その間──お鈴は一言も発さなかった。
茶を注ぎ足し、話に耳を傾け、時折頷く。場を乱さぬように控えめに。いつものお鈴の姿。
しかし、膝の上に置いた手に、力が籠もっていることには誰も気づかなかった。
お絹が「私が行く」と言った、その瞬間──お鈴の胸の奥で何かが軋んだ。
──私の役目だったのに。
密偵としての役目。源一郎が「店の内側に人を入れたい」と口にすれば、それを引き受けるのは自分に他ならないと、お鈴はそう思っていた。萬屋の時もそうだったのだ──。茶屋女となり、客の間を回り噂を集めた。源一郎が掛けてくれた「頼りにしている」という一言。あの言葉が、お鈴の中で小さな灯火のように燃え続けている。
今度もまた自分が行くのだと、そう思っていた。源一郎が話を切り出した時、体が自然と構えた。呼吸を整え、覚悟を決めかけた──その瞬間に、お絹の声が割り込んできた。
私が行く──と。短く揺るぎのない、その声が。
白狐との約束の経緯。御庭番としての密偵の経験。確かに道理に適っている。ここでお鈴が「私が行きます」と言えば、それは源一郎を困らせることにしかならない。
──分かっている。
分かっているのだ、理屈では。お絹の方が適任だということも。密偵としての力量も及ばないことも。全部、頭では分かっている。
それでも──感情は理屈ではない。胸の奥底に黒く重い澱みが溜まっていく。
──私の場所を……役目を取らないで
お鈴は微笑の仮面を貼り付けたまま、心の中で悲痛な声をあげた。
私の場所──。渡辺の家におけるお鈴の居場所。それは女中としての立場でも、おたかの養女という意味でもない。源一郎の役に立つ者。源一郎に頼られる者。決して裏切ることのない味方という、ただ一つの──お鈴にしかない役目にある。
それを失えば、自分に何が残るというのか。
幼い頃のことを、お鈴は今でも時々思い出す──。両親を流行り病で相次いで亡くし、身寄りを失った幼いお鈴。そのまま捨て置かれれば、岡場所か吉原にでも売られていたであろう身の上。この渡辺の家に拾われなければ、今ごろお鈴は、どこかの廓でぼろぼろになった心と体を抱えていたに違いない。
それだけで、渡辺の家には恩がある──。だが、源一郎の父である藤治郎は、優しさだけでお鈴を引き取ったのでもなかった。藤治郎には、とある心配事があったのだ。一人息子の源一郎──幼い頃から、どこか浮世離れしたところのある子のこと。
歳に似合わぬ言葉を口にし、誰も知らぬはずの理屈を語り、世の中の在り様を遠くから眺めるような目をする。武家の立派な嫡男として育て上げるには何かが足りぬ、或いは器が異質過ぎるのか──。弟妹がいれば、また違ったのかもしれないが、源一郎は一粒種。そんな源一郎の傍に心を許せる者として寄り添い、時に諌める者が要る──藤治郎はそう考えたのだろう。
だからお鈴は、ただ憐れまれて引き取られたのではない。源一郎を支えるために選ばれ、育てられたのだ。藤治郎はお鈴がある程度ものの分かる年頃になってから、そのことを包み隠さず話してくれた。
──お前は源一郎の傍に立つために、この家に来た娘である。どうか、息子のことを傍で支えて欲しい、と。
憐れみだけで拾われたのではないと知った時、幼いお鈴はむしろ安堵した。役目があるということは、望まれているということ。この家に居場所があるということ。生きていることに意味があるのだ、と──幼いながらに、そう思えたから。
読み書き、算盤、料理に芸事。立ち居振る舞い、人の顔色を読む術、噂を聞き集める話術。必要な教育、その全てを、お鈴はこの家で磨き身につけた。源一郎の傍に立ち、源一郎の目となり耳となるために。
──源一郎の傍に在り、与えられた役目を果たす。それがお鈴の日々を支える誇りだった。
しかし、同時にお鈴の立場は曖昧でもあった。家族としては一歩踏み込めず、奉公人としては距離が近すぎる。中途半端な立場の自分。だからこそ──。
──役に立ち続け、存在意義を示し続けねばならない。
役に立たなければ、ここに居る意味を見いだせない。傍に立つ者として育てられた自分が、密偵の役目も果たせぬとなれば──それは、この家で過ごしてきた年月を否定することになる。
無論のこと……源一郎が家父長の権力を傘に理不尽を要求することなどない。役に立たぬからといって屋敷から追い出すような真似も有り得ない。
しかし。だからこそ、怖くもなるというもの──。
優しさを当然と胡座をかき、何の役にも立たぬ女として傍に置いてもらう──それは、お鈴にとって耐え難いことだったから。存在意義──与えられた役目も果たせぬまま……ただの奉公人として仕えるだけの自分。そんな存在に意味があるのか。その姿を想像するだけで不安になって仕方がなくなる。
──必要とされたい。
──必要とされ続けなければならない。
それは願いというよりも、お鈴という人間そのものを構成する根幹とも言えた。
そして今──その拠り所が、お絹という女によって、静かに揺さぶられている。お鈴はちらりと、座敷の奥に座るお絹の横顔を盗み見た──。
憎らしいほどに美しい人だった。背が高く、スラリと線が細い。それでいて芯の通った佇まい。男装の麗人。御庭番という、お鈴には手の届かぬ世界に生きる人。猫の障りを抱えていてなお、自ら「私が行く」と言い切れる強さを持つ人。源一郎の隣に立てば映えることは間違いない。
──私とは違う。
比べるまでもない。分かっている。それでも、胸の奥で黒いものが疼く。
このお絹という人は、これから源一郎と共に働く。店の内側に入り、危険を共にし、知恵を出し合い──源一郎の隣に立つ。お鈴ではなく、お絹が。
──いやだ。
その三文字が、はっきりと胸の中に浮かんだ。
嫌だ。あの人の隣に、他の女が立つのは嫌だ。他の女が源一郎に頼られているのを見るのも嫌だ。そこは私の居場所なのに──。
それは嫉妬という言葉では足りぬ、もっと粘ついた感情だった。独占欲、と呼んでも足りぬ。自分でも、この感情の正体がよく分からない。ただ、源一郎にとって自分が唯一であってほしい──その願いだけは、はっきりとしていた。唯一、源一郎を陰日向に支えられる女として。
その「唯一」が、崩れる。
崩れてしまえば……お鈴の居場所は、幻のように消えてなくなるかもしれない。信頼が、繋がりが、関心が失われるかもしれない。今までのような関係とは変わってしまうかもしれない──。どろどろとした感情が胸の奥に詰まり、焦燥の火が心を焼く。
ふと──。胸の奥深く──それまで眠っていた『何か』が、ザワリと首をもたげる気配があった。
お鈴の背筋に、冷たいものが走る。
「ぁ、」
声にならぬ声が漏れた。心の臓が早鐘を打つ。体の芯が熱いのか冷たいのか分からない。指先が痺れるように震える。
呑み込まれる──。膝の上で握った手のひらには、汗がにじんでいた。