夕陽が低くなり、縁側の縁甲板を朱に染めていた。
台所からは夕餉の支度をする物音と、おたかの声、それに応じるお鈴の穏やかな相槌が、いつも通りの調子で届いてきた。
──言われなければ、分かるまい。
源一郎は座敷から縁側に出ると、煙草盆を引き寄せ、煙管に刻みを詰めて火を点けた。白い煙が初秋の夕空に昇り、細く長く消えていく。
耳を澄ます。お鈴の声は確かにお鈴のそれだった。声量、声の高さ、義母と娘の会話の内容。何一つ普段と変わらない。
しかし、あの場にいるのはお鈴ではなく、鈴狐。信じがたい事象、一つの体をお鈴と鈴狐が共有する事態。狐憑きであると知らなければ、それが鈴狐であるとは分からない。いや──仮に知っていたとしても、人格がどちらであるかなど、すぐに判別するのは難しいだろう。
──前世の記憶が、ふと頭をよぎる。
解離性同一性障害、多重人格。一つの身体に複数の人格が宿る症例は、前世においては病として診断される類のものだった。
原因の多くは幼少期の心的外傷に求められ、薬と精神療法によって治療が図られる。治療の目指すところは、人格と人格の壁を取り払い一つに統べる「統合」もあれば、複数の人格が互いを認め合いながら共に生きてゆく「共生」もある。人格を統合するだけが正解ではない──それが前世での考えだった。
とすれば、お鈴と、鈴狐。先の世で診断を受けるならば、目指すは統合ではなく共生の方であろう。理想論──鈴狐はお鈴の影として消されるべきものではなく、互いに認め合いながら共に在るべきもの。──そう考えれば、源一郎が鈴狐に名を与え、家の者として迎えたことは、奇しくも前世の流儀に適っていたことになる。
ただ、源一郎には一つ気にかかる点もあった。
──前世で聞いた話。別人格の間では、互いの記憶を共有しないというもの。
前世の知見では、人格Aが表に出ている間の出来事は、人格Bが目覚めても覚えていない──そういう「健忘状態」が解離性同一性障害の典型的な症状として挙げられていた。記憶の壁こそが、人格と人格を分ける証でもある。
だが、お鈴と鈴狐はどうなのか。今、表に出ている鈴狐は、過去のお鈴が過ごして来た日々のことを把握している風だった。協議の内容も、お絹が名乗りを上げた経緯も、お鈴自身が胸の内に仕舞ってきた願いの一切も、鈴狐は当然のように知っていた。
──ならば逆もまた、然りなのか。お鈴が目覚めた時、鈴狐が表で為したことを、お鈴は記憶として共有することになるのか。それとも、そこにはやはり『壁』があるのか。
御先狐という前世の知見では測りきれない事象。
しかしながら──この江戸の世においては、人の身に憑き物が宿ることは珍しくもない事だった。狐憑き、犬神憑き、蛇憑き。憑かれた者の扱いは様々で、村によっては一族郎党差別されて付き合いや婚姻を絶たれ、ひどい場合には座敷牢に押し込められて生涯を終える者もある。憑き物筋という血の烙印が、子々孫々まで人の生を縛る。
その一方で──同じ憑き物が、ところ変われば崇められもした。神懸かりの巫女、口寄せの市子、イタコ。人ならざるものを宿し、神の言葉を伝える者として、村の祭祀の中心に据えられ、敬われ、頼られてきた。
──憑き物は穢れであると同時に、聖なるものでもある。そういう二重の顔を、この世の人々は古くから受け入れてきた。
お鈴がどちらの顔の下に置かれるかは、源一郎の差配一つなのだろう。
家の主が穢れと見做せば、お鈴はその瞬間から座敷牢の住人となる。家の主が神懸かりと見做せば、お鈴は崇められる側にも立つ。──そして源一郎は、そのどちらも選ばぬと、既に腹を決めていた。お鈴はお鈴であり、鈴狐は鈴狐である。それ以上でも、それ以下でもないと。
──ならばこそ、未来を生きた者として、この世の流儀の、なお三歩先に立つまで。
源一郎は、煙を細く吐いた。鈴狐は家の者として迎える。それは確定事項。──ただ、お鈴のことは、やはり気に掛かった。今この時も、心の奥底で静かに眠っているのか、それとも鈴狐の為すことを心の内で聞いているのか。それは分からない。分からないが、考えたところで答えが出る話でもない。
──少しでも早く、目覚めさせてやらねばな。
それには鈴狐の願いを叶えてやることが先決。なすべきは、約束した役目の段取りを整えること──ただ、それだけだ。
──と、煙管の煙を吐き出した、その時。
庭木の向こうから、ざりざりと草鞋を擦る音が近づいてきた。
「おう!源一郎──戻ったぞ!」
朗々とした声。俊源坊が金剛杖を手に、笈を背負ったまま通用口から姿を現した。日に焼けた顔に、生気溢れる笑み。片手には風呂敷包みをぶら下げている。
「今日は土産があるぞ。ほれ、栗だ。檀那場の百姓家でたんまりと採れたからと押し付けられてな。断り切れなんだ」
俊源坊は風呂敷包みを持ち上げてみせ、カカカ、と笑った。
「儂が縁側に腰を下ろすなり、ほれこれを持って行け、うちのカカアは甘く炊けるのが自慢でな、などと──まぁ、有難いことよ」
その笑みが、ふと細まった。源一郎の顔を見て、俊源坊の目の奥に天狗の観察眼が一瞬だけ覗く。
「どうした源一郎。何やら妙な顔をしておるな」
源一郎は煙管を煙草盆に戻した。
「お師匠。──そのことで少々、お話が」
「ふむ」
俊源坊は風呂敷包みを縁側の端に置くと、笈を下ろして源一郎の隣にどっかりと腰を下ろした。金剛杖を膝に寝かせ、焼けた首筋を手拭いで拭う。
「どれ、話してみよ」
源一郎は今しがたの出来事をかいつまんで伝えた。神谷とお絹との打ち合わせ。お絹が名乗りを上げた経緯。お鈴の中の御先狐が表に出て来たこと。そして、その目的──御先狐が巫女として近江屋に乗り込む段取りを提案し、源一郎がそれを受けたこと。御先狐に鈴狐と名を与えたこと。
俊源坊は黙って聞いていた。話が終わると、太い息を一つ吐く。
「──ふむ」
それから台所の方に顎をしゃくった。
「それで、今、お鈴の身を使っておるのは、その狐の方なのか」
「はい。──お鈴は眠っているとのことで、しばらくすれば目覚めるとのことでしたが……」
「そうか……だがまぁ、それが狐憑きの習いだ。心配する気持ちはわかるが、今更気にしても何にもならん。お鈴が目覚めるのを待つしかあるまいよ」
「えぇ……目が覚めたら、お鈴にはまず謝らねばなりませんね」
「律儀な男だな、お前は──で、お前はその狐を疎むこともなく、家の者として抱え込んだ訳だ」
「鈴狐もまた、お鈴の一部ですので」
「……憑いた狐に名まで与えるとは酔狂なことよ。それは狐を使役する行者の手管と同じだと知っていたのか?」
俊源坊が片眉を上げて源一郎を見た。源一郎は静かに首を振った。
「そうなのですか。俺にはよくわかりませんが……ただ──封じても、いずれはまた出てくるものでしょう。ならば名を与え、手綱を握る方が吉かと」
「お前はたまに突拍子もないことをする──が、それはそれで正しい判断なのかもしれんな」
俊源坊は満足げに頷いた。
「ただし、手綱は握った者が責を負う。狐が何かやらかせば、それはお前の責だ。そこは覚悟しておけよ」
「承知の上です」
「うむ」
俊源坊は顎髭を撫で、それから口の端を歪めて笑った。
「──しかし、口寄せの真似事を近江屋で、ときたか。面白いことだ。どれ、儂にも一枚噛ませろ」
源一郎の口元にも苦笑が浮かんだ。
「……お師匠ならば、そう言うと思っておりました」
「分かっておるなら話が早い。修験のことなら俺が関わらずしてどうする。修験の装束、作法、印、真言──必要なだけ仕込んでやるぞ。一端の行者に見えるよう、儂が直々に仕立ててやろう」
「では、さっそく作法の稽古をお願いいたしたく。──鈴狐は灰狐殿に口寄せの作法を教わる手筈です。同じ狐筋ゆえ、手ほどきには適任かと」
「うむ。儂と狐で両側から固めれば、まず格好はつくな」
俊源坊は満足げに鼻を鳴らし、栗を一つ取り出して指先で弄んだ。
「あとは、近江屋へどのように入るかよな」
「それについては、近江屋の番頭を抱き込めば鈴狐もお絹殿の潜入も、どちらも整いましょう」
「番頭か」
「商人とは強かなもの。仮に店主が偽祈祷師に取り込まれておっても、店を回している番頭ならば自身の縄張りを荒らそうとしている者を冷徹に値踏みをしているはず。番頭をこちら側に付ければ、別筋の修験者を試してみる方向に誘導することも可能でしょう」
「ふむ。──お前も、随分と思い切ったものだな」
「決まったことに迷いを残しても、何も始まりませんので。やるなら全力であたりませんと」
源一郎の声に、もう先ほどまでの迷いはなかった。
俊源坊はちらと源一郎の横顔を見て、ふっと笑った。栗を風呂敷の中に戻し、金剛杖を突いてゆっくりと立ち上がる。
「──女のためか。男とは何とも因果な生き物よ。まぁ──あの娘が自ら役目を望むのは良いことだ。あの娘は我が身を控え過ぎるきらいが見えた。時には身の内を曝け出すのも必要なこと。お前が受けたのは、狐の願いではなく、あの娘の願いなのだからな」
「はい」
「ならば、為すだけよな」
俊源坊は風呂敷包みを抱え直し、台所に向けて声を上げた。
「おーい!足濯ぎの水を頼む!栗を土産に貰ってきたぞぉ!」
「はーい!ただいま!」
台所から弾むような返事。俊源坊は金剛杖を突き、ゆっくりと土間の方へと回っていった。
§
源一郎はまた一人、縁側に残された。
煙管に詰めた煙草にもう一度火を点け、ゆっくりと煙を吐く。白い煙が初秋の空気に溶け、紫に移ろう空へと薄く昇っていった。
──お鈴。
心の内で、その名を呼んだ。返事はあるはずもない。鈴狐がお鈴の身を借りて土間で立ち働いている今、本来のお鈴は心の奥底で静かに眠っている。声も聞けず、顔も見えず、ただ気配だけが──遠い。
幼い頃からこの屋敷にあって、常に源一郎の半歩後ろを歩いてきた娘。我を張らず、不平も不満も口にせず、ただ役に立ちたいという一念だけを胸の奥に仕舞い込んできた。それを誰よりも近くで見ていながら、源一郎はあの娘の願いの深さを今日この日まで理解していなかった。
──済まなかった。
心の底から、そう思った。鈴狐が表に出てこなければ、源一郎はこの先もずっと、お鈴の沈黙を当たり前のものとして受け取り続けたであろう。お鈴自身が押し殺してきたものの重さを、何も気づかぬまま日々を過ごし続けたであろう。──そう考えれば、鈴狐の出現は、お鈴の本心を知る切っ掛けになったとも言える。
──応えねばならぬ。
お鈴の願いを叶える。鈴狐に与えた役目を共に果たす。それは男としての矜持の問題でもあった。幼い頃から共に過ごした女の願いを受けて、為さぬということがあってよいはずがない。
──そして、近江屋の事件。
偽祈祷師の手口、薬を用いた憑き物の偽装、商家の娘たちを狙う卑劣な詐欺の輪。その背後に潜むものがどのような『集団』であるか──まだ全ては見えていない。しかし、その糸口の一端を掴むためにこそ、お絹が潜入し、鈴狐が表に立つ。為すべき道は、既に一筋に繋がっている。
──必ず、裏に潜むものを暴いてみせる。
源一郎の指が、煙管をきつく握り直した。鈴狐に役目を与えると約束した以上、その役目を中途半端に終わらせるわけにはいかない。江戸を荒らす詐欺を露わにして首魁を引きずり出し、そこに繋がる更なる闇までも追い詰め、最後には源一郎が悪を斬って捨てる──。それが、お鈴の納得する結末であろう。
源一郎は煙を細く吐いた。胸の内に静かな炎のような熱が灯った。
──待っていろ、お鈴。必ず、目覚めさせてやる。お前の献身に、俺は必ずや報いる。
夕陽はもう庭木の向こうに沈みかけ、空は茜から紫へと深く移ろいつつあった。
萩の花が風に揺れ、その白い花弁が一つ、二つ、縁側の板の上に落ち──庭の鳥居が黒々とした影を伸ばす。
土間の方からは、俊源坊の闊達な声と、それに応じるお鈴の柔らかな声、そしておたかの笑い声が重なって響いていた。普段と何一つ変わらぬ、渡辺家の夕餉の支度の音──。鈴狐が表に立とうと、お鈴が奥で眠っていようと、家の日常は途切れることなく流れてゆく。
源一郎は煙管を仕舞い、ゆっくりと立ち上がった。
夜の気配が、静かに渡辺の屋敷に降り始めていた。
次話は少し空くかも。
次からは捜査に入ってゆく!