Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
風を切って、七里は夜のLUMINEの屋上へ降りた。
着地の衝撃でネオンが砕けて跳ねた。
鞭が来る。速い。
空気が切れる感覚で、七里はのけぞった――が、鞭の先端は予想外の動きをし、さらに七里に向かう。反動のまま、さらにバク転する。
「追うより追わせろってね! 子猫ちゃん!」
反射で叫び、蹴りを返す。
が、女王様は大きく間合いを開けた。
大平のゆっくり解説動画が出てからというもの、女王様の戦い方が変わった。寝技を避けて、距離を取っている。
案外、ナイトブレイク・チャンネルを見てるのかもな。
「いやぁ~、皆さん、見えますかコレ! “LUMINE”が“MINE”! “私のもの”ですよ。新宿は女王様の手に落ちたのかぁ!?」
(LU消えただけで意味深w)(そして再分配)(お慈悲を~)
壁面の大型ビジョンから声が聞こえてくる。ドローンが七里の目の前でしつこくホバリングする。いつもなら巻き添えを警戒して遠くから撮影しているのに、今日のナイトブレイク・チャンネルはひつこい。
七里は、喉の奥で音を殺した。
ヘルメットは、外側から顔が見えないようにミラーシールドにしてある。とはいえ、アップで撮られていい気持ちはしない。ましてや、戦闘中は本能の今は、理性より本能が勝っている。
空気のうねりを感じ、七里は一歩だけ軸をずらす。
鞭がわずかに頬をかすめ、火花が散った。
空を切った金属の勢いは止まらず、ドローンを真っ二つに裂いた。
実況が叫ぶ中、女王様の長い髪が揺れた。
黒いボンテージが、MINEの白いネオンへと飛び降りた。
七里はそれを追って、サザンテラスへ飛び降りた。
人気のないテラスの中央に、女王様が立っていた。
青白いイルミネーションが、エナメルのマスクに鈍く反射する。
新宿南口近くのゆったりとしたテラス型広場だ。各種電車が並走している。
まるでリズムを取るように、鞭が規則的に地面のタイルを叩いている。
先端の黒い稲妻型の金属が擦れ、不愉快な音が響く。
「ショーはもうたくさんだわ」
「二人だけのランデブーをご所望かな」
言葉が交わされた瞬間、二人同時に動いた。
鞭が跳ね、ブーツの底がタイルを裂く。
圧の“起こり”で、七里の身体が前のめりになる。
雷を引き裂くような軌道で金属が伸びる。
次の瞬間――
視界がスローモーションに落ちた。
鞭の軌道だけが、異様にくっきり見える。
七里は右へ捻ってかわす――が、わずかに遅い。風が腕を焼く。
反射で拳を振り、グローブの鉄芯で鞭を弾いた。
狂った軌道の稲妻が、女王様のマスクを裂いた。
二人の息が止まる。
「……っ!」
青いイルミネーションに照らされて、刻まれた隙間から見えた――左耳。
黒い点が、光に照らされて、白い肌に浮かぶ。
七里の瞳孔が拡大する。
……見覚えが、ある。
右腕に痛みが跳ねた瞬間、身体が動いた。
逃がさない――それだけが、七里を支配した。
女王様との距離を一歩で、イーストデッキの欄干に追い詰める。お互いの呼気が触れる距離。
逃がさない。その一点だけが、全身を支配している。
血が、女王様の耳から、そして七里の腕から流れる。
光の層が、二人の影を重ねた。
――耳のほくろ。
喫茶まきで見た瞳。
「ゆ――」
七里が名を呼ぼうとした瞬間、女王様が、真っ赤なルージュから白い歯をのぞかせた。
挑発でも、勝利でもない。
秘密を分け合う蠱惑的な笑顔にあっけを取られる。
七里が息を呑む。
その刹那――、女王様は後ろへ、欄干から身を翻した。
同時に電車が走り抜け、銀色の車体が光を散らした。
その光の消えた先に――女王様はいない。
追い付いてきたドローンが、七里を周遊する。
七里は、ヘルメットに二本指をつけた。
「出ました! ブレイカーの夜風サインです! 今夜の勝者もブレイカー!」
(どこ壊した?)(やっぱ新宿)
七里は、右腕を抑え、静かに息を落とした。
イルミネーションが遠ざかる。
■━━━□
喫茶まきの灯りが見えた。
胸の奥が、じん、と温かくなる。
――、帰ってきた。
店長のバイクがない。
いない――その事実に、ほっとした。
……なのに、息も詰まる。
ブレイカーは店長かもしれない。
至近距離で見た瞳を思い出す。
寒い日のマグカップに入ったコーヒーみたいな色。
それと、ブレイカーの真っ直ぐ燃えるような視線は全く違う。
でも、似てると思ってしまった。
考えるな――逃げろ。
身体が勝手に動いた。
聞きたくなかった。ヘルメットでくぐもった声で、呼ばれたくなかった。
呼ばれたら、もう会えなくなる。
関係が壊れてしまう。
誰もいない裏口に手をかけ、指先が震えた。
ドアを閉め、身体を店内に滑り込ませる。
レトロな石油ストーブの発する温かさも、コーヒーの香りも、喫茶まきに閉じ込めておきたい。
冷えたロッカー室で、手袋を外す。
着替えなきゃ。店長が帰ってくるまでに。早く。
喫茶まきの閉店時間まで残り三十分。
店長がブレイカーの追っかけで戻らなければ、鍵は由依が閉めることになっている。
それでも、会いたい。
会っちゃったら――どうなるんだろ。
震える手で、マスクを外すと、乾いた血が剥がれた。
鏡を見て、自分に驚く。
女王様でも、メイドでもない。
女王様の服を着て、怯える和田由依がいた。
ファスナーを下ろす。
黒い革の内側に汗をかいて、冷たい。
震える指先が思うように動かず、網タイツを脱ぐのは諦めた。
女王様の網タイツの上から、パニエを履き、ロングワンピースをかぶる。黒いワンピースの上に、白いエプロンをつける。
リボンの柔らかさに、顔をしかめた。
「バイトに戻るだけ……」
いつもウキウキで着ているはずのメイド服が苦しい。
もう一度鏡を見る。
髪をおさげに結いながら、何度もいつも通り笑う練習をする。
メイドの由依ちゃんに戻れるように。
指はまだ戦場の震えを覚えている。
――そのとき、喫茶まきの裏手で、バイクの音がした。