数日後──神谷伝兵衛は約束通り、お絹を伴って渡辺の屋敷を訪れた。
源一郎は座敷に二人を通した。神谷はいつもの飄々とした態度だが、目の奥には真剣な光が宿っている。お絹は今日も男装のまま、神谷の隣に座した。長身の体を猫背に、視線を伏せている。前回訪れた時よりも幾分か顔色がいい。頭痛の気配もないようだった。
源一郎は襖越しにお鈴を呼んだ。
「お鈴。こちらに──」
お鈴が茶を運んで入ってきた。神谷とお絹の前に茶を置き、源一郎の斜め後ろに控える。その所作はいつも通り、淀みない。
──源一郎がお鈴を同席させたのには理由があった。近江屋での被害実態を掴むため、潜入を正式に頼むつもりだった。お鈴もそれを察しているのだろう。背筋を伸ばし、静かな覚悟を湛えた目をしている。
「神谷殿。先日の文にあった通り、祈祷詐欺の件は火盗改として正式に引き受けた。北町奉行所と情報を共有し、今は被害商家の洗い出しに着手している」
源一郎は手短に現状を語った。北町からの移管。被害商家の一覧。引き込み役と思しき下女たちの存在。口入屋を通しながら偽の身元で入り込む手口。加賀屋の一家心中。そして──現在進行形で祈祷師が出入りしている京橋の近江屋。
神谷は黙って聞いていた。時折、小さく頷く。お絹は視線を伏せたまま微動だにしない。
「引き込み役の女たちは名を変え、店を渡り歩いている疑いがある。今、近江屋に入っている『お富』という下女が、以前別の被害商家にいた『おたね』であるかもしれない。外からの張り込みと尾行は既に手配してあるが──」
源一郎は一拍置いた。
「店の内側に人を入れなければ、薬の仕込み方も引き込み役の正体も確かめようがない」
お鈴の指が膝の上で僅かに動いた。ここだ、と身構えたように。だが──源一郎が次の言葉を継ぐ前に、予想外の人物から声が上がった。
「──私が行く」
お絹だった。
その一声に座敷が静まる。
お絹は視線を上げていた。伏し目がちだった目が、まっすぐに源一郎を見ている。声は低く、抑揚に乏しい。いつものお絹の声だ。だが、その短い一言に込められた力は、これまで源一郎が聞いたどの言葉とも違っていた。
「お絹殿?それはどういう……」
源一郎は驚きを隠さなかった。また、お鈴も一瞬、息を呑んだ。視線がお絹に向き、それからすぐに視線を逸らす。
「あなたが近江屋に下女として入り込むということか」
「……私は潜入のやり方を知っている。商家に入り込み、内側から情報を抜くことも出来る」
源一郎の問いに、お絹は短く頷いた。
「それに──助けを願っている身。願うだけで私だけ何もしないのは筋が通らない」
源一郎は黙って聞いていた。
白狐との約束。お絹の猫の件を前向きに考える代わりに、怪しげな祈祷師連中を排除してほしいと頼まれた。その経緯を、お絹は知っている。
自分の障りを救ってもらうために、源一郎も動いている。その義理に対して、ただ待っているだけではいられない──お絹の言葉の裏には、そういう思いがあるのだと源一郎は感じた。
神谷を見た。
神谷は妹の横顔を見つめていた。そこには驚きがある。お絹にとって、自分から何かを申し出ること自体が稀なのだ。普段は兄や上役の指示に従い、黙って任務をこなす。それがお絹のあり方だったから。
「神谷殿はどのようにお考えか」
源一郎が問うと、神谷は静かに答えた。
「……元より、何かしらの形で力を貸すつもりでおりました。お絹がこうして自ら申し出るのは──正直に申せば、珍しいことです」
神谷の声はやはり驚きで満ちている。しかし、どうにも反対の色はないように見受けられる。お絹が言わなくとも、神谷が提案するつもりだったのかもしれなかった。
「お絹は御庭番としての任務で、商家への潜入も経験済み。身元を偽り、奉公人として入り込む手筈は心得ている。覚悟があるのならば──兄として、止める道理はありません」
お絹はちらりと兄を見た。神谷は小さく頷いた。それだけで十分だった。
源一郎は暫く考えた。
お絹が適任であることは認めざるを得ない。御庭番の訓練を受けた本職の密偵。潜入任務の経験がある。身元を偽る技術も、人目を欺く術も持っている。そして──白狐との約束の経緯を考えれば、お絹自身が関わることには道理が立つ。
だが、懸念もある。
「お絹殿。一つ確認したい」
源一郎は慎重に言葉を選んだ。
「近江屋には、薬を使って憑き物の症状を作り出している者がいる。娘のお美乃が暴れ、様子がおかしくなっているのは薬のせいだと我々は踏んでいるが──店の中にいれば、その場面に立ち会うこともあるだろう。お絹殿の障りを考えれば──他人の、憑き物に似た症状を間近で見ることが、お絹殿自身に影響を与えはしないか」
お絹の目が源一郎を捉える。その懸念が的を射ていることは、お絹自身が一番よく分かっているのだろう。
だが──お絹は目を逸らさなかった。
「……分からない。でも──私は、偽物と本物の区別がつく。薬で作られた症状と、本当の障りの違いくらいは──私にも分かる」
本物の憑き物を抱えている者だからこそ、偽物を見抜ける。源一郎はその言葉の重さを噛み締めた。
「……よく分かった。では、お絹殿に近江屋への潜入をお願いしたい」
源一郎が頭を下げた。
「ただし、障りの兆しが出たら迷わず引いて欲しい。深入りして体を壊せば元も子もない。お絹殿の身の安全が最も大事だ」
「……承知しました」
短い返答。だが、その声には──これまでのお絹にはなかった、静かな意志の力があった。
──その後は潜入の段取りについて話が進んだ。
神谷が口を開く。
「身元の保証が必要ならば此方で用意いたそう。口入屋を通すと足がつく恐れがあるが──御庭番の伝手で、信頼の置ける口入屋に偽の紹介状を用意させることはできる。近江屋が新しい下女を求めているかどうかが鍵ですが」
「なに。いざとなれば番頭を抱き込んでしまえばよいだけだ」
源一郎が答え、神谷は頷いた。
「もう一つ。お絹が潜入している間の連絡方法ですが──誰かが外で待機し、定期的に接触する形を取りたい。店の近くに拠点を置き、お絹が買い出しに出る折に情報を受け渡す。簡単な手法だが、この種の潜入では最も確実です」
「助かる。此方の同心が張っている蕎麦屋がある。そこを共有の拠点にしよう。話は通しておく」
実務の話が次々と決まっていく。源一郎と神谷の間で、段取りが手際よく組み上げられていった。