豊川稲荷を出た源一郎は、赤坂から虎ノ門を抜け、麻布の火盗改役宅へと向かった。
秋の昼下がり。溜池沿いの柳が風に揺れ、水面に映る雲が流れていく。かつて山王祭の折に張り込んだ萬屋の前を通り過ぎる時、ちらりと店先に目を向けた。──あの頃はまだ夏だった。季節は巡り、今は秋。店は繁盛しているようだった。
役宅に着いたのは、午の刻を少し回った頃。
詰所に顔を出す。同心たちが何人か詰めていた。書類を広げている者、刀の手入れをしている者。源一郎は与力部屋に入ると、同僚の佐久間が書類を整理していた。
「おう、渡辺。外回りか」
「はい。──佐久間さん、少し聞きたいことがあるのですが」
「何だ」
「最近の事案で、祈祷詐欺に関わるものはありませんでしたか。商家に祈祷師が出入りして、法外な金を取っていくという類の話なんですが」
佐久間は少し首を傾げた。
「祈祷詐欺?……何やら、そんなのを見た覚えがあるな。町方から書状が来ていた筈だが──」
佐久間は棚の奥を漁り始めた。束ねられた書付の山を一つ一つ確かめ、やがて一つの帳面を引き出した。
「あぁ──これだ。半月ほど前に北町奉行所から来ていた、吟味詮索を移管したいという打診だ。既に御頭にも申し上げたが、どうにも火盗改の管轄とは言い難いということで留め置いていた」
源一郎は受け取り、目を通した。
町奉行所の役人が作成した文書だった。──『近頃、江戸市中の商家において、多額の借金、店の売却、夜逃げが目立って増えている。下検分したところ、これらの商家に共通して祈祷師や拝み屋が出入りしていた形跡がある。また、祈祷料の名目で高額の金を巻き上げられ、商いが立ち行かなくなった、騙されたとの訴え有り。しかし、祈祷師の素性も、寺社に属しているかも不明のため訴訟は取り上げず。詐欺被害が広域に及び、徒党を組んでいる恐れもあるため火盗改に移管を申し出る』──という内容。
言ってしまえば、これは面倒臭そうな事件の押し付けだ。
「奴らめ……訴訟が立て込んでいると言い訳ばかり。面倒な事件はすぐに此方に回してくる。そもそも、詐欺は町方の領分であるし、火盗改が出る幕ではないというのに」
「佐久間さん。この事件、被害は金を巻き上げられただけですか?」
佐久間の顔が僅かに怪訝そうなものに変わった。
「……いや、そうでもない。帳面の五枚目を見ろ。芝田町の小間物問屋──加賀屋の被害がある。主人が妻子を殺めた後に自死。一家全員が死亡した心中が起きている」
「それは……惨いものです。借金苦によるものでしょうか」
「そのように見られているな。町方の調べでは店の蓄えは底をつき、複数の両替商から金を借りていた。返しきれぬほどの借財を抱え、店も人手に渡ることになっていたらしい」
「……どうして、この一家心中が祈祷詐欺に関係すると判明したので?」
「遺書が残されていたようだぞ。娘の病を治すために祈祷師に金を渡し続け、しかし、店の蓄えを使い果たし、借金を重ねた末、信用していた祈祷師にも見捨てられた。それで騙されていたことを悟り、一家心中を図った、と」
「……それほどまでに祈祷師を信用していたと。理解できません」
「理解など出来るものかよ……町方が両替商から聞き取ったところでは、加賀屋の借金は二百両を超えていたらしい。小間物問屋の稼ぎでは到底返せる額ではない」
二百両──源一郎は息を吐き、暫し黙った。
小間物問屋が、なぜそれほどの借金を負うことになったのか。祈祷料の名目で金を搾り取られ続けた結果だとすれば……これはもはやただの詐欺ではない。寺社の信用を落とし、社会不安を煽りかねない罪だ。
「佐久間さん。加賀屋の主人の遺書には、祈祷師らの素性について何か書かれていましたか」
「いや、書かれてはおらんようだ。気になるとはいえ、死人に事情を聞く訳にもゆくまいしな。しかし……お前が祈祷詐欺の話に目を付けたということは──」
佐久間の目が鋭くなった。この男は鈍い人間ではない。
「……何か糸口が見えているのか?」
「確証はまだありません。ですが、知り合いから相談を受けています。不審な修験者風の男と拝み屋の女が頻繁に出入りするようになった店があり、心配していると」
「なるほどな」
佐久間は腕を組んだ。
「だが──仮に話が繋がっていたとしても、この移管を受けるのか。町方が持て余し、押し付けようとしている厄介事だぞ。寺社が絡むともなれば、寺社奉行にも話を通さねばならん面倒事だ」
「幸い、寺社方には知り合いがおります。必要になるならば、そこに声を掛けてみようかと。同じ手口が複数の町で起きているとすれば、寺社方も相当に焦れている頃合いでしょう。向こうとしても祈祷詐欺の首謀者は何としても捕まえたい筈」
「それはそうかもしれんが……」
「むしろ、寺社方が町方をあれこれと、せっついているせいで火盗改に移管の話が回ってきたのやもしれません。ならば──南町に続き、北町にも恩を売れる良い機会ではありませんか」
佐久間は暫く源一郎を見つめ──それから、呆れたように小さく息を吐いた。
「……よくやるものだ。寺社方の頭でっかちなどと、私は話したくもないのだがな……移管の可否については直接、御頭に話を持っていけよ。──しかし渡辺、お前はやけに嗅覚が鋭い。いったいどこで鼻を利かせているのやら」
「はは、ご冗談を。私は犬ではありませんよ」
「何だ、教えてはくれぬのか」
「先方の事情もありますので……情報源については、ご勘弁を」
佐久間はそれ以上追及しなかった。ただ、意味ありげに鼻を鳴らした。
「お前の『秘密の情報源』とやらは、いつも妙に正確だからな。──まったく、どんな密偵を使っているのやら……」
ぼやきながら席へと戻る佐久間を尻目に、源一郎は苦笑しつつ、帳面を手に書院へと向かったのだった。