縁側に座した灰狐が姿勢を正す。金色の瞳が、お鈴の形をしたものを真っ直ぐに見上げた。
「して──小娘。お前様、何故に今、表に出てこられた」
お鈴の形をしたものは、盆の脇に片手を添えたまま灰狐を見下ろしていた。その口元には先ほどと変わらぬ薄い笑みが浮いている。
「──あら。灰狐様は、もうお分かりなのでしょう」
「分かっておっても、口にしていただかねば。その言葉がお前の存在を確かとする。それに、願いを言葉にせぬうちは、鎮める方法も思いつけぬのでね」
灰狐の声は穏やかだが、引かぬ響きを含んでいた。
お鈴の形をしたものは、ふぅっと息を吐いた。その呼吸の仕方も、所作も、普段のお鈴そのままだった。しかし、言葉だけは違う。お鈴であって、お鈴ではない。その違和感に、源一郎は普段見られないほどに狼狽していた。
お鈴が口を開く。
「──役に、立ちとうございます」
静かな声だった。
「この娘はずっと、それだけを望んで参りました。他に何もいりませぬ。ただ、旦那様の傍でお役に立つこと。それだけが、この娘の拠り所にございます」
源一郎の胸の奥で、何かが冷たく締め付けられた。
「それなのに──」
お鈴の形をしたものが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が真っ直ぐに源一郎を捉える。
「此度は口を開く機会すら与えられず、声さえ掛けられませなんだ。お絹様が先に名乗りを上げられ、旦那様はそれで良しと決めてしまわれた。この娘の出る幕は、どこにもございませんでしたね」
声に抑揚は少ない。責めるというより、ただ事実を述べるような響き。だからこそ耳に痛く、心を抉る。
「萬屋の時は、この娘が参りました。此度も──私が参るものと、この娘は信じておりました。お傍で役に立てる。働きを誉めていただける。認めていただける。此度も必ず役目が回ってくると。──ですが、叶いませんでした」
お鈴の形をしたものは、また薄く笑った。今度のそれは、皮肉のためのものではなかった。どこか寂しさを帯びた笑み。
「この娘は何も申しませぬ。不平も、不満も、口にせぬ性分にございます。なれば、代わりに私が申し上げるしかございませぬ。──旦那様。この娘に役目をお与え下され」
座敷に静けさが降りた。
灰狐は口を挟まず、ただ尾をゆるりと揺らして二人を見比べている。源一郎は、お鈴の形をしたものの前に、ゆっくりと膝を折った。
「──すまん」
短く、そう言った。
「お絹殿が先に名乗られた時、俺は段取りを組むことに気を取られて、お鈴に向き直ることを忘れていた。御庭番の密偵に任せてしまえば確実で、お鈴に危険な役目を任せずに済むと……問う機会すら与えなかったのは、俺の不明だ」
お鈴の形をしたものは、黙って聞いていた。
「だが」
源一郎は続けた。
「近江屋に入るのは、お絹殿と決まった。これは覆せん。御庭番の密偵としてのお絹殿の腕を見込んでのことであり、決してお鈴の働きを軽んじた結果ではない。──そこは分かって欲しい」
お鈴のかたちをしたものの瞳が僅かに細まった。微笑みが戻る。しかし、お鈴とは異なる少しだけ鋭い笑み。
「存じておりますとも。お絹様の腕は、この娘とて認めておりまする。それに旦那様は存外に過保護であるとも──。ですから、別の段取りを考えておりました」
その言葉に訝しむように源一郎の眉が上がった。
「別の段取り、だと」
「えぇ。──旦那様。私を口寄せ巫女として件の近江屋にお連れ下さいませ」
座敷の空気が一瞬止まった。
灰狐の耳がぴくりと立つ。源一郎は息を呑んだまま、片膝を付いてお鈴の形をしたものを見上げていた。
「……な、何と申した。俺の聞き間違いか、口寄せ巫女として店に入ると?」
「ちゃんと聞こえているではありませんか。申し上げた通りにございます」
お鈴の形をしたものは盆から手を離し、源一郎の前にゆるりと座り直した。所作は相変わらずお鈴のそれ。だが、その言葉には普段見せぬ自信が漲っている。
「偽祈祷師の手口、聞かせていただきました。薬で幻を見せ、憑き物に見せかけて金を騙し取る──本物の憑き物筋を見たこともない輩が、偉そうに祓いを語っておるのでしょう。──ならば、本物を突きつけて、化けの皮を剥がしてやればよろしゅうございます」
源一郎は、再び言葉を失った。
「旦那様は修験者の装束を身に纏い、私は巫女の拵えで。豊川稲荷の遣いなり、他家からの紹介なり、筋道はいくらでもつきましょう。近江屋の主人の前で、偽祈祷師と口寄せの真似事でも並べてご覧なさいませ。──勝負にもなりますまい」
お鈴の形をしたものは、くすりと笑った。
「偽祈祷師どもにとっては、私はただの人。ただの若い娘が巫女の真似事をしているとしか映らぬでしょう。侮って、仕掛けてくる。そこを──私が本物の口寄せで黙らせて差し上げます」
源一郎はようやく声を絞り出した。
「ま、待て……待て。それは危うい!」
「何が危うくございますか」
「お鈴……いや、お前──巫女として近江屋に入るということは、偽祈祷師の背後にいる者どもとも対することになる。敵方が何処まで繋がっておるか、まだ分からぬのだぞ。お絹殿の潜入の邪魔にもなるっ」
「何を仰るかと思えば。お絹様の潜入が済み、手口が固まってからに決まっておりましょう」
お鈴の形をしたものは、事もなげに言った。
「お絹様が掴んだ手口を基に、私が偽祈祷師に止めを刺しに参ります。役目の順序を乱すつもりは毛頭ございませぬよ、旦那様。──ただ、止めの一手は私にお任せ下さいまし」
源一郎は、眉間に皺を寄せた。
──この『何か』……いや、御先狐は既に段取りまで考えている。
表に出てきたのは、その衝動ゆえ──お絹の役目を奪うことにあると思っていた。しかし、そうではなく……話を聞いている間中、この御先狐はずっと己が為し得る役目を思案し続けていたというのか。感情の昂ぶりに任せているようで、その奥では冷徹に道筋を組み立てている。──それは狐の性分というべきか、お鈴の地頭の賜物というべきか。
「お前……」
「お断りになりますか」
お鈴の形をしたものが、小首を傾げた。
「──なれば致し方ございませぬ。私一人で参ります」
その言葉に源一郎の背筋が、ぴんと張った。
「な、何を馬鹿なことをっ」
「近江屋の門を叩くくらい、女の私一人でもできますよ。巫女らしい装束など損料屋で借りればよろしい。この身体はお鈴のものにございますから、表を歩くにも不自由はございませぬ。──旦那様のお許しが得られぬなら、勝手に参るまでのこと」
お鈴の形をしたものは、しれっと言ってのけた。その口調の軽さと、言っている内容の重さの落差が源一郎の思考を麻痺させた。
「ならん!馬鹿を言うな。お前がそれをすれば、お鈴の身が──」
「お鈴の身は、私の身でもございますよ」
「──ッ」
源一郎は、ぐぅの根も出ず言葉に詰まった。
反駁できぬ。御先狐はお鈴の一部であり、お鈴自身の願いの外在化である。この身体はお鈴のものであると同時に、この御先狐のものでもある。勝手に出歩くなと命じても、従う筋合いを持たぬ存在なのだ。かといって屋敷に軟禁など、そのようなことはしたくなかった。
「……お前」
「ご安心下さい。私とて、この娘を危うくするつもりはございません。この娘が死ねば、私も消えてしまうのですから。──ただ、この娘の願い通り、役に立たせて差し上げたいだけにございますよ」
お鈴の形をしたものは、にこりと笑った。