Have a break? ― ヒーロー店主とヴィランメイド ― 作:藍色 紺
■ 第26話 迷ったら、ラテアート □ 第27話 境界線の向こう側
■ 第26話 迷ったら、ラテアート
昼下がりの喫茶まきは、カップの置かれる音だけが、ぽつんと響いていた。
客はそれぞれの席で、スマホや本に視線を落としたまま動かない。
窓辺の観葉植物の根元に小さな新芽が出ている。
望んでいたはずの静寂と安らぎが、喫茶まきにある。
喉元をかきむしりたい衝動を抑え、七里はストーブを見て、触れずにエプロンを結んだ。
三月の昼なら、湯を沸かすだけで、店の中はぬるく満ちていく。
あの新宿が、ずっと前だったみたいに遠い。
「|店長(マスター)、今日も練習、いいですか?」
「もちろん」
どうして普通でいられる?
メイド服のエプロンを揺らし、由依ちゃんがカウンターの内側に入る。
喫茶まきのいつものまかない。いつものラテアート練習。
由依ちゃんは、あまりにも、いつも通りで、普通を演じているのは、俺だけなのかと疑いたくなる。
「基本はハートでしたっけ……。でも、これが断然よくって」
由依ちゃんが、息をつめ、真剣にミルクを注ぐ。
いびつなクマの輪郭が、コーヒーに滲んで崩れる手前で踏みとどまる。
これを守りたかったのに――。
両立はできなかった。
それでも、もし俺が高校生なら、迷わず一緒にあっちへ行った。
伝えたいことは山ほどあるのに、今日も身動きできない。コーヒーの香りが、衝動を抑える。
「どうでしょう」
カウンターにカフェラテが置かれた。
その湯気の向こうに、白いヘルメットが見える。
口元に、拭き取られないままの痕。
ウソ本当ゲームで。互いのことを手探りで確かめていた頃、由依ちゃんは、女王様の痕を拭ってくれた。
今度は拭わせない。
顔を上げる。由依ちゃんと視線が合った。
「ねぇ、これ俺が飲んでもいい?」
由依ちゃんが、目の端を赤くした。
この顔を見たら、胸の奥がこそばゆくゆるむ。
照れたり、驚いたり、喜んだり、そのままの感情をぶつけてくれる。
「どうぞ」
ラテアートを揺らさないように、両手でゆっくりカップを持ち上げた。
指先に、あたたかさが染み込んでいく。
由依ちゃんと視線が合った。
張り詰めた表情に同じ痛みを見た。
この先を予感する冷たさに、飲み下せない熱情が喉元までせり上がる。
だが、そのままコーヒーカップに口をつけた。
柔らかなミルクの泡に、コーヒーの苦みと芳醇な香りが混ざる。
「……いいね」
できるだけ心を籠めたかったのに、言えたのはそれだけだ。
飲んだら消えちまう。
ほんのひとときを楽しむためのラテアートだと分かっているのに、今日はそれが惜しい。
言葉が出ずに、また一口カフェラテに口をつける。
ふがいない俺を見て、由依ちゃんははにかむように笑った。
そして、ロッカーへ着替えに行った。
時計が三時を指すと同時に、由依ちゃんがロッカーから姿を現す。
カウンターの上に乗った空のコーヒーカップを見て、俺に向き合う。
長い髪が、制服のコサージュの上で揺れる。
「私、迷ったらラテアートを作ります」
由依ちゃんの言葉に、虚を突かれた。
喉の奥まで、|子供(ガキ)な欲望がせり上がる。
ぶつけてしまえば、守ってきたものごと、崩れてしまうと、わかっている。
揺るがない瞳を見つめ返すうち、大人になってしまった俺の胸の中で、なにかが静かに落ち着いていく。
彼女に、ラテアートを伝えることくらいは、できた――。
「いいじゃないか」
またおいでとは言えなかった。もう並んでコーヒーを飲むことはないのかもしれない。
俺は、喫茶まきを守っていくし、由依ちゃんは卒業する。
その先に、ラテアートを淹れるような時間があって欲しい。
由依ちゃんが、メイド服を入れた袋を胸に抱えて、ドアで一礼した。
真っ直ぐに上げた顔に、食いしばった口元。
そんな顔させてごめん。
謝ることすらできない。
ウィンドウチャイムがかすかに鳴る。
応えるために上げた手が、やけに重たい。
重力の圧はかかっていないはずだ。
喫茶まきの扉が閉まる。
いつもなら、長いスカートがたゆたい、俺は挟まないか心配する。
けれど、制服のスカートは、あっさり消えた。
窓の外から、春の光が差し込んでいる。
眩しさに、目が細まった。
□ 第27話 境界線の向こう側
港の見える丘公園で、階段を上る。
歩いてくるとなかなかの距離があった。潮風にスカートがはためくのを、そのままにして、胸の疼きを息で逃す。
丘の上から、海の向こう――東京方面を眺める。
——由依スペシャルは、もうどこにもない。
あのときだって、唯一無二だった。独り占めしたかった。
与えられるものがなくても、隣にはいられた。
でも、もう無くしてしまった。
やっぱりズルいよ――。
長谷さんは、きっとこの先、荏田さんみたいに穏やかで優しい人と幸せになる。
痛みを知った大人同士、喜びも怒りも、両方を抱きしめあいながら、家庭を包み込める人になる。
静かな喫茶まきで、豆を一粒ずつ選り分けながら、誰かの“ほっとした時間”を守っていく。
欲しかったのに、手に入らなかった。
なのに、長谷さんは、誰かを愛して、欲して、身体も心も焦がれ合う相手を見つける。
その相手は……私じゃない。
あんな優しさってない。
あんなに抱きしめられることも。
あんな声色で呼ばれることも。
否定されずに、受け止めてもらえることも。
たった一度味わってしまったせいで、もう、それ以外を受け取れない。
なくしちゃったと、思いながら、生きていくしかない。
長谷さんが憎い。
幸せになってほしいと願うくせに、どうして私じゃなかったのかと、あの日の長谷さんに噛みついてやりたくなる。
私を傷つけ、長谷さんの傷になりたかった。
それでも、
それでも――。
由依は、海と空の境目を探し、照り返された春の光に目を細めた。
遠くを、見つめていた。