Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
ストーブの上のヤカンが、細い息を吐いている。
立ちのぼる蒸気が、煎れたばかりのコーヒーの香りと混じって、店の空気をゆっくりと満たしていく。
喫茶まきの中は、いつも別の世界にいるみたい。
通りの陽がガラス越しに差し込む。苦さと甘さの混じる香りが、脳の奥に静けさをしみこませてくれる。
どうしても脱げなかった仮面が、ここでは砂糖のように溶けてしまう――。
そのとき、スマホの振動音がした。
由依が、わずかに肩をすくめる。
お気に入りの席の大平が、慌ててスマホをサイレントモードに切り替えている。
喫茶まきにはテレビはおろか、BGMもない。静けさを楽しむ場所だ。
なのに、大平は来店して座るなり、何度目かの通知音をさせていた。
「いやぁ~まいったよ。ネットの人たちって怖いねぇ」
熱いお手拭きで顔を拭きながら、大平が笑った。お冷を出す由依は、苦笑いで答える。
大平のスマホが光り、思わず見てしまう。
「#富の再配布」「#ニュースマンの闇」
連続の通知に、由依は目を見開いた。炎上している側のスマホを見るのは初めてだ。
「ブラックサイクロン銀行襲撃、あったでしょう? あ、七里君、ブラジルのホットね」
満面の笑みで由依を見ているのに、オーダーだけは店長に直接伝えた。由依は、自分の眉がわずかに吊り上がるのを感じる。
私は飾りってわけね。本当、こういうとこ!
「あれのゆっくり解説動画、投稿してみたんだ。もう見てくれた?」
由依は、首を傾げてみせた。本当は知っている。
『ブラックサイクロン銀行襲撃ゆっくり解説』――、タイトルからして、アウトだ。
「……由依ちゃん、その動画、見たの?」
店長の声は、湯気みたいに静かだった。
「見てません」
嘘を言うのに躊躇いは一つもない。
「なら、見ないままの方がいいよ」
店長は、見たんだ――。
優しさのつもりだろうが、生憎私には届かない。
大平は、他の客が帰ったのをいいことに、自分の動画を流し始めた。静かな店内に、騒がしいニュースマン@|大豆戸(まめど)の声が響く。店長が眉をひそめて、由依を見た。由依は指で小さく〇を作り、安心させる。
「今回、お初な武器は二つ! 競馬用の短い鞭と、縄、この二つですね。使い分けが凄い! ほらここ、この場面!」
女王様の鞭が、銀行員の頬をなぞるところが、逆再生され、スローモーションされる。
「焦らされますね! 実に羨ましい!」
(性癖)(女王様の味方か)(コンプラどこいった)
「コメント数もどんどん増えてるんだ!」
大平は、再生数の部分を拡大した。
「十万も……。すごいですね」
「実況より、見やすいのかもね。あとさ、解説は後からSNSで宣伝もできるし。実況もアーカイブってやつを残そうかね」
よほど反応が嬉しいのか、SNSの画面も見せられる。
「銀行襲撃を最初から! ブレイカーよりニュースマン@|大豆戸(まめど)の方が早い説w」(動画リンク)
動画よりも、SNSのpv数の上がり具合の方が凄まじい。みるみる間にケタ数が増えていく。
(どう考えても早すぎる)(事前に現場を知ってたんじゃないかな)(ブラックサイクロンがニュースマン@|大豆戸(まめど)にリークしたってこと?)(共犯だなんて見損ないました)
いいところを突いている。
実際、大平に匿名でDMしたのは由依だ。今回の銀行襲撃では、ブレイカーに邪魔される前に、二十六人の話をする必要があった。ただの強盗ではないのだから。
視聴者からの返りに大喜びだったから、撮れ高が高ければ、ゆっくり解説もするだろうと思っていた。
予定では「#富の再配布」「#ブラックサイクロンの理念」になるはずだった。なのに、ブラックサイクロンの理念動画がホットになるだけでなく、SNSが起爆剤になった。
「これ、炎上っていうんじゃないですか?」
店長が、大平の前にブラジルのホットを置いた。
「昨日の配信、そんなに悪かったかねぇ。あの台詞、アドリブなんだけどなぁ」
苦笑しながら、どこか楽しそうに言う。七里さんは困ったように相槌を打ち、大平と由依の間に立った。かばってくれている広い背中を見上げる。
「ははっ、炎上様様だよ! こっちがお願いしなくても、勝手に拡散され続ける! こんなおいしい話ないよ」
いつの間にか、トレンドは「#富の再配布」から「#ニュースマンの闇」に切り替わりつつある。
由依は、スマホの光を反射する大平の眼鏡を盗み見た。
使えないやつ。
中立であるはずのニュースマン@|大豆戸がブラックサイクロン側となると、これから伝えていくはずの言葉に効力がなくなってしまう。
大平のスマホの騒がしさが、遠ざかった気がした。
――。何だろう。この違和感。
途中までうまくいっていたのに……。
大平を選んだのには、いくつか理由があった。
純粋に実況が受けることを楽しんでいたはずだ。ブレイカー寄りでない中立の考え方もよかった。
納豆を千回混ぜて、本当においしいのは何回か真剣に実験できる。そんな人柄だから、コンプラ違反すれすれの言葉も、なぜか許せてしまう。それが大平だ。
でも、今回の炎上は違う。
確実に燃える手順を抑えている。
切り取られるのは覚悟だったんだけど、鮮やかだよね。
普通、炎上するにしたって、いろんな立場のコメントがある。でも、今回は揃っている。
「七里君のブラジルがおいしい秘訣は何かあるの?」
「そうですね――。豆の粒を揃えてますね」
大平の素っ頓狂な声が耳に触った。
店長が、カウンターの奥から豆の入った密閉容器を二種類持ってくる。
「こっちがまだ揃えてない方で、こっちが揃えた分です」
大きさが揃った豆は、行儀が良さそうに見えた。
「手が込んでるね」
揃える――。そうか、揃ってるんじゃなくて、揃えるのね。
なるほど、私、利用されたんだ。
ヤカンの湯気は、もう出ていなかった。
五年もの時間をかけて、着実に黒レスラーの数を増やしてきたのには、理由がある。ただ闇雲に人数を増やしても、彼らの生活まで面倒見切れない。あくまで、一般人の生活をしながら、いざというときにブラックサイクロンの理念を広めるコマとして、数を増やしてきたのだ。
そこまでしないと、一般人の主張が浸透するわけがない。
満を持しての、コメントだった。ブレイカーのおかげで、一種のショーのようにさえなっていたのに。
「結局、正義も悪も、再生数の前では同じコンテンツなんだ」
黒幕は大平じゃない。炎上とバズりの違いがわからないような相手ではない。
ブラックサイクロンの理念をいち早く消したい人。目立たずに。人心操作に長けている。
あたしにケンカ売ってるってことよね。
ブラックサイクロンの理念を受け流し、歪めた。この痛みは倍にしたって足りない。
あたしにできるのは、力――、だ。
■━━━□
もう客はおらず、閉店作業をしているだけだ。店長が、みぞれの降る外から電飾ボックス看板を入れた。
「うぅ~、すごく冷え込んでるよ」
手をストーブにかざす店長を見るのが久しぶりで、由依は机を拭く手を止めた。
「残りやっとくから、早めに上がる?」
「いいえ。あと掃除だけですから。店長こそ、レジ締めがあるじゃないですか」
気遣ってしまうのは、二週間ぶりの店長の笑顔の下に、濃いクマができているからだ。いつもよりやつれて見える。
「学年末……だっけ? テスト大変だったね」
「やっと終わりました」
あれから、三日と空けず新宿を襲い続け、やっとトレンドがニュースマン@|大豆戸(まめど)から取り戻せた。
売られたケンカは倍返しする。しょせんこの世は弱肉強食だ。
それにしても、ニュースマン@|大豆戸(まめど)でさえ、実況できなかった日があるというのに、ブレイカーときたら――。もし、スタンプラリーがあれば、スタンプは全部埋まるだろう。
「最終日くらい休んでもよかったのに」
店長が、現金を束にして手提げ金庫に入れた。
「時間よかったら、今日のまかないどう?」
「いただきます」
ラテアートの練習ももう二週間できていない。けれど、今日は店長の淹れたコーヒーが飲みたい。
メイド服から制服に着替え、スマホを確かめる。誤タップのないように慎重に画面を進む。
最後のボタンを押す前に、もう一度文面を確かめた。深呼吸する。
よし。あとは、指で押すだけ。
形を揃えた爪が、揺れる。
私の主張を、簡単に消費するなら、こっちもそうするまでだ。
ボタンを押して、ロッカールームから出た。コーヒーの香りで、自分がまだ“生きている”と確かめた。タイミング良く、コーヒーがカウンターに置かれた。
「どうぞ。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
灯りが落とされ、カウンターだけにドロップライトが照らされている。そのオレンジ色の下に、由依は座った。手に持っていたスマホを何気なくカウンターに乗せる。いつも店内は静かだが、今日はみぞれのせいか、喫茶まきだけ別世界のようだ。
「おいし」
由依のつぶやきに、店長がはにかむ。由依も店長を見て笑った。
その時、カウンターに置いたスマホが、光った。
『二月十九日、富と権力の象徴である銀座を襲いにあがります。ブラックサイクロン』