……
馬車の小窓から外郭が見えた。
いよいよ、黄金姫との再会が迫ってきている。
*
リ・エスティーゼ王都、王城。
第三王女ラナーは、自室の窓辺に立ち、街並みを眺めていた。
石畳の路地。
屋根の列。
行き交う人々の動き。
それらを昆虫の巣作りを観察するような目で見つめていると、
部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「ラナー殿下。よろしいでしょうか」
控えめな声に振り向き、ラナーは微笑んだ。
「どうぞ、お入りなさい」
扉が開き、無個性な侍女がひとり入ってくる。
軽く膝を折って一礼すると、そのままラナーの前まで進み出た。
「ご報告いたします。
クレマンティーヌ様は境界を越えたところでお迎えすることができたとのことです」
「そう。わたくしの手元まできちんと来てくださって、嬉しいですわ」
ラナーは心底楽しそうに言った。
「まあでも……あの程度で壊れるのでしたら、拾う価値もありませんものね」
ラナーは、窓の外へ視線を戻した。
日も高くなってきた王都。
そのあちこちに、自分の“拾い物”たちが散らばっている。
「クライムは?」
「訓練場にて、今朝も剣の訓練を」
「真面目でよろしいですわね」
ラナーの声には、うっすらと甘さが混じる。
「次に会った時には、わたくしのためにまた少し強くなっているのですね。
――楽しみですわ」
「殿下のご期待に、必ず応えてくださるでしょう」
ラナーは、椅子の背もたれ身体を預けた。
「クレマンティーヌは今日にはつきますの?」
「はい、お会いになられる場は……」
「いつもの応接間で構いませんわ」
ラナーの瞳に、楽しげな色が宿る。
「……忠犬に加えて、可愛い番犬が増えるのですね」
*
クレマンティーヌは王城の一室に通されていた。
豪奢ではないが、調度品はすべて良質だ。
窓からは中庭が部分的にだが見える。
扉。
窓。
家具の配置。
いざという時の退路。
どれも、あまり褒められた造りではない。
避難用には向かない部屋だ。
(まあ、“逃がす気がない”部屋ってことね)
膝の上には、例の包み。
叡者の額冠をむき出しにはしていない。
だが、その冷たさは布越しにも伝わってくる。
扉の外には、ルミィの気配。
そのほかに、おそらくは護衛が二人。
そして――。
静かなノックの音。
「失礼いたします、クレマンティーヌ様」
ルミィの声と共に、扉が開く。
「殿下のお待ちする部屋まで案内いたします」
クレマンティーヌはルミィの後を無言でついていく。
数分歩くと目的の応接室へとついてしまった。
ルミィがノックをする。
「ラナー殿下、失礼いたします」
「どうぞ、お入りになってください」
扉をあけるとそこには薄い青のドレスをまとった少女の姿があった。
金糸のような髪。
蒼い瞳。
完璧な角度の微笑み。
黄金姫と称されるリ・エスティーゼ王国第三王女。
ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ。
「――ようこそ、王城へ。クレマンティーヌ」
国境近くでルミィから聞いた言葉とよく似た響き。
クレマンティーヌはそれに応じる。
「……再びお会いできて光栄でございます、殿下」
「あら。六大神のご加護のもと、とはおっしゃらないのですの?」
「もう信徒ではないので」
ラナーは楽しそうに目を細めた。
背丈は、ほとんど変わらない。
だが、見下ろしているのは完全にラナーの方だ。
彼女にはその高さの違いを否応なしにわからせる雰囲気がある。
「お座りになって」
「そちらがお座りになるなら」
「では、ご一緒に」
ふたり同時に椅子へ腰を下ろす。
ラナーが膝の上に手を重ね、扇子を置く。
クレマンティーヌは包みを膝に乗せたまま、視線だけをラナーへ向けた。
「まずは、お礼を申し上げなくてはなりませんわね」
「お礼、ですか?」
「ええ。よくぞ、あの法国からここまで逃げてきてくださいました」
ラナーの声には、本心からの喜びが滲んでいた。
「あなたが、途中で折れてしまったり、
冠だけを手放してしまったりする可能性も、なくはありませんでしたから」
「……そんなに折れやすく見えますか?」
「いえ。壊れやすくはあっても、折れやすくはないと思っております」
ラナーは続ける。
「だからこそ、“冠を持って来なさい”とお願いしたのですわ」
その言葉に、クレマンティーヌは小さく息を吐いた。
「……はい」
包みを持ち上げ、机の上にそっと置く。
ことりという静かな音がした。
布の端をめくると、朝露に濡れる蜘蛛の巣のような、
金糸を幾重にも紡ぎあわせ冠が露わになった。
叡者の額冠。
巫女姫の祈りを届ける宝具。
「約束の品になります」
「ありがとうございます」
ラナーの声が、ほんの少しだけ低くなる。
蒼い瞳が冠に注がれ、その奥で何かがきらりと光った。
「触っても?」
「はい」
「では、失礼して」
ラナーは、白い指先で冠の縁にそっと触れた。
ほんの一瞬、何かを探るように目を閉じる。
クレマンティーヌは、その横顔をじっと見ていた。
信仰による敬虔な仕草ではない。
魔法の感触を確かめる魔法詠唱者とも違う。
これは、完全に「玩具の状態を確認する子供」の手つきだ。
「……ええ。間違いなく、本物ですわね」
「偽物を持ってくるほど馬鹿ではありませんから」
「存じております」
ラナーは布をかぶせ直し、冠から手を離した。
「今すぐ使うおつもりですか?」
「いいえ。しばらくはここで眠っていただきます。
遊び道具は、全部一度に開けてしまうものではありませんもの」
その言葉に、クレマンティーヌは自分を重ね思わず笑った。
「さて、冠は置いておくとして」
ラナーは、改めてクレマンティーヌに視線を戻した。
「あなたをどう扱うか、が次の問題ですわね」
クレマンティーヌはじっとラナーを見つめる。
「私は価値を示しました」
「ええ」
ラナーはにこりと笑う。
「あなたは、法国の内部事情に通じている。
各聖典の編成、巫女姫の運用、叡者の額冠の歴史。
そして何より――あなたの敬愛する兄上について」
最後の一言に、クレマンティーヌの肩が僅かに強張った。
ラナーは、その反応を楽しむように目を細める。
「……なんでもお見通し、って顔ね」
「全部は分かりませんわ。ただ、壊れ方の予想はつきます」
「……っ」
ラナーは、その可愛らしい唇に指を添えた。
「だからこそ、拾うのです。
あなたのように壊れ方が面白い人を」
露骨な態度にクレマンティーヌは敬意を払うのも馬鹿らしくなってきた。
「……で、具体的には?
私はこれから、あんたの箱庭でなにをすればいいの?」
「お嬢様ごっこはもうおわりですか?」
「馬鹿にしてくる相手に敬意を払えるほど大人じゃないのよね」
「わたくしはそちらの口調の方が仲良くなれたようで嬉しいですよ」
「軽口は良いから何をすればいいのか言って」
ラナーはそこで少し息をつき、指を一本立てた。
「情報を差し出していただくのが第一ですわ」
「法国のこと。冠のこと。
六大神と、それ以外の“来訪者”の可能性について。
あなたが持つ断片を、私の持つ断片と組み合わせたいのです」
「パズル遊び?」
「ええ。世界の絵を少しずつ完成させていく遊びを一緒にしてくださいな」
次に、二本目の指を立てた。
「第二に、時が来た時には、また冠と法国に関わっていただくかもしれません。
巫女姫の代わりになる誰かが見つかった時、あるいは――」
一瞬だけ、ラナーの視線が宙をさまよった。
「あらゆるマジックアイテムを扱える誰か、が見つかった時に」
クレマンティーヌは眉をひそめた。
「あんた、本気でそんな奴がいると思ってるの?」
「王国はそういう“拾い物”が多い場所ですから」
「箱庭の素材には困らないってわけね」
「ええ。とても楽しい国です」
三本目の指。
「第三に――」
ラナーは少しだけ声を低くした。
「あなたには、私の箱庭の“番犬”になっていただきたいのです」
「……番犬?」
「ええ。吠えるべき時に吠え、噛みつくべき相手に噛みついてくれる可愛らしい番犬」
ラナーは、じっとクレマンティーヌの瞳を見つめた。
「あなたは、暗殺者でいらしたのでしょう?」
「……知っていることを確認しないでくれる?」
「もう一度なっていただきます。
六大神のためではなく、今度は私の箱庭のために」
クソッタレの国の犬からクソッタレな女の犬になる。
首輪が変わるだけの話だ。
「立派な犬小屋も用意してありますよ」
ラナーの唇が、ゆっくりと笑みの形を取る。
「あなたの身分は、表向きには“地方教会出身の治癒師”にする予定です。
戦や任務で心を病み、保護を求めて王都へ上がってきた、ということに」
「ずいぶん具体的な設定ね」
「ラキュースと顔馴染みであることも利用できますし、
治癒魔法を多少お使いになれるのでしたら、違和感も少ないでしょう?」
「本当に立派な犬小屋だこと。――いいわ。しばらくは番犬になってあげる」
「では、改めて――」
白い手が差し出される。
「ようこそ、私の箱庭へ。クレマンティーヌ」
クレマンティーヌは、その手をしばらく眺めていた。
力を持たない、ただの細い人間の手。
自嘲気味に笑いながら、その手を取る。
指先が触れ合った瞬間、背筋にぞわりとした感覚が走った。
六大神の祝福でも、兄の歪んだ愛でもない。
もっと別の、得体の知れない何か。
「好きに遊びなさいよ」
クレマンティーヌは、口元を吊り上げた。
「吠え方も噛みつき方も、きちんと教えて差し上げますわ」
ラナーの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
こうして――。
法国を裏切った女は、箱庭の姫の番犬として拾われた。