翌朝──源一郎は麻布の役宅に出仕した。
秋晴れの空が高い。門前の木札が朝陽を受けて白く光っている。詰所には今日も同心たちが詰めており、書類を捌く者、報告を取りまとめる者の姿が見えた。源一郎は同僚達に軽く挨拶をしながら書院へと向かった。
廊下の先、障子戸が開け放たれた書院に平蔵の姿が見える。文机に向かい、何やら書状を読んでいた。源一郎は敷居の手前で膝をつき、声をかけた。
「渡辺です」
「入れ」
平蔵が書状を置いて顔を上げる。源一郎が座すと、暫くその顔を見てから口を開いた。
「近頃は随分と忙しそうだな。祈祷詐欺の件か」
「はい。幾つかご報告したき儀がございます」
源一郎は手短に経緯を述べた。近江屋の番頭、仁助を抱き込んだこと。内偵のために女を一人、下女として近江屋に送り込む手筈が整ったこと。引き込み役と思しき下女、『おたね』の動きを内側から監視し、薬の証拠を押さえる算段であること。締めの段階で源一郎が修験者に扮し、祈祷師を見極めること。
平蔵は黙って聞いていた。時折頷き、源一郎の言葉を噛み締めるように受け取っている。
「番頭を抱き込んだか。──よく動いたな。だが、送り込む女というのは。お前の密偵か」
「いえ。──御庭番に縁のある者になります」
平蔵が眉根を寄せて、視線を鋭くする。
「御庭番」
一拍の間があった。それから平蔵は腕を組み、源一郎を見据える。
「……もしや、あの無口な女か」
源一郎は瞑目した。平蔵の勘は相変わらず鋭い。日枝神社の一件で捕らえた弓使い──卯木。盗賊団に潜り込んでいた御庭番の密偵。捕縛の後、上役と思われる男が引き取りに来るまで無言を貫き通し、そのまま連れて行かれた、あの女を平蔵は覚えていた。
「左様です。あの一件の後、あの者の兄と知り合う縁がありまして。その繋がりで妹──卯木とも改めて知己を得ました。此度、その者が自ら協力を申し出てくれたのです。商家への潜入は本職も本職、当人も手練れとなります」
平蔵は暫し沈黙した。
「兄、か。兄妹ということは、その者も──」
「兄の方が御庭番の役目を担っているようです。妹の方は密偵として兄の下で働いている形です」
「ふむ……」
平蔵は腕を組んだ。その目は、源一郎が御庭番と繋がりを深めていることの意味を測っているようだった。やがて、低い声で言った。
「あの女が自ら志願したということは余程の事情、もしくは協力するだけの利があるのだろうな──。源一郎。俺はお前の交友について深く追及する気はない」
平蔵はそこで一度言葉を切り、声を落とした。
「だがな、一つだけ言っておく」
「はい」
「分かっているだろうが、御庭番は将軍家直属の耳目だ。火盗改がその者どもと組んで動いているとなれば──その働きや詳細が将軍家の耳に入り得るということでもある」
「……承知しております」
「今は問題なかろう。だが、万が一この捜査で不手際があった場合──御庭番を通じてそれが、仮に上様に伝わることになれば面目を失う程度では済まんぞ。最悪、御家の存続にも関わる」
平蔵の視線はかつて無く鋭い。しかし、その奥には叱責ではなく──部下を案じる色があった。
「俺はお前の判断を信じてはおる。だが、御庭番との間合いは常に測っておけ。深入りし過ぎるなよ。あくまで火盗改の捜査に御庭番が協力しているに過ぎぬという建前を崩すな。──よいか」
「は、肝に銘じます」
源一郎は深く頭を下げた。平蔵は頷き、それから表情を僅かに緩めた。
「……ところでな。佐久間が面白いことを掴んできたぞ」
「佐久間さんが」
「いつも、お前が『どこからか』妙な調べをつけてくることで、対抗心を抱いたらしい」
「は、はぁ……」
「──曰く、どうやら祈祷詐欺は江戸だけの話ではないようだ」
源一郎は居住まいを正した。
「東海道筋の宿場町でも、同じ手口の被害が出ておると調べがついた。品川、藤沢、小田原──箱根の手前あたりまで。修験者と巫女が商家に入り込み、祈祷料を搾り取ってゆく。手口は江戸のものと瓜二つだ」
源一郎の眉が動いた。
「江戸の外にまで──」
「ああ。複数の宿場で被害が出ているとなれば、ただの偶然ではあるまい。これでは組が一つとも限らん。幾つもの組が動いておるとすれば……引き込み役の女も含めれば、相当の人数になろう」
「……背後に組織だったものがあると考えた方が良さそうですね」
平蔵は顎を撫でた。
「東海道筋にも手を広げているとなると、江戸に拠点を持ちながら街道沿いにも人を送り出している。いや、拠点はまた別にあるか──。どちらにせよ、金も要るし、統制も要る。末端の詐欺師だけでは、とてもこの規模は回せん。その背後に、人も金も動かせるだけの大物がおるということだ」
「私の師が、以前から講を隠れ蓑にした悪党の話をしておりました。同じ根なのか、別の一味なのか──もしかすると……」
「今の段階では断定はできん」
平蔵は落ち葉が舞い込んだ縁側に目をやった。
「だが、枝葉だけ刈っても根が残れば又生えてくる。悪草とはそういうものよ──。まずは目の前の近江屋を救え。その過程で何が見えてくるか──心しておけ」
「はい」
平蔵は一つ頷いた。それからふと、思い出したように言った。
「もう一つ。──お前自身が修験者として店に乗り込むと言ったな」
「はい。番頭の進言で豊川稲荷の遣いを名目に近江屋に入り、祈祷詐欺の主犯と直接対峙する段取りです」
平蔵は鼻を鳴らして笑った。
「修験者に化けるか。──まあ、俺も大盗人やら用心棒やらに扮して敵地に乗り込んだことはある故、人のことは言えんが」
苦笑。だが、すぐに表情を引き締めた。
「その時は口寄せ巫女も要るだろう。連れていくのは誰だ」
源一郎は一瞬だけ間を置いた。
「……屋敷の者を」
「女か」
平蔵の目が源一郎を射た。源一郎の密偵に女がいることは以前より報告で聞いていた。直接顔を合わせたことはまだないが、赤坂の茶屋に潜り込ませた女の存在は把握している。
「悪党の前に出すということは、相応の危険を伴うぞ。向こう側に武力を持つ者がいれば、修羅場になる。その時、お前は女を守りながら戦えるのか」
源一郎は真っ直ぐに平蔵の目を見た。
「無論、この命に替えても」
「……」
平蔵は暫く源一郎を見つめていた。それから、深く息を吐いた。
「よかろう。お前がそう言うなら任せる。──だがな、源一郎」
平蔵の声が低くなった。
「御庭番の女にせよ、お前の密偵にせよ──人を使うということは、その者の命を預かるということだ。証拠を掴みたいがために、内偵の者を無闇に危険に晒すようなことがあれば──俺は、お前を厳しく叱責せねばならんと覚えて置け」
人情に篤く、密偵達にも慕われる平蔵らしい言葉だった。火付盗賊改方の頭として、信頼の上に成り立つ関係を軽んじる者には容赦などしない──。
「……は、心得ましてございます」
「ふ……まぁ、お前が密偵らの身を軽んじているとは思っておらんよ。──では行け。捜査の進みは逐一報告しろ。東海道筋の件は引き続き佐久間に調べさせる。権助らにも周知しておけよ」
「はっ」
源一郎は深く一礼し、書院を辞した。廊下に出ると、秋の陽射しが庭に差し込んでいる。
──さて、報告は済ませた。次は、お絹を近江屋に送り込む番だ。
源一郎は詰所に向かい、権助を呼んだ。番頭、仁助への連絡と、お絹の受け入れ準備。段取りを詰めねばならない。