Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
CBフォアのエンジン音が、新橋の高架に反響する。
居酒屋ののれんを押し出して出てくるサラリーマンたちが、赤ら顔で愚痴を吐き出している。
金曜夜に呑めるだけマシ――ってのがな……。
かつては自分もそこにいた。
七里はにじみ出る言葉を振り切るようにアクセルを開け、国道十五号を銀座へ向かう。
たった数分――なのに、御門通りを抜けたら、空気が急に冷たくなった。
焼き鳥の煙、客引きの声や酔っ払いの大声が、消えた。
車でさえ静かに動き、香水の匂いにワックスで整えられた髪。誰も汗をかかずに、ぶつからないように歩く。
本当にここにブラックサイクロンが?
疑いたくなるほど、整っている。 逃げる人々のヒールの音さえも規則的で、誰も叫ばない。逃げない人々は、スマホを掲げている。
その静けさを、爆音が引き裂いた。
先の交差点で、ショーウィンドウのガラスが砕け散った。
有名なモノグラムのロゴが、黒煙の向こうでゆがんでいた。
悲鳴よりも早く、炎の光がビルの壁を走る。
銀座の夜が、きれいに壊れていく。
七里は、交差点でブレーキをかけた。反射的に見上げる。
銀座を象徴する時計塔が、八時を告げている。
その上に、黒い女のシルエットが浮かんでいる。
「遅かったのね、ブレイカー。もうほら、ショーウィンドウも、ギンザシックスも燃えてるわよ。――燃えれば、ハイブランドも枯れ葉も同じだなんておもしろいわね」
七里は答えられなかった。
火の粉が舞い、灰が金色の雪みたいに降っている。
その静寂を破ったのは、誰かのスマホだった。
「マイクを現場の声に向けてみましょう! 『どうして銀座に?』『格が違うでしょ』『新宿でやれよ』――。総じて、銀座にブラックサイクロンは似つかわしくないという言葉……!! 銀座は女王様に合わないのかぁ!」
そのとき、黒い塊が群衆を割った。
一人の黒レスラーが誰かの手首を掴み、スマホを引きはがす。画面は火色を映したまま、振られて床に叩きつけられた。
もう一人が踏みつける。プラスチックとガラスが沈む鈍い音が、実況の声より重く響いた。
それで、通りの向こうから聞こえていたそれぞれのスマホの実況は、すうっと薄れていった。
誰もがスマホを隠して、地下鉄へと静かに消えていく。
「……格、ね」
いつもなら新宿のあちこちにある大型ビジョンから、ニュースマン@|大豆戸(まめど)の声が否応なしに聞こえてくる。一種のショーじみたそれをうるさいと思ったことはない。
銀座には強制的なLEDビジョンはない。あるのは明治時代からある大型時計塔だ。ブレイカーを応援する市民の声もない。
「誰が見ていなくても正義は正義だ」
七里はCBフォアを停め、近くの消火栓に目をやった。
炎の前で、消防隊員がホースを繋げずに立ち往生している。トラックが道を塞いでいた。
七里は無言でトラックのフロントをつかみ、片腕で持ち上げた。
消防隊員が短く礼を言い、ホースを繋ぐ。
それを見届けて、七里は空を仰いだ。
時計塔の上。女王様が、ただ静かに見下ろしている。
女王様はブレイカーを見た後、時計塔から隣の建物へと飛び移った。長細いガラス張りのビルまで来ると、ブレイカーが見ているのを確認して、並木通りへと降りる。
「来いってか!?」
七里は咄嗟に走った。
用意周到に消火活動を邪魔する車両をどかせながら、女王様を追う。
それを、黒レスラーたちが邪魔しに襲い掛かってきた。
最前列の一人を肩で受け止め、膝で沈める。
アスファルトがひび割れた。
次の一撃を肘でいなし、回転しながら背後のレスラーを壁に叩きつける。
ショーウィンドウが粉々に砕け、ディスプレイのバッグが宙を舞う。
足元に転がった掌サイズのバッグのタグが見えた。
皮のキルティングの小さなバッグは、七里でも知っているマークだった。でも、まるで子供用に見える。それが、百万円に近い!?
ざっと飛んだバッグの数は、五つ……、いや、もっとだろう。
「……嘘だろ」
なぜ新宿でやってくれないのか。
ブラックサイクロンが出るのは新宿と決まっていた。
壊される前提の看板。撮られる前提の正義。
けれど、銀座には、壊れる前提の物なんてない。
「新宿がおかしいってことか」
七里は、ガラス片を踏みしめて立ち上がった。
並木通りは、静かだった。
銀座の大通りの一本裏、一方通行の道路にはずらりと高級車が並ぶ。
ハイブランド店が大きな窓に自慢の商品を飾り、赤御影の歩道には、光を吸うような艶があった。
大型商業施設にはない贅沢が、この並木通りにはある。
わざわざ一本裏へ入り、時間をかけて選ぶという行為そのものが、特権だ。
大きなショーウィンドウには、華美な装飾ではなく“品格”がある。
ひと手間かけて入る時間と空間の贅沢――それが、銀座並木通りだった。
だが今、その“品格”の街に、煤と炎が這っていた。
高級車の塗装が熱でゆがみ、窓に並んでいた商品が煙を上げている。
女王様が、その道の中央に立っていた。
高いヒールの音だけが、焼けた舗装を叩く。
まるで、自分こそがこの街の審判者だとでも言うように。
「ほんとに律儀ね。ブレイカー?」
その声は、火よりも冷たかった。
「搾取される側なのに、“社会の正義”を守るんだもの」
七里は答えず、拳を繰り出した。
女王様が、それを両手で受け止めながら受け流す。
街路樹のシナノキが折れ、電飾が散った。
互いの瞳が見えるほどの近距離。
女王様は、ブレイカーを見て微笑んだ。
「銀座を狙った理由、知りたい?」
七里が女王様の腕を掴んだまま、目を細める。
「ここは、“持てる者”の聖域。どこもかしこも窓ガラスばかりよね。見えない搾取が、一番美しくディスプレイされている場所なのよ」
女王様の拳が飛ぶ。七里はそれをかわし、路肩の車体を盾にして跳び上がる。EXECUTIVEと記されたレクサスが、真っ二つに折れた。
蹴りを叩き込む。女王様が宙を舞ってかわし、七里は、またショーウィンドウに激突した。
「……それが、壊す理由か」
七里は息を吐いた。
気づいている。
女王様は、わざと壊させている。
見えない搾取を、そして、富の象徴を、正義のヒーローを名乗る俺に!!
「怒りで壊すのは間違えている!」
七里は吠えた。
とっくにわかっている。|ブレイブ(勇気の)|バイカー(単車乗り)なんて、誰も思ってくれてやしない。自分ができているのは、ブラックサイクロンの被害を未然に防ぐことはできず、破壊を残してしまう。
それでも、続けてこれたのは、ただそれが社会のためだと思えたからだ。
「アハ! 壊すのが怖いの? それとも、壊しても誰も見てくれないのが怖い?」
女王様の笑い声と共に、ヒールのかかとが七里のヘルメットをかすめた。白い建物にヒールが突き刺さる。
七里は、突き刺さったヒールごと女王様の足を引っこ抜いた。
怒りのままに、女王様を道路の向こう側に放り投げる。弾丸のように女王様はビルに突っ込んだ。細長いビルの総張りのガラスに亀裂が入っていく。
七里は、肩で息をした。
鼓動が早い。頭痛がする。
聞きたくなかった。
社会のための正義は、称賛のためではないか?
そこに悪がある限りと、奮い立っているのは自己満足のためではないか?
銀座には大型ビジョンがない。
ここには、ナイトブレイク・チャンネルはない。
七里の目の前で、ガラスが一気に砕け落ちた。
真っ白なガラスの粉を浴びながら、真っ黒なボンテージ姿の女王様が現れる。
銀座の夜が華やかに粉々に砕け散る不快音と引き換えに、女王様の高笑いが残った。
「あなたは命令される側ってことね」
「それがどうした!」
普通のサラリーマンになりたかった。社会の歯車になれば、自然と結婚もし、子供もいる。だが、現実は違った。多様化社会? 違う。多様でなければ、生き残れない。
「……誰が見ていなくても、正義は正義だ」
女王様の長い髪が、炎の上昇気流に舞い上がる。
「搾取されてるのに?」
女王様が、降ってきた看板を片手で受け止めた。誰もが知るブランドロゴがデザインされている。
もし、実況されていれば、広告料金が上がるだろう。
「正義? そんなものは都合のいい誰かが言い出したまやかしよ」
その声が、炎の揺らめきよりも冷たく七里を包む。
幼い頃から散々植え付けられてきた価値観だ。「あなたはそれでいいの? それは正しいの?」形のない正しさは誰にもわからない。罪悪感に付け入れられる。支配者に残念だと言われるのが怖い。
社会のために戦ってきた。でも、社会が誰かを苦しめるのなら――。
「あたしは力でねじ伏せる! 自分の選んだ毒で!」
女王様が看板をブーメランのように投げた。七里が手近のパラソルスタンドを掴み、盾のように構えた。
金属が激突し、火花が夜空を散らした。
衝撃で、貼られていた広告が破ける。
破れた広告ポスターが、不規則な動きをして舞い落ちてきた。
紙にかろうじて残る文字――
「負けるな」
それは、高級コートの煽り文句だったのかもしれない。
だが、今の七里には、ただ真っ直ぐに響いた。
胸の奥で、何かが灯る。
七里は拳を握り直した。
「――。そうだ。正義は与えられるもんじゃない。自分で選んだ道だ!」
七里が地面を蹴った。
並木通りの中で、拳と拳がぶつかり合う。
女王様が、受け止めきれずにわずかに後退した。
七里の拳が炎を裂き、女王様の身体を吹き飛ばす。ビルの壁面に黒い影が散り、火花が走った。
その時、夜空の端から小さな光が近づいてくる。
羽音のようなプロペラ音。
ドローンの赤いランプが、七里のヘルメットに反射した。
女王様はそれを見て、薄く笑った。
「ああ、ようやくカメラが来たのね。じゃあ、――これで幕よ」
彼女の姿は炎の中に消え、風だけが残った。
七里は歯を食いしばった。
報道も、破壊も、どちらも“見せもの”になっていく。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
ヘルメットの奥で、七里は息を整え、銀座の燃え跡を見つめていた。