Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
喫茶まきの窓から指す光が、いつの間にか金色から薄い紫になっていた。
カップを拭く手を止めて、外を見る。
どこかへ帰る人が早足に通り過ぎて、店の中だけ時間がゆっくり流れているみたいだ。
今日も何事もなく終われそうだな――。
残ったトーストを数えて、まずまずうまくいっていることに安堵する。
カウンターの向こうで、由依ちゃんがスプーンセットを作っている。
この間の仕入れから、ぎこちなさは残りつつも、今日にでも辞めてしまいそうな危うさは消えた。
気づけば由依ちゃんを見ていて、顔を上げた彼女と目が合った。外を見れば、一緒に外へと視線を移す。
「夕焼け……きれい」
薄曇りの紅の空に、藍色がゆっくり混ざりあっていく。
光は弱いのに、やけに胸に染みる。
「そうだね。二月っぽい色だ」
なんでもない会話なのに、心が穏やかになる。
このまま閉店時間になって、「またね」と一日を終えられたらいい。
そんな毎日が積み重なって、春になればいい。
そんなことを珍しく思った――そのとき。
《緊急ヴィラン警報。新宿南口エリアに……》
店内の空気が、パチンと割れた。
由依ちゃんの肩が、僅かに跳ねる。
ほんの一瞬。
すぐに表情は戻った。
夕暮れの柔らかい色が、吹き飛んだ。
驚きを押し殺したんじゃない。飲み込んで、覚悟に決めたような顔。
……強い。
「いってらっしゃい」
小さな声なのに、まっすぐ俺を見ている。
「行ってきます」
返した瞬間、由依ちゃんが静かにうなずく。
その表情がやけに胸に焼きついた。
昨日までメイド服ではしゃいでいた幼さが、どこかへ行ってしまったみたいだった。
何が……彼女をここまで強くしたんだろう。
寂しいとすら思う自分が、ひどく傲慢に思える。
エプロンを外しながら、バイクの鍵を探る。
“店長”から“ブレイカー”へ。
意識的に切り替えに待ったをかける。
扉を開ける直前、振り返りたかったのを堪えた。
背後で裏口が閉まるのを確認して、ブレイカーの力を解き放つ。
CBフォアにまたがり、七里は夜に飛び込んだ。
■━━━■
南口の人波のざわつきで、ブラックサイクロンが近いことがわかる。
Flags前のエスカレーター上から、下の広場を見つめた瞬間、黒いレスラー集団の数に目を見張った。
いつもの倍、いや、もっといる!?
エスカレーターを駆け上がってくる黒レスラーに、観客の輪が切れた。逃げようとする人々があわや将棋倒しになりかける。
七里は、跳んだ。
エスカレータ―を上る黒レスラーに蹴りを入れて、そのまま雪崩落ちる。
「ブレイカー現着! しかし、まだ女王様は不在!」
(珍しい)(無双できるぞブレイカー)(今日は何壊す?)
軽いテンションの声が、緊張と混ざって不気味に響く。
わずかな風の乱れで、七里は群れの“総重量”を感じ取った。
――来る。
黒レスラーたちが、同時に前傾姿勢になった。
溜めもなく、集団のまま襲い掛かる。
反射的に踏み込み、拳を入れる。
空気が爆ぜ、レスラーたちが弧を描いて吹っ飛ぶ。
――が、すぐに別の影が覆いかぶさった。
十、二十……数えきれない。
叩きつけられたレスラーの身体で、角のビル全体が震え、大型ビジョンがバチバチとノイズを走らせる。
「ビル破壊レベルの拳ィィ!! 食堂を営業不可ァーッ!」
(壊れたのば黒レスラーの方)(またか!)(一般市民ぶん投げ感ある)
ニュースマン|大豆戸(まめど)が、興奮のあまり声を裏返らせているが、七里は聞いていない。
七里が右へ動くと、同時に黒レスラーの群れも右へ動く。突進し、群れを割いても、それを上回る量の黒レスラーが七里に向かう。
キリねぇな。ならっ!
着地した足を軸に、膝をひねる。
次の踏み込みで、七里の身体が前に溶けるように消える。
黒レスラーたちの視界に映るのは、一瞬の白い残像だけだ。
一撃ごとにレスラーが吹き飛び、鉄柵が曲がり、舗道がえぐれる。
――それでも、倒れた場所に、すぐ新しい影が立つ。
……こんな数いたか?
数が減らない。
本当に無限に出てきているようだ。
倒す速度より、増える速度のほうが速い。
黒いレスラーの中を、ブレイカーの白い残像がまるで噴煙のように動く。
群れが割れるが、ブレイカーを黒い渦から逃しはしない。
一撃でも食らえば、肉まで持っていかれそうだ。
「これは……! まるで蟻地獄ッ!」
(ブレイカーの火力は圧倒的なのにな)(弱くても群れならワンチャン!?)(無双されてる黒レスラーが気の毒レベル)
ニュースマン|大豆戸(まめど)の声が震えている。
今日のブラックサイクロンは気味が悪い。
一向に姿を現さない女王様、無限増殖の黒レスラーを応援するかのようなコメントに混じって観客からざわめきが生まれる。
……ちょっとやばいかもな。
脳裏によぎったのは、昼間の由依ちゃんの顔。
「シフト増やしたくて」
照れたように顔を赤らめていた。
「もっと役に立ちたいんです」
真剣で、諦めなくて、なぜか切実だった。
――しまった!
鈍い衝撃が肩をかすめた。
痛みよりも、遅れたことに驚く。
遅れは、黒レスラーたちの攻撃を二乗させた。
一発もくらわなかった攻撃が、七里に当たり始める。
「ちっ!」
「女王様不在で、今回はブレイカーの圧勝かと思われましたが、これは危ない! 女王様が心の支えか!?」
(張り合い必要)(共闘)
「……あんな顔、させるつもりじゃなかったのに」
無我夢中で拳を振るう。
バイトを増やすことを断ったとき、由依ちゃんは傷ついたように口を歪めた。
由依ちゃんは学生で、大事な高校三年の二月だ。
同年代の子たちと過ごす最後の一か月。
今、その一瞬を生きて欲しい。
「……踏み込ませないって決めただろ、俺」
七里は息を吸った。
肺に熱が満ちる。
由依ちゃんは若くて、真っ直ぐで、眩しすぎる。
焦げつきそうな今が、一番いい香りがするのに。
だから、怖い。
――だから、守らなきゃいけない。
次の瞬間、地面を蹴った。
跳躍の軌道で、空気が弾ける。
膝を抱える姿勢で上昇し、群れの真上で身体をひねった。
拳を、地面に向かって――叩きつけた。
新宿南口の広場全体が沈んだ。
小さな地震のような衝撃。
舗道が波打ち、黒レスラーが十人単位で吹き飛んだ。
コンクリート片が雨みたいに落ちてくる。
「っっしゃあああ!!! ブレイカーが、今、広場一帯を凹ませたぁ!!」
(特撮)(日朝)(88888888)
特撮のほうが安全だよ……。
軽口を心で吐きながら、七里は着地の反動を抜く。
だが――
また影が起き上がる。
折れた首を元に戻すように、黒レスラーたちがカクンと立ち直った。
「……マジかよ」
七里は肩で息をした。
息が切れたんじゃない。ただ、呆れた。
……帰る時間、作らないと。
七里はゆっくりと顎を上げた。
土煙の中、右手を突き出し、指先だけで――挑発するように招いた。
「かかって来いよ」
■━━━■
ブラックサイクロンを蹴散らし、黒レスラーの山を背に、七里はビルの間に姿をくらました。
戦闘の余熱が皮膚の奥で脈打っている。
白いマントを外し、気持ちを切り替えると、自然とレーシングスーツを覆うエネルギーのような物が切れる。
これのおかげで、マントを外すだけで、現場から立ち去ることができる。
広場の舗道はぐちゃぐちゃに歪み、荒れている。その横のエスカレーターを上がり、CBフォアを停めた場所に戻る。
甲州街道を流れる車のヘッドライトが、CBフォアを照らした。
鍵を持っていた七里の動きが固まった。
タンクに、黒い稲妻が描かれている。
スプレー塗料独特の匂いに、垂れていく液体。
「……は?」
一拍の空白の後――
「畜生!!」
怒鳴り声が新宿の空気を裂いた。
抑え込みようのない怒りが胸を焼く。
暴力も、挑発も、いつもは他人事だった。
だが、自分の大事なものにまで触れてきた時――痛みは一気に質を変える。
腹立たしさ。
怖さ。
虚しさ。
そして――こんな下らない嫌がらせに、俺の時間を奪われること自体が許しがたい。
……調子に乗ってんじゃねぇぞ、ブラックサイクロン!
唇が勝手に震えた。
奮え立つような正義感のような気持ちのいいものではなく、漆黒の炎が燃え立つ。
汚れたタンクを撫で、七里はバイクに跨がった。
エンジンの震えが、不思議と心を落ち着ける。
アクセルをひねる前、軽く空を睨み上げた。
いいだろ。相手になってやる。
けど……俺の“日常”は壊させねぇ。
CBフォアが咆哮し、夜に消えていった。