Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
日曜夕方、喫茶まきが一番静かな時間なのに、空気は張り詰めている。
店内にいる客は荏田さんだけで、カウンターでまだ湯気の立つコーヒーで、両手を温めている。
由依ちゃんは、細々とした雑用をせっせとこなしている。はかどり過ぎて、スプーンセットを作るのは三回目なのに、気の利いた言葉一つ言えないでいる。
「……ひどいわね。あの落書き」
荏田さんの声は静かで、ブラックサイクロンへの非難と七里への思いやりがにじんでいる。
だからこそ、余計に胸に刺さる。
誰が見ても、ひどいのだ。
七里は返事ができなかった。
口を開けば怒りしか出てこない。
けれど、客の前で感情を露わにするのはプロのすることではない。
隠すこともできず、かといって気持ちを吐き出すこともできない。
ただの落書きじゃない。
相棒を汚された事実は覆しようがない事実だ。
今までだって、いたずらされる危険性がなかったわけではない。
ただ、レーシングスーツやヘルメットのように、超人パワーを出しているとき、バイクにも独特のカウルが出る。
だから、ブレイカーのだと特定されての落書きではない――はずだ。
「落とせないの? ほら、落書きされた壁とかきれいにする方法があるって――」
七里の動きが止まって、荏田さんが言葉を飲み込んだ。
「そうよね。できることはやってみたわよね」
七里は、夜通しやった試みを思い出した。
まず、コンパウンドを手に取った。
バイクの擦り傷はこれで何度も救われてきた。
でも、タンクの白地に触れた瞬間、七里の手が止まった。
――これ以上やれば、ラインごと削れる。
次にシリコンオフ。
油汚れなら一発だ。
だが、拭いても拭いても、心に刻まれた傷のように、タンクの稲妻は完全には消えない。
「……マジかよ」
ついに、ラッカー薄め液に手が伸びた。
これさえ使えば落ちる。
だが、同時に純正塗装も全部溶ける。
黒のラインがゆがむ未来が、一瞬で頭に浮かんだ。
七里は、拳を握ったまま腕を下ろした。
いくつ方法を試しても、落書きは微動だにしないのに、魂の方だけが削れていくような気がする。
道具を地面に置いて、目を閉じる。
白い息が人気のない駐輪場で夜空に消えていく。
……何もできねぇじゃん。
黒い稲妻は、タンクの真ん中でこちらを嘲笑っていた。
CBフォアに出会ったときのことをよく覚えている。
無駄のない直線のフォルムと色にガツンとやられた。
これだ――と思った。
太くて落ち着いた咆哮を聞けば、心が躍る。
だから、相棒と一緒にブレイカーで出たかった。
ヴィラン警報が鳴れば暖機運転なしにかっとばしたし、乗り捨てなければならないときもあった。
オイル類はこまめに変え、洗車もサビ取りもかかさなかった。
「|店長(マスター)」
――女王様に呼ばれたような冷たさを感じて、震えた。
顔を上げたら、由依ちゃんが目の前に立っていた。
「私、やっぱりシフト増やして欲しいです」
七里は心の中でCBフォアのタンクに触れた。
二度言われるのは予想外で、しかもお客さんの前だ。
「その話は後――」
「どうしてだめなんですか? 私、好きなんです。ここが!」
胸の奥が一瞬ざわついた。
駄々をこねられたことがなく、どうしたらいいのか――。
断っても二度目を言える強さに、直面したことがない。
「バイト、増やしてあげたら? まだ募集かけてるんでしょう?」
アルバイト募集の張り紙は、確かにそのままだ。今までバイトが定着しなかったから、貼りっぱなしがデフォルトになってしまっていた。
七里が由と言わないのを、荏田さんまで首を傾げる。
七里は、心の中で溜息をついた。
間接的に伝えることで、由依ちゃんが納得してくれるのなら、荏田さんに間に入ってもらうのも仕方ない。
「由依ちゃんに、ちゃんと社会で働くってことを経験して欲しいんだ。バイトばっかじゃなくて……さ」
「あら、思ってたより由依ちゃんを大人だと思ってるんですね」
意外な言葉に今度は七里が首をひねった。
むしろ子供扱いしてるんだけど――。
「バイトばっかりの人だっています。私だから、ダメなんですか?」
「いや! それは違う!」
衝撃に、思わず声を大きくしてしまった七里を、二人が見つめる。
「だからさ……。その――、俺にとって初めてうまくいった相棒だから……」
人を相棒にできた喜びが、関係のグレードアップを怖気させる。
由依ちゃんは、銀色のトレイを抱きしめた。顔がみるみる赤くなるのを見たら、こっちまで熱くなってくる。
「わぁ……。傷つくな」
荏田さんがカップをソーサーに置いた。七里は目をまたたかせ、それでもどうにか言葉をひねり出す。
「……。理由を教えて欲しい――」
「じゃあ私は? ――、それに、パン屋さんたちは? ずっと一緒にやってきたでしょ?」
何を言われているのか理解できずに、また思考が固まる。
「違う会社だから……」
「そう?」
確か荏田さんの方が三つくらい年下のはずなのに、自分が子供になったように感じるほど、見えているものが違う。
「私はね。取引先はより良いものを作りだす仲間だと思ってる」
仲間――。
たぶん俺は間抜けな顔をしているだろう。
そんな捉え方をしたことはなかった。
喫茶まきのような小さな店でも、出入りの業者はいくつかある。どれが欠けても、困る。
三人の間に、しばしの沈黙が流れた。荏田さんが、七里から視線を外して、小さく笑う。
――、ここで誤魔化したら、だめだ。
「俺、ずっと一人でやってるって感じちゃってたな――。新しい視点、世界が広がった、マジで――。ありがとう」
言葉にすると、いつもの店内のはずなのに、春がきたみたいに明るく見える。
荏田さんは今度は本当に笑顔になったように見えた。
「……、仕事終わったら、ご飯でも行く?」
軽い誘い方が、かつての同僚たちを思い出させた。もう失ったもの。けれど、近くにあった。
「行く」
由依ちゃんのコーヒーより熱い視線を感じながら、黒い稲妻の落書きの痛みが軽くなってることに気が付いた。
――、この軽さが、後で俺を迷わせることになることには気づかなかった。