Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
■ 第16話 黒い稲妻、焦げついた距離
午前中の喫茶まきは特別だ。
外では、どこかへ急ぐ足音がせわしなく通り過ぎていくのに、ここだけ時間が止まったみたいに静かになる。
ストーブを焚き、観葉植物に霧を吹く。看板を出したら、コーヒー豆の大きさを丹念により分ける。
乾いた豆がカラカラと音を立て、ストーブの鍋でゆで卵が揺れる音が重なる。
モーニングはやっていない。来る客も多くを求めず、ただコーヒーを味わって、ひっそりと帰る。
――いつも通り。
そう思うたび、胸に刺さった棘が痛む。
時計を見る。
十一時半まで、まだ十五分もある。
来るだろうか――。
……大丈夫。仕事をしてればあっという間にランチだ。
自分に言い聞かせながら、豆をサイフォンにかける。
カランと、ウィンドウチャイムが鳴った。
「おはようございます」
「お、おはよう!」
声が跳ねた。
よかった。来てくれた!
今日の由依ちゃんのシフトはランチからで、つまり――、十一時半が出勤時間だ。
セーラー服の襟をカーディガンの外に出し、黒いタイツを履いたいつもの姿を見るだけで、もし尻尾があるならぶん回す勢いで嬉しい。
制服姿を見られるのも、もうあと少し。
四月になれば、きっと新しい場所で輝いている。
卒業後の進路については聞いていない。
ていうか──聞けない。
話してくれるのを、ただ待つだけだ。
目が合う。
合った瞬間、慌てて目を反らしてしまった。
それでも、気づけば見てしまう。
昨日、触れてしまった左耳を。
「……着替えて来ますね」
膨らんだエコバッグの中にはメイド服が入っているのだろう。
昨日、由依ちゃんはメイド姿のまま出て行った。その意味を一晩中考えた。
着替える余裕がないほど怖がらせたのか。
自慢にしていたメイド服ごと消えるのか。
いい意味は一つもなかった。
「|店長(マスター)――、店長?」
由依ちゃんの声に我に返る。
「時間――、過ぎてませんか?」
白いレースのカフスから出た手が指さすのは、俺の目の前のサイフォン。
木べらで回す抽出時間は一分と決めている。
あれ……俺、いつから?
自分でも信じられない。
普段、絶対にしないミスをしでかして、慌てて火を止めた。
木べらを茫然と見つめ、視線を感じて上げる。
由依ちゃんと目が合う。
そろって逸らした。
目が合うだけで、意識だけが昨夜の距離感に急速に戻る。
新しい客が来て、揃って笑顔になる。
「いらっしゃいませ」
水を出しにいく由依ちゃんを目の端で追いながら、ブレンドを淹れ直す。
注文と交代でカップを渡す。
「……あの、その、今日、寒いね」
自分で言いながら、ダサいと思った。
もっとスマートな言葉はなかったのか。
「そ、そうですね」
由依ちゃんは、頬を引きつらせ、すぐにカウンターを離れた。
俺の「寒いね」が凍り付いて、地面に落下し、砕ける。
やばい……。
このままだと、本当に普通に戻れない。
どうやって普通の店長に戻ればいい?
断りもなく触った理由を弁解すれば、触れたくないことまで言わねばならない。
距離を戻したいのに戻れない。
わずかな時間を、安心して笑って欲しい。
厚切りトーストを焼き、茹でタマゴにサラダを用意する。
いつものランチメニューのはずなのに、余計に神経を使う。
俺がしっかりしなけりゃ。
喫茶まきらしく、静かに注文の品が運ばれるが、アイコンタクトを取ろうにも、頑張って視線を上げたら、僅差で目を逸らされる。
打つ手なく、時が過ぎる。
幾人かの客がランチに来店し、帰るのを見送る。
注ぎたてのコーヒーを、いつものように由依ちゃんに渡す。
「ねぇ! 七里君見た? 黒い稲妻の落書き!」
突然の大声に、トレイに置いたばかりのコーヒーカップがソーサーごと滑った。
反射的に手を伸ばす。
「危ない!」
同時に、カップを掴んでいた。
遅れて、宙に舞っていたコーヒーがカップに戻る。
最後の一滴を受け止めようと動かした手の動きがシンクロする。
由依ちゃんは目を丸くして、俺を見つめた。
「離すよ」
由依ちゃんが頷く。沈黙を予感して、胸が痛む。
「すごっ、今の何? 何が起こったの?」
声の主は、大平さんだった。
いつものトレンチコートのままで、俺と由依ちゃんの間に視線を泳がせている。
「いらっしゃいませ」
由依ちゃんが、すました表情に戻った。背を伸ばして礼をする。そそくさとコーヒーを提供しに離れる。
「いや~、あぁいうのってツンデレって言うんでしょう?」
「どうでしょうね……」
大平さんの分の水と、おしぼりをセットしながら、話題を変える。
「ところで、大平さん、落書きって何のことです?」
「え、知らないの? 遅れてるね」
いつもの席に大平さんを先導しながら、思わず笑ってしまう。
「速さで、大平さんに敵うわけないですよ」
元新聞記者で、ニュースマンだ。大平さんはそこまで見越して言っている。ドローンを真っ二つにされた割には元気そうだ。
「じゃあ、ブラジルのホットね」
「かしこまりました」
トレンチコートを脱ぐ前に、大平さんがスマホを渡してきた。
画面には、黒い稲妻の落書きがあった。
ガードレール、四角い緑の地上機器、トンネルの壁、各種落書きを黒い稲妻が更新している。
「見たことありますね」
普段気にしなかったからわからなかったが、言われてみれば、そこかしこで見かける気がする。
座って落ち着いた大平が、七里から受け取ったスマホの画面をスワイプした。取材なのか、かなり多くの落書きを撮影してある。
「SNSじゃ、ブラックサイクロンの目覚めって言われ始めてるよ」
「目覚め……ですか」
大平の機嫌の良さはここにあるらしい。
ニュースを追い求めるのは、大平の生き方なのだろう。
「新宿だけじゃなくてね、渋谷や銀座にもあるって。じわじわ増えてきてんのよ。ブラックサイクロン派が」
大平が、画面をいじり始めたので、七里は注文のブラジルを淹れにカウンターに戻った。
目の端で、つい由依ちゃんの動きを追ってしまう。
大声の大平の声は、由依ちゃんにも聞こえているはずだ。
由依ちゃんは、まるで聞こえていないかのように食器を下げてきて、溜まっていた皿を洗い始めた。
湯が上がってきたサイフォンの中で、豆がふくらむ。
コーヒーの香りが立つほどに、ブラックサイクロン派が増えてきているという言葉が、七里の中を渦巻き始めた。
ブレンドをカウンターに置いても、由依ちゃんは気づかないフリを続けている。仕方なく、七里は自分で大平までサーブに出向いた。
「ほら、見て。“破壊こそ再生の一歩”でしょ。これなんか“渦巻く欲望を解き放て”だよ。女王様が前によく言ってたお約束だよね。視聴者は本当よく見てるよ」
大平が見せてくれた動画には、(正直スカッとした)(腐った秩序)(膿を出し切るしかない)などのコメントが矢継ぎ早に流れている。
七里が見入る姿に、大平はブラジルを啜った。
「うまいね。やっぱりわかる人には通じるね」
同じカップからもう一口飲んで、今度は小さくため息をついた。
街の空気が変わり始めているんだろうか。
黒い稲妻の落書きが、受け入れられて、増えていく。
ただのいたずらなのか、それとも不満の着火剤なのか。
もし、どこかで火がついたら。一気に燃え広がるだろう。
そのとき、世の中の「正義」がブラックサイクロン側に傾いたら――。
俺の正義は、どこに残るんだろう。
胸の奥がザラつく。
暴力ではなく秩序が正義だと言いたいのに、していることは破壊……。
後頭部に視線を感じた。
振り向けば、目を逸らされると思えば、犬のように無垢に振り向けない。
「それでさ、昨日のLUMINEの戦いを分析したんだけど――、ほらここ!」
大平は動画再生速度を0.25倍に調整する。
「ここ、見て。まず女王様の跳躍」
画面の中、女王様が飛び移ったLUMINEの看板からサザンテラス側の庇が映った。
ドローンは真っ二つだったから、後から撮影されたらしく、画面は昼間だ。
コマ送りされるたび、距離が表示される。
「この距離、だいたい八メートル。人間の垂直跳びの世界記録の四倍。しかも、この姿勢のまま着地してんのよ。脚、折れるって普通」
しかも、ピンヒールなんですよ。あれ痛いんだよなぁ。満員電車の比ではない。
「で、こっちがブレイカー」
女王様の鞭をかわしながら、七里がつかんだ看板が映った。
「これさ、片手で看板掴んでるでしょ。次が昼間の写真ね。見て、フレームにくっきり指の形が食い込んでるでしょ。握力何キロよ、これ」
七里の背中に嫌な汗が流れる。
「で、ここが一番バグってる」
大平はさらに拡大する。聞きたくないが、聞くしかない。
「この瞬間、二人とも“空中で方向転換”してるのよ。人間、推進力ゼロで方向変えられないんだって。なにこれ。無重力なわけ?」
七里は、血の気が引くのを感じながら、笑顔のまま耐えた。
「いやほんとさ、二人だけ人体の仕組み違くない? なんか同じ基礎スペック持ってる感じすんのよね」
喉が渇いたのか、大平は一気にお冷を煽る。
「――同じスペック……、ですか?」
胸の奥が冷える。
冗談のはずが、大平の言葉が刃物みたいに刺さる。
「同じ蜘蛛に噛まれた的なやつだよ!」
大平は、照れくさそうに大声で笑い始めた。
「アメコミの見過ぎですよ」
七里は笑ってカウンターに戻った。
本当は――口にしたくもない、あのバイトのせいだ。
流しの後ろを通ったとき、見ないようにしていた由依ちゃんがふと耳に触れた。
左耳。
すぐに手を離して、何でもないふりでグラスを磨き始めた。
でも、その一秒にも満たない仕草が、やけに胸の奥に張り付いた。
俺が通るのをわかってて、触った。
由依ちゃんからのメッセージだと思った。
潮目はここだ。
今日を別れの日にするのかどうか、俺にかかっている。
店内を見直す。
客は大平さんしかいない。
やるなら、今しかない。
「由依ちゃん――」
視線が合った。
どこか試しているような冷たい視線に、バレないように深く息を吸う。
「明日、生豆の仕入れに行くんだけど、手、借りてもいい?」
「仕入れ……ですか?」
通販でもいいが、喫茶まきのような小さな店なら送料がかかってしまう。なるべく新鮮な豆でコーヒーを提供したいから、気分転換を兼ねて、仕入れに出るのだ。
誰かを誘ったことはなかった。
由依は、少し悩んだようだが、小さく頷いた。
「……できれば、明日はズボンで来て」
一気に言って、七里は豆の焙煎を始めた。由依の様子を見る勇気がでない。
「いいねぇ。若いっていいね」
大平の茶化す言葉が、ブレンドに乗って喫茶まきの空気に漂う。
由依ちゃんは何も言わない。
俺を無視してるからじゃなくて、これが、由依ちゃんにとっても、重い決断なんだと、わかった。
焙煎機を手で回し始める。豆が金属に当たる無数の音で、自分の鼓動も、彼女の答えも、全部かき消してくれる。
断られたら――それで終わる。
だけど。
それでも、「また明日」の言葉を諦めたくない。
店長としてでも、ブレイカーとしてでもなく――長谷七里として。