Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
■ 第23話 喫茶まきに残った、ふたり
渋谷へ応援に向かうサイレンが、遠くで響き続いている。
災害と警報の通知がせわしなく、スマホを振動させる中、七里はバイクから降りた。
ヴィラまきの住人に配慮して、エンジンを切り、バイクを押す。
ピンヒールが貫通した右足が、まだじくじくと熱を孕んで痛む。
喫茶まきのウィンドウチャイムを鳴らして中に入ると、オレンジ色の間接照明だけが灯っていた。
電飾ボックス看板を店内に引き入れ、鍵をかける。
足が思うように動かず、ふらついた。机の角にぶつかると、音を立ててメニュー表が落下した。
溜息をつくことすらいとわしい。
メニュー表を拾いあげた、そのとき──。
床に、真っ白なフリルが見えた。
なんで。
視線を固定したまま、身体を上げると、ロッカーのドアにもたれかかった由依ちゃんがいた。
メイド服のままで、床に座り込んでいる。俺を見上げて、力なく笑った。
「由依ちゃん!?」
思わず駆け寄った。床に広がる黒いスカートと白いエプロンを踏まないように跪く。
由依ちゃんは、無数の切り傷だらけだった。
「ちょっと待ってて!」
急いで、管理人室から救急セットを持ってくる。自分のときみたいに、消毒液を直接吹きかけようとして、止まる。脱脂綿を小さく丸め、消毒液を浸した。
「染みるかもな」
由依ちゃんは、何も言わず、なすがままに治療を受けている。
「こんな怪我……して欲しくないよ」
包帯を巻こうとして、眉がかすかに寄ったのを見て、手の動きを緩める。
どうしてとか、どこでとは聞けない。
何をしたのか理解できない子ではない。
ただ、今は俺に助けを求めてくれる由依ちゃんを助けたい。
あのときは、縫い留めてでも逃げられた。
あの強い意思を映していた瞳が、今は半分しか開いていない。
殺処分が決まっている捨て犬のように、ただ力なく俺の動きを目で追っている。
それだけで、息が止まっだ。
「寒いな――。待ってな」
ストーブに火をつけようとして、立ち上がり、右足の痛みに思わず息が漏れた。
由依ちゃんが俺を見上げたが、何も言わなかった。
右足をかばいながら、灯油を入れて火をつける。
部屋から毛布を持ってきて、由依ちゃんにかけ、ミルクを温める。
由依ちゃんが、こんなにも傷ついていることが苦しい。
ミルクが温まるのを待つ間、どうやったら、普通に戻してあげられるのだろうと考えてしまう。
そして、思い出してしまう。
何度だって後悔した、あの日のことを。
被験アルバイトの薬を飲んだ日のことだ。
ツレの代役で、名前も偽った。高額な報酬の割のいいバイト。それだけのはずだった。
体調を崩すようになって、普通の生活ができなくなった。
訴えようにも、製薬会社は潰れていたし、代役がバレるのも面倒だった。
四年後、超人パワーに目覚めた。
俺が薬を飲んだのは、俺が二十一、大学生のころだ。
由依ちゃんなら、九歳。
九歳……。
あまりにも幼くて、思わず手元がズレた。
ホットミルクがこぼれる。
俺は、もう大人に近かったから、マシだった。ふざけあうツレも、頼る大人もいた。
でも、由依ちゃんは――。
もし由依ちゃんが薬を同時期に飲んだとしたら、由依ちゃんは誰とも関われないまま十八歳になったってことだ。
女王様の駄々っこのような怒り――。
あぁ、くそ!
ホットミルクを注いだマグカップを、由依ちゃんへと渡す。
由依ちゃんは、マグカップごと俺の手を包み込んだ。
氷みたいに冷たい。
こんな手で、殴り合っていたのかと思うと胸が痛み、思わず隣に座り込む。
同じ毛布に包まって、肩を抱き寄せた。
何があっても、今ここだけは守りたい。
何も聞かず、何も言わず、ただ無言で身を寄せ合う。
ストーブにかけたままのやかんが、コトコトと湯を沸かす音が聞こえる。
俺の肩に、由依ちゃんの頭が寄せられた。
「うん?」
囁き声が聞きとれなくて、身体を屈め、耳を近づける。
「お願いがあるの」
かすれた声で耳がこそばゆくも嬉しい。
由依ちゃんは、マグカップを俺に握らせながら、身を翻した。
耳を近づけたままの体勢で、首に腕を回される。
「傷つけて欲しい――」
それがどんな意味なのか、問わずともわかる。
女王様として、己の魅力を引き出すのに長けている。
胸に押し付けられた柔らかな感触、太ももを割って入る脚の肉感、見上げる瞳は潤んでいる。
思わず視線を逸らした。
自分の呼吸が乱れたのがわかって、慌ててカウンターの上で灯りに照らされるケーキスタンドの方へ意識を向ける。
あんな子供なのにな――。
胸の痛みに、熱がこみ上げる。
救いたい――。
「しないよ」
由依ちゃんは、いじけたように唇を尖らせた。小さく開き、また閉じる。
もう、これ以上、先を言わせたくはない。
「愛を消費するのは、もったいない。もっと特別なときにとっておきたい」
「愛なんて……知らないもん」
「知らないなら、これから知ればいい」
由依ちゃんの目が、暗がりで灯りを反射する。
俺の言葉が、本意かどうか見極めている。
「俺は由依ちゃんを相棒として信頼してる。これだって愛だよ」
目を細め、俺を至近距離で観察し、由依ちゃんは小さく「わからない」と呟いた。首を振って揺れた髪が、俺の腹をくすぐる。
「愛しているなら、忘れられないように傷つけて欲しいの――。だって今だけなんでしょ」
見透かされていたことに驚いたことが、伝わっただろう。
毛布の温もりに反して、視線だけが冷たかった。
獲物を狙う豹みたいに、由依ちゃんの口角が上がった。
「知ってる。私は荏田さんみたいにずっとじゃないの」
一層顔が近づいた。
このままなし崩し的に奪えば、面倒くささはない。でも、それじゃ、救えない――。
由依ちゃんの身体に腕を回し、強引に抱き寄せる。頬と頬が擦れる。
「望むなら……いつまでも」
精一杯の言葉だ。
これで由依ちゃんが救えたら、俺はどれだけ救われるだろう――。
しかし、由依ちゃんはしがみついてはこなかった。
身体を硬直させたまま、顔の見えない位置で、くぐもった声が聞こえる。
「望むなら? それって……、長谷さんの気持ちはどこにあるの?」
どうしてそこまで理解るのか――。
刃物で刺し合ったかのように、互いの痛みを共有してしまう。
「ない」
由依ちゃんが、身体を離し、俺の顔を見た。
たぶん、微笑んでいるように見えるはずだ。
「繋ぎ止める熱もないし、奪う欲もない。空っぽでごめんね」
由依ちゃんの目が大きく見開かれた。
次第に潤む瞳が、オレンジ色の間接照明を跳ね返す。
伝った雫に、手が勝手に伸びた。
年の差分だけ、強がれた。
喫茶まきのかおりを胸いっぱいに吸い込んで、由依ちゃんを膝に抱き直す。
二人で毛布に包まった。
もう何もお互いに話さなかった。
毛布に包んだ由依ちゃんからは、血と煙の匂いがする。
それをコーヒーの香りが上書きする。
膝の上が思っていたよりも軽い。
こんな身体で、街を破壊したのかと思うと、胸が痛んだ。
赤子にするように、ぽんぽんと鼓動を叩いてやる。
せめて今だけは、守らせてくれ。
――俺はここにいるよ。
安心して寝な。
由依ちゃんが目を閉じるのを見届け、俺も、壁に寄りかかって目を閉じた。