源一郎は里芋を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。それから静かに言った。
「──何か事情がおありのようだな」
押し付けがましくならないよう、ただ隣席になった者として聞き役に徹する──。対する仁助は暫く黙っていた。猪口を見つめ、それから天井を仰ぐ。低い天井の梁には長年の煤がこびりついている。
「……申し訳ありません。つまらぬ愚痴でございます。お耳汚しでございました」
「構わん、構わん。酒の席だ。愚痴の一つも出なければ嘘だろう。身の内から毒を吐き出すのも、酒の薬効の内よ」
「かたじけのうございます……」
それからまた、暫しの沈黙が続いた。
「……店の行く末が、少々案じられましてな」
仁助がぽつりと零した。具体の中身は言わない。ただ、その一言にどれほどの重みがあるかは声の調子が語っていた。
「旦那様は近頃、外から参った者の言うことばかりを信じておられる。長くお仕えした私の言葉も、なかなか届きませぬ……」
仁助は猪口の酒を一息に干した。空になった器をボウッと見つめる。
「……商いも、御家のことも、このままではどうなるか……」
「ふむ──相当に思い詰めていると見受ける。どうだ、俺に詳しく話してはみないか?」
ハッとした様子で、口を真一文字に噤む。奉公人として踏み越えてはならぬ一線に触れていることに気づいたような顔だった。
「……い、いえ、申し訳ありません。到底、他所には漏らせぬ、お恥ずかしい話でございますので……これ以上は御家の事情にも関わります……どうかご勘弁を──」
口は相当に固い。だからこそ、番頭を任せられているのだろうが──。源一郎は黙し、考えていた。酒を注ぎ足すでもなく、諦めずに口説くでもなく。
隣の職人たちが勘定を済ませ暖簾をくぐっていく。店の中が少しだけ静かになる。
──頃合いだった。
「
源一郎は声を改めた。柔らかさを残しながら、しかし世間話の調子ではない声。名乗りもしていない名を、源一郎が呼ぶ。
「一つ、隠していたことがある。それを詫びねばならん」
仁助が困惑したように顔を上げた。
「最初から名乗るべきだったが……話を聞いてからと思い、無礼を承知で黙っておった」
源一郎は懐から紫の房の付いた十手を取り出し、仁助にだけ見せた。
「──火付盗賊改方与力、渡辺源一郎と申す」
仁助の目が見開かれた。猪口を持つ手が止まり、息が一瞬だけ止まる。
だが──そこにあるのは恐怖ではなかった。
仁助の目に浮かんだのは、驚きと、その奥にある戸惑いだった。何故、火付盗賊改方の御役人が私の前に、と──。そして、その戸惑いの裏に微かに灯る期待も──。
「御役人様が……何故……」
「近江屋のことを調べておる」
源一郎は静かに言った。
「さる筋から報せがあってな──近頃、店に怪しげな祈祷師が出入りしておるだろう。多額の寄進が続き、店が傾きつつあるのではないか。──芝の加賀屋で起きた一件と、どうも筋が似通っておると見た」
「芝の、加賀屋……」
源一郎は十手を懐に戻した。
「知っておるようだな。加賀屋も同じ手口なのだ。あの一家心中は借金苦と片付けられたが、その借金の原因が祈祷師の騙りにあるならば、それは白昼の盗人働きに同じ。ならば、火付盗賊改方が見逃す道理はない。仁助殿──店のこと、話してはくれぬか──」
仁助は唇を震わせた。言葉を探しているのが分かった。だが、すぐには出てこない。拳が膝の上で白くなっている。
「……お、御役人様。私は──」
仁助は口を開きかけ、そして閉じた。それからもう一度開き何事かを発しようとしたが、また閉じる。源一郎は言葉を待った。
仁助の視線が、自分の膝の上で握られた拳に落ちる。その拳が小刻みに震えている。猪口の縁を指先で撫でる、猪口を持ち、しかし口には含まずに再び卓に置く──そんな落ち着きのない動作を繰り返しながら、仁助は言葉を探していた。
息を吸う。吐く。もう一度吸う。
「……私は……私は、紙問屋近江屋の番頭でございます」
絞り出すような声だった。苦々しい葛藤が垣間見える。
「長年、あの店を守ってまいりました。旦那様をお支えするのが私の務めです。それは疎まれかけている今も変わりません」
源一郎は頷いた。──仁助が何を言おうとしているのか予想がついた。
「……旦那様に盾突くことは、御家の事情を外に漏らすことは、私には出来ぬことでございます。ましてや──身内の恥を、御役人様のような御方のお耳に入れるなど……」
仁助の声が揺れた。
「しかし、このままでは加賀屋の二の舞だぞ。それが分からぬ番頭殿ではあるまい」
「それは──」
そこで言葉が途切れた。仁助は唇を噛み、拳をさらに強く握った。
仁助は目を伏せた。その横顔には、忠義と良心の鬩ぎ合いが刻まれていた。店を守りたい。しかし守るためには、主人の信じているものを否定し、秘すべき御家の事情を外に晒さねばならない。番頭として仕えてきた年月の全てが、葛藤が今、仁助自身を引き裂こうとしている。
源一郎は静かに言った。
「それは裏切りではない」
「……」
「主人を守るために自ら動くことを、裏切りとは言わん。お前は近江屋の番頭だ。店を守り、主人を支えるのが務めだと、お前自身が言った。──葛藤しているということは、自らがどうすべきか既に分かっているのだろう。ならば──必要なのは覚悟のみ」
仁助は顔を上げ、源一郎の目を見た。視線が合わさる。
「──仁助、その務めを果たせ」
源一郎の言葉で、仁助が動揺に目を泳がせた。長い、長い沈黙を迎える──。
店の奥で親父が皿を洗う音。暖簾が風に揺れる音。遠くで木戸番の拍子木が鳴っている。そして──仁助は、深く息を吐いた。背を丸め、堪えるようにして、ポツリと囁く。
「……お嬢様に……お嬢様に、憑き物の障りが出ておられるのです」
その一言を口にした瞬間、張り詰めていた何かが抜けていった。助けを求めたくて仕方がなかった本心が曝け出される。
「半年ほど前から……急に暴れる、泣き叫ぶ、見えぬものが見えると仰るようになりました。物を壊し、奇声を上げ……時折、別人のようになられます。何日か経つと治まるのですが、それを何度も繰り返すのです」
「それは辛かろうな……」
「旦那様は『伝手』を辿り、評判の祈祷師を呼び寄せました。すると修験者と、口寄せの巫女だと名乗る女が来まして……祈祷をすると確かにぴたりと治まる。旦那様は大層感謝なさいまして祈祷料を払っておられます」
源一郎が僅かに目を細める──仁助は一度言葉を切り、深く呼吸をした。もう止める理由もなかった。
「ところが……治まってもまた発作が起きる。そのたびに祈祷師を呼び、金を払う。祈祷料はどんどん高くなるばかりで。最初は五両だったものが、今では一度に二十両、三十両と。……ついには半年で三百両を超えました」
「三百両」
源一郎は眉を動かした。紙問屋の番頭がそれを口にする時の声の重さが、その額の意味を何より雄弁に語っている。
「障りが根深いのだと。先祖の因縁だと。財を清めねば娘が危ないと。──旦那様は祈祷師の言葉をすっかり信じてしまわれた」
仁助の拳が、また膝の上で握り締められた。
「私は……おかしいと思っておるのです。お嬢様の発作が始まる少し前に、新しい下女が入りました。口入屋を通して来た者ですが、どうにも妙で……確かに愛想は良いが、何やらたまに隠し事をしているような動きをする。それに──お嬢様の発作が起きるのは、決まってあの女が台所に立った後なのです」
「それを主人に言ったのか」
仁助は苦く笑った。
「申しました。ですが旦那様は──」
言葉が詰まった。仁助は目を伏せた。
「『身内を疑うとは……心の内が穢れている証だ。仁助、お前も巫女様の言う通り、障りの原因の一つではあるまいか』──と。長年の奉公で、あのような目で見られたのは初めてでございました。子供の頃から一緒に育ったようなものです。旦那様の癖も、考え方も知っている。それなのに……あの祈祷師の言葉の方を信じて、私の言葉は聞いてもらえなかった」
仁助の声が掠れた。それは番頭としての無力感であると同時に、古馴染の間柄にある相手に拒まれた──深い痛みでもあった。
「……このままでは、店が潰れてしまう。加賀屋と同じ道を……」
仁助は両手で顔を覆った。
「丁稚から番頭まで、あの店一筋で参りました。旦那様も、お嬢様も、私にとっては……家族のようなもの。それなのに──」
声が途切れた。居酒屋の喧騒が、その沈黙を包んでいた。
「──近江屋を……助けていただけますか」
仁助は顔を上げた。目が赤い。だが、最後の一語は震えていなかった。
「あぁ、助ける。──そのために我らが来た」
源一郎は短く答えた。
仁助の肩が大きく揺れた。こらえていたものが、一瞬だけ堤から溢れかける──しかし仁助はそれを呑み込んだ。代わりに、鼻を啜り、深く、深く頭を下げる。
源一郎は一つ頷いた。
「仁助殿。幾つか、頼みたいことがある」
「何でございましょう」
「近江屋に人を一人入れたい。新しい下女として雇い入れる形だ。身元はこちらで整える。お前が口入屋から紹介を受けた体にしてくれればいい」
「下女を……」
「店に入り込んだ引き込み役の動きを内側から見極める者が要る。お前に密偵の役をしろとは言わん。此方から腕の立つ者を送り込む」
仁助は暫く考え、それから頷いた。
「……台所の人手が足りぬと旦那様にも申しておりました。新たに一人入れても不自然にはなりません」
「うむ──。それから、もう一つ。後日、新たな修験者が近江屋を訪ねることになるかもしれん。その時はお前から主人に『別筋の修験者にも見ていただいてはどうか』と進言してほしい。近江屋の主人は豊川稲荷の信者だと聞いているのでな、豊川稲荷の縁で参った者という体にする。稲荷の遣いとなれば、無下にはできまい」
仁助は僅かに目を見開いた。修験者を送り込む──それが火盗改の御用改めと、どう関係するのか疑問に思ったのだろう。だが、問い質すことはしない。
「……承知いたしました。旦那様への進言は、私が致します」
「よし。──仁助殿」
源一郎は仁助の目を見た。
「今夜のことは誰にも話すな。主人にも、娘にも、他の者にも一切だ。新たな下女の件は追って連絡する。それまでは今まで通り過ごせ」
「承知いたしました」
「最後に。──お前が毎晩ここに来ていることも、今夜限りにしろ。酒を片手にうな垂れている暇はなくなるぞ」
仁助ははっとした顔をした。そして、ようやく──苦い笑みを浮かべた。
「……番頭が毎晩飲み歩いていては、示しがつきませんな」
「そういうことだ」
源一郎は銚子を手に取り、仁助の猪口に最後の一杯を注いだ。
「今夜が最後の一杯だ。次に酒を飲むのは、全てが終わった後にしろよ」
仁助は猪口を両手で包み、暫くそれを見つめた。酒の水面に、天井の行灯の灯りが小さく映っている。
「──御役人様」
「うむ」
「四十年でございます。旦那様が若旦那だった頃から──一緒に歩いてまいりました。喧嘩もしました。商いで失敗して、二人で頭を下げて回ったこともあります。お嬢様が産まれた時は、旦那様より先に泣いてしまいまして──あの時は、随分と笑われました」
仁助は猪口を干した。そして、静かに伏せた。
「旦那様と……お嬢様を。──あの店の者たちを。何卒っ、何卒っ……!お助けくださいっ……!」
源一郎は頷いた。それ以上の言葉は要らなかった。静かに仁助の肩を叩く。
それから、二人は別々に店を出た──。仁助が先に立ち、源一郎は暫く残って勘定を済ませた。
暖簾をくぐると、秋の夜風が頬を打つ。京橋川の水面に、向こう岸の灯りが揺れている。虫の音が細く響き、遠くで木戸番の拍子木がカンカンと鳴っていた。
仁助の背中が向こうに消えてゆく──。その足取りは、来た時よりも幾分かしっかりとしていた。
──必要なものは揃い始めている。仁助を内側との繋ぎとし、まずはお絹を店に送り込む。修験者と巫女の出入りを監視し、内側から薬の証拠を掴む。全ての筋が一つに繋がった時、祈祷師が詐欺師であると白日の下にさらす。そして──火盗改が背後にあるもの諸共、一網打尽としてくれる。
しかし、未だ明らかとなっていない点もある。近江屋に祈祷師である修験者と口寄せ巫女がどのようにして入るに至ったか──。近江屋主人の用いた『伝手』とは──。
源一郎は逆方向を向き、役宅への道を歩き出した。
秋の月が雲間から覗いている──。細い三日月。その光は淡く、京橋の通りを銀色に染めていた。