源一郎は天を仰ぎたい気分だった。
──たちが悪い。
お鈴の奥ゆかしさと、狐の強かさ。その二つが同居したものが目の前にいる。お鈴の姿のまま、お鈴では決してしなかった駆け引きを仕掛けてくる。それも、お鈴自身の願いの名で。拒めば勝手に動き、受ければ源一郎の目の届くところに置けるが──つまるところ、受けるしか道はない。
そこへ、灰狐が横から口を挟んだ。
「──あまり鬼切殿を困らせるものではございませんよ。この方はお前の身の主なのです」
灰狐の声は、穏やかだが威圧するように低くなっていた。金色の瞳が、お鈴の形をしたものを静かに見据えている。
「鬼切殿のお許しなくば勝手に動くと。──小娘が、よくもまぁそのような口を。身勝手にもほどがある」
「灰狐様、これはお鈴の願いにございます。私は叶えるために表に出てきて参ったのです」
「願いの叶え方にも筋というものがあるのです。それに何でもかんでも、何をしてでも叶えれば良いというものでもない。狐の世には、狐の道理というものがあると知れ」
「しかし」
「──くどい。控えろと言っているのだ、小娘」
灰狐の尾が、すっと伸びた。犬歯を露わに先が二股に分かれた尾に、仄かな光がにじむ。
「ここは豊川稲荷の縄張り。お前がこの家に居られるのも荼枳尼真天様が御眷属、白狐様のお目こぼしあってのこと。そして、白狐様の配下たる私の言うことすら聞き耳持たぬのであれば──術で封じて奥に押し込めることも、できぬことではないぞ」
座敷の空気が張り詰めた。
お鈴の形をしたものの笑みが緊張に凍る。その瞳が初めて灰狐を畏れの色で見る。
「……灰狐様。それは……脅しにございますか」
「脅しかどうか、どう取るのかはご勝手に。……ですが、鬼切殿にこれ以上の我が儘を申されるのであれば、私にも考えがあるというだけの話です」
灰狐の金色の瞳は揺るがなかった。
「お方様より、お前の教育係を仰せつかっておりますゆえ。──甘やかすばかりが、狐の教育ではございませんよ」
お鈴の形をしたものは、怯みつつも灰狐を睨みつけていた。口惜しげな表情の裏側──その瞳の奥で何かが計算されているのが分かる。未だ願いを果たすことを諦めてはいないのだ。
源一郎は、ふっと息を吐いた。
──もう、いい。
脅して抑え込めば、この場は凌げよう。だが、それでは何も解決しない。御先狐が引っ込んだところで、お鈴の願いは叶わぬままだ。近いうちに、また形を変えて噴き出す。次は、今のような言葉の応酬で済む保証はない。それこそ、源一郎の意志を無視して動くこともあり得る。
そして、役に立ちたいというのが、お鈴の本心であるならば──。
「灰狐殿、お待ちいただきたい」
源一郎は灰狐を制した。
「……鬼切殿?」
「封じてしまえば、それはそれで一時凌ぎにしかならぬ筈。お鈴の願いは、お鈴の内に燻り残ったままとなる。同じことが、近いうちにまた起きないという保証もないでしょう?」
「それは、その通りですが……」
「誠、かたじけない。灰狐殿のご厚意、痛み入る。しかし──」
源一郎は、お鈴の形をしたものに向き直った。
「──今回は俺の負けだ。話を受けよう」
お鈴の形をしたものの瞳が僅かに見開かれた。
「旦那様……本当にございますか」
「ただし、お絹殿の潜入が済み、偽祈祷師の手口が固まってからだ。それまでに俺は御頭に話を通し、隠密行動の段取りを組む。修験装束、巫女装束も用意する。──だから、お前はその間、勝手に動くな。必ず俺の目の届くところにいろ」
源一郎は、お鈴の形をしたものの目を真っ直ぐに見た。
「……共に行く。お前を一人で行かせはせん。お鈴の身が危うくなる場に、一人で放る真似を俺ができる訳もない」
お鈴の形をしたものは、暫く、源一郎を見つめていた。それから──ゆっくりと、深く頭を下げた。
「……ありがとう存じます。
一線を踏み越えた、静かな声。先ほどまでの棘は、どこにもない。驚く源一郎は名を呼ばれ、どうしてか『お鈴』に呼ばれたような気になった。御先狐ではなく、意識を眠らせている筈のお鈴に──。
灰狐が、ふぅと呆れるように小さく息を吐いた。毛並みの光がすっと鎮まる。灰狐は源一郎を見上げた。
「──鬼切殿はお身内に甘うございますなぁ……ですが、致し方ございませんな。御家の頭領がそう決められたのであれば、私からはもう何も申しますまい。ですがねぇ、小娘」
灰狐の金色の瞳が、お鈴の形をしたものを再び鋭く射た。
「鬼切殿のお言葉、違えなさらぬように。一度でも勝手に動いたならば、次こそ容赦いたしません。──お分かりか?」
「……わかっております、灰狐様」
お鈴の形をしたものは素直に首肯した。灰狐は鼻を鳴らすと尾を一つ打ち、ふわりと姿勢を崩す。
「──では、私は再び祠に戻りますとしましょう。役目の段取りがついた折には、一声お掛け下さい。同じ狐筋として、それらしい口寄せの作法でも手ほどきして差し上げますゆえ」
灰狐は縁側の外へと飛び降り、そのまま音もなく姿を消した。後には、秋の陽が座敷を斜めに照らしているのみ。
座敷に残されたのは、源一郎と、お鈴の形をしたもの──いや、お鈴の内に宿る、御先狐。
源一郎は深く息を吐いた。
「灰狐殿もやはり荼枳尼の眷属なのだな……狐の上下関係とは恐ろしいものだ。──それで、御先狐よ。お前の名は何と呼べばよい?」
お鈴の形をしたものは、小首を傾げた。それから、ふっと笑った。
「名──にございますか」
「あぁ。お鈴と同じ名で呼ぶわけにもゆくまい。お前はお鈴の一部とはいえ、別の顔を持って表に出ておるのだ。混同しては差配にも差し障る」
「左様でございますか」
驚くような表情。それから、お鈴の形をしたものは少し思案気にし、ふと思いついたと悪戯な笑みを浮かべた。いかにも楽しげに源一郎を見る。
「ならば──旦那様がお付け下さいまし」
源一郎の眉が上がった。
「俺がか」
「えぇ、旦那様が。お鈴はずっと、健気にも旦那様のお役に立とうと生きて参りました。その娘の願いを背負って生まれたのが私にございます。──ならば、私の名は旦那様からいただくのが筋というもの」
お鈴の形をしたものは、にこりと笑った。その笑みはやはり悪戯っぽくも、しかし意外なほどに真剣な光を帯びていた。
「それに、旦那様に名付けていただいたならば──私もまた、この家の者にございましょう?」
源一郎は言葉に詰まった。
──うまいことを言う。
名を与えるということは、縁を結ぶということ。身内に受け入れるということだ。名のない影としてではなく、名を持つ存在として共に暮らすと認めることになる。御先狐はそれを承知の上で、源一郎に名付けを求めている。
拒めば、御先狐はまた勝手に振る舞おうとするだろう。しかし、名付ければこの先、身内として手綱を握る道筋ができる。御先狐を家の者として抱え込み、その上で差配する──。それが長く付き合っていくための道なのだろう。
源一郎は腕を組んだ。
──名か。
考え込んだ。お鈴の形をした狐に何と名を付ければよいのか。
安直に花や鳥の名を借りるのは憚られた。お鈴という名に寄り添わせるべきか。あるいは、全く別の響きを持たせるべきか。──お鈴の父祖の名の知識はないし、俗名を借りるには由来が軽すぎてパッとしない。
お鈴の形をしたものは、静かに源一郎の思案を待っていた。急かす素振りもなく、ただ興味深げにこちらを見ている。その視線の穏やかさが、どこか普段のお鈴を思わせて──源一郎はふと、息を吐いた。
──お鈴の、もう一つの姿。
お鈴でありながら、お鈴とは違うもの。お鈴の願いから生まれ、お鈴の姿をして、お鈴と共に生きてゆくもの。そうであれば、名の中に「鈴」の一字は残したい。この者がお鈴から離れた別個の存在ではないと、名それ自体が示すように。
そして、狐の身であることも、隠さぬがよい。灰狐や白狐がそうであるように名は体を表す。
「──鈴狐《りんこ》」
源一郎は、呟くように言った。
お鈴の形をしたものが驚いたように、きょとんと源一郎を見た。
「鈴、狐……」
「鈴の字を、お鈴から。狐の字は、お前の本性からだ。──鈴狐。お鈴の内に宿る狐、という意だ。オサキという呼び名も考えたが、それこそありきたりだろうしな」
源一郎は少し照れくさそうに付け加えた。
「凝った名ではない。もう少し考えれば、もっと良い名が出るやもしれぬが──」
「──鈴狐」
お鈴のかたちをしたものが、その名を口の中で転がした。それから、ふっと笑った。
「鈴狐。……ええ、ええ。結構にございますよ、旦那様」
その笑みは、先ほどまでの挑むような鋭さも、悪戯っぽい大胆さもどこにもなかった。ただそこには、自分だけの名を与えられた者の──初めて自分だけの物を手にした後の、心浮つくような満足感だけがあった。
「お鈴の鈴と、御先狐の狐。──この娘と私が、半分ずつ分かち合うておる名にございますね。宜しゅうございます。私は鈴狐。旦那様より頂戴いたしました名にございます」
鈴狐は盆の脇で深く頭を下げた。
その所作は紛れもなくお鈴のものだった。しかし、頭を下げる時の背筋の通し方が、普段のお鈴よりも幾分か誇らしげに見える。
「有難う存じます、旦那様。──鈴狐、この名に違わぬよう、御役目を務めさせて頂きます」
源一郎は苦笑した。
「……仰々しいな」
「いいえ。名を頂くということは、そういうことにございますよ。お鈴共々、幾久しく御側に置いてくださいまし」
鈴狐は顔を上げた。その瞳には先ほどまでの棘も、駆け引きの光もなく、ただ穏やかな光だけが湛えられていた。
「さて──そろそろ日も傾いて参りました。腹が減ったと口煩い坊様も、もう暫くしたら戻られるでしょうし、夕餉の支度をして参らねば。宜しゅうございますか、旦那様」
「……頼む。おたかに心配をかけぬようにな」
「わかっております。では、お鈴として戻るとします。──ですがまぁ、あの義母様なら何かおかしいと、すぐに気づいてしまわれるでしょうが」
鈴狐はそう言い置いて、盆を抱え直すと立ち上がった。
立ち上がった瞬間、その佇まいに、ふっと普段のお鈴の控えめな気配が戻った。背筋の誇らしげな張りが和らぎ、顎が柔らかく下がる。同じ身体、同じ所作でありながら、どちらの顔として振る舞うかをは使い分けることが出来るようだった。
源一郎は座敷に一人残され、今度こそ天井を仰いだ。
──実に厄介なことになったものだ。
鈴狐──。お鈴の内に宿る、もう一つのお鈴。封じるのでも、追い払うのでもなく、名を与えて家の者として受け入れた。それが吉と出るか凶と出るか、今はまだ分からない。
秋の陽が、ゆっくりと傾き始めている──。縁側の向こう、祠の辺りから灰狐の尻尾が一瞬覗き、それからまた影に溶けた。
台所の方から盆を置く小さな音と、おたかに何かを尋ねる穏やかな声が聞こえてくる。普段と変わらぬ、お鈴の声で──。
源一郎は……その声を聞きながら、ただ一人思案し続けていた。