鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百一話

 

 翌朝──源一郎は役宅に寄らず、直接北町奉行所へと足を向けた。

 

 呉服橋御門の内、北町奉行所──。南町と月番で交互に訴訟を受け持つ奉行所の片割れだ。火付盗賊改方頭取である平蔵から移管の連絡は既に済んでおり、源一郎は実務の引き継ぎとして担当与力に会う手筈になっていた。

 

 奉行所の詰所で待っていたのは、吟味方の与力、田代勘兵衛という男だった。五十手前ほどの痩せぎすの男で、源一郎を見るなり立ち上がった。その顔は、厄介事が手元から離れた安堵を隠しきれぬ、晴れやかさに満ちている。

 

「おお、火盗改の渡辺殿ですな。長谷川殿より話は伺っておりますぞ。──どうぞどうぞ、こちらへ」

 

 田代は愛想よく源一郎を奥の小部屋に通し、帳面の写しと訴えの控えをまとめた束を差し出した。

 

「被害の訴えがあった商家の一覧、訴訟の内容、加賀屋の件の調書の写し──こちらにございます。不足があれば何なりと」

「確かに受け取りました」

「しかし……いやはや、まさか受けていただけるとは思いませなんだ。正直に申し上げれば、此方としても持て余しておりましてな。祈祷師の正体が掴めぬまま訴えだけが増え、寺社方からは催促が来る。──火盗改にお引き受けいただけると聞いた時には、奉行共々、胸を撫で下ろしておりました」

 

 田代は声まで弾んでいる。──厄介な荷物を下ろせた喜びが全身から滲み出ていた。それは口が軽くなるほどには。

 

「まあ、何と申しますか、祈祷の類いは吟味詮索が厄介でしてな。効いたの効かぬのと証の立てようもない。被害を受けた商家の者が自ら訴えを出すならまだしも──困ったことに、当の商家は祈祷師に感謝すらしている。娘の障りが治まったと、有り難がって」

「感謝している……?」

「左様。祈祷料が嵩んで家計が傾いても、あの先生のおかげだと言って疑おうとしない。訴えはいずれも親類縁者から出されたものでしてな。見かねた親戚の者が、明らかにおかしいと奉行所に駆け込んでくる。ところが肝心の被害者本人が祈祷師を庇う。──これでは詮議のしようがございませんでしょう」

 

 田代は嘆息混じりに続けた。

 

「件の祈祷師は逃げて行方不明。寺社方は寺社方で早く捕まえろと騒ぐ。──まったく、此方の身にもなってほしいものですよ」

 

 悪気はないのだろうが、一言も二言も多い男だった。源一郎は表情を変えずに聞いていたが、帳面を受け取ると静かに口を開いた。

 

「田代殿。一つ確認しておきたいことがあるのですが」

「何でございましょう」

「被害商家の奉公人について、町方で調べたことはありますか。出入りの記録、あるいは口入屋からの紹介状の類は」

「奉公人?──いえ、訴訟の内容は祈祷料を取り戻したいというものですので、奉公人までは……」

 

 田代は訝しげに首を傾げた。源一郎は頷き、それ以上は追及しなかった。

 

「つかぬ事をお伺いしました。では、この帳面をお借りいたします」

「え、えぇ。どうぞどうぞ。何かあれば、いつでも。──いやしかし、渡辺殿。火盗改がお引き受けくださると聞いて、本当に助かりましたぞ。返す返すも有り難い」

 

 源一郎は帳面を懐に収め、立ち上がりながら振り返った。

 

「田代殿。此度の移管、火盗改として正式にお引き受けいたします。──ただ、一つだけ申し上げておきたい」

 

 田代の笑顔が僅かに固まった。

 

「今後、此方から町方にお願いをすることがあるやもしれません。その折には、ご協力を仰ぎたい。──移管をお受けしたのですから、北町には相応の便宜を図っていただけるものと思っておりますが」

 

 田代の顔から晴れやかさが消えた。厄介事を押し付けた代わりに貸しを作った──その意味を、田代は正確に理解したようだった。

 

「……む。それは、まあ……こちらとしても、できる限りのことはいたしますが……」

「ありがとうございます。我らが頭領もそのように申しておりました故、よしなに」

 

 平蔵の名を出した途端、田代の表情がさらに苦くなった。火盗改の長谷川平蔵から恩を売られるということの重みを、奉行所の与力が知らぬ筈はない。

 

「……承知いたしました。何かございましたら、申しつけくだされ」

「助かります」

 

 源一郎は一礼して北町奉行所を後にした。

 

 §

 

 北町奉行所から、源一郎はそのまま京橋へ向かった。

 

 近江屋は京橋の南詰、中橋広小路に面した紙問屋だ。間口は五間ほどの二階建て。表通りに面しているだけあって人の往来は多い。

 

 通りを挟んだ向かいの蕎麦屋に、見張りの同心を一人置いてある。鳥居本太郎──通称ポンタ。丸い顔に垂れた目、人懐っこい笑みが特徴の二十代半ばの同心だ。背は低く体つきもずんぐりとしており、見るからに狸を思わせる風貌をしている。権助や新吾からは「ポンタ」とからかわれているが、本人は「本太郎です」と律儀に返すばかりだった。

 

 源一郎が蕎麦屋に着いた時には、同心の真島権助と田沼新吾、岡っ引きである熊造もちょうど集まった頃だった。権助は移管の打診があった時点で源一郎から被害商家の概要を伝えられ、先んじて奉公人の洗い出しに動き、新吾も町人に変装して聞き込みに回っていた。

 

 そして本太郎は──奥の席で蕎麦をすすっていた。しかも大盛りである。

 

「本太郎」

 

 源一郎が声を掛けると、本太郎は蕎麦を喉に詰まらせ、盛大に咳き込んだ。

 

「ごふっ──わ、渡辺様! お疲れ様でございます!」

 

 慌てて立ち上がり、丼を隠すように体で遮った。

 

「大盛りだな」

「い、いえ、これは……その、見張りには体力が要りますので……折角の蕎麦屋ですし……」

「おうポンタ、蕎麦食ってる暇があったら仕事しろよ」

 

 新吾が笑い、権助も呆れた顔で首を振った。

 

「鳥居の旦那ァ。見張りってのは目を使うもんで、口を使うもんじゃありやせんぜ」

 

 熊造がにやにやしながら言う。

 

「く、熊造さんまで……!それにポンタじゃなくて本太郎です!腹が減っては戦は出来ぬと言うでしょうっ」

 

 新吾が呆れたように言った。

 

「討ち入りでもする気か、お前……」

「まあまあ、鳥居の旦那。あっしらは別に責めてるわけじゃありやせんよ。ただ、狸ってのは満腹になると寝ちまう生き物だって聞いたもんでねぇ。本当なのか知りたいだけでさぁ」

 

 その揶揄いに新吾が吹き出し、権助も肩を震わせた。本太郎はムッと唇を尖らせたが、やがて開き直ったように胸を張った。

 

「狸で結構。狸は化けるのが得意なんです。こうして蕎麦屋の客に化けているのも、立派な仕事のうちですよ」

 

 予想外の切り返しに、新吾が目を丸くした。権助も口元を緩め、熊造が「こりゃ一本取られやしたな」と笑った。

 

 

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