鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百十二話

 

 近江屋──京橋の紙問屋。

 

 明け六つの鐘が遠くで鳴っている。店はまだ静まり返っていた。

 

 前日の火種を灰の中から掘り起こし、杉皮の焚き付けに火を移す。薄暗い土間に揺らめく橙の明かりと燻した煙がチリチリと広がる。

 

 薪を二本足し、竈の火が安定するまで息を三つ吹き込んだ。

 

 釜に水を汲んで湛える。裏戸口から差す朝日はまだ弱く、台所の竈の炎だけが顔を照らしていた。

 

 それは神谷絹──世間での通り名を卯木という女が、近江屋に入って三日目の朝だった。

 

§

 

 これより七日前の夕刻──四谷にある神谷の屋敷に使いの者が文を届けた。

 

 宛先は神谷伝兵衛。本役先手組与力、火付盗賊改方、渡辺源一郎よりの報せであった。

 

 神谷は縁側で文を読み終えると、暫く無言だった。それから女中を呼ぶと、屋敷の奥にいるお絹を呼び寄せた。

 

 いつもの男装姿──呼ばれたお絹が縁側に座すと、神谷は黙って文を差し出す。

 

「読め」

 

 お絹は文を広げた。

 

 文の中身──性格が表れるのか、内容は多岐に渡る。祈祷詐欺の捜査に関わる潜入の件。京橋の紙問屋、近江屋へ入るための段取り。そして、番頭は既にこちら側に付けた旨。

 

 文の後段には、先の関連事件の覚え書きが添えられていた。

 

 芝の小間物問屋、加賀屋の件──およそ一年前に起こった同じ手口と見られる祈祷詐欺で、一家は祈祷詐欺による多額の借金を抱え、終には心中するに至った。

 

 その加賀屋では、行方が追えなくなっている奉公人がいるという。名は、おたね。一家心中の前に荷物をまとめて姿を消していた。──『逃げたのではあるまい。加賀屋から金を絞りきったとして、次の店に移ったと見るべきだろう』と、筆に記されていた。

 

 また、文とは別に紙が添えられている。人となりを聞き取り、新たに作成した、おたねの人相書き──。推定年齢二十代半ば、背丈並、色白、面長に鼻筋通り、目元少し切れ上がり。そして──左目の下に、小さな泣き黒子がある。

 

 『近江屋に張り付けた同心からは、店の裏戸口から出入りする女中「お富」の顔を確認した旨、報告が上がっている。左目下に同様の黒子あり。おたねと同一の者である見込み、極めて高し』

 

 『ただし、完全に同一人物と断ずるには、もう一段の見極めが必要。店の内でお富の振る舞いと手口を見極められたし』

 

 そして末尾に一行、『お絹殿を頼りにしている』とあった。

 

 ──兄以外から頼りにしているなどと言われたのは初めてだった。

 

 お絹にとって密偵とは命じられるものであり、頼りにされると言われると、どうにもむず痒いものがある。お絹は、やはり不思議な男だなと思った。

 

 お絹が文を畳むと、神谷が縁側の柱に背を預けたまま言った。

 

「で、どうする?」

「行く」

 

 それだけで意志は通じ、神谷は頷いた。だが、すぐには話を終えた訳ではない。暮れかけた空を見上げる。

 

「お絹。一つだけ、念を押す」

 

 声が少し沈んだ。

 

「今度の仕事は、渡辺殿の差配にしたがえ。ただし……あの男がしくじるとは思えないが──有事には、お前の身は、お前自身で守らねばならん」

「……うん」

「御庭番は身が割れたらそこで仕舞いだ。何かあっても助けには行けぬ。それが御役目の掟。先の山王の折は特例。お前が簡単に火盗改から身柄を引き渡されたのは、『調べ』の報告を上が欲していたからだ。──二度目はないぞ」

 

 上──つまりは将軍家ということなのか。神谷の視線は空の方を向いたまま、お絹の顔を見ない。

 

「だから──身が割れそうになったら、引け。証拠を掴めずともな。御役目とは関係なく……お前が無事に戻ることが、兄としての願いだ」

「……うん」

「それから……俺がおらずとも飯はちゃんと食え」

「食べている」

「嘘をつけ」

 

 兄の視線が、ようやくお絹の方に向いた。御庭番の役目を任ぜられた者としては、あるまじき言葉。しかし、そんな兄だからこそ、お絹は信頼していた。

 

 ──その夜、お絹は久しぶりに父方の古い書付を引き出した。

 

 紀州から江戸に移った折に持ち込まれた、神谷家に伝わる文書。黄ばんだ和紙に薄れかけた墨の覚え書き。大半は役目に関わる記録であり、どの頁をめくっても肝心の猫については何も書かれていない。祀りの作法も、供物の種類も、祈りの言葉も──紀州から江戸へ移る間に、捨てられ、忘れ去られたのだろう。

 

 だが、最後の頁の裏に一行だけあった。

 

 ──『神谷筋二伝ワル、二尾紅毛之猫神。祀レバ家ヲ守リ、怠レバ血ヲ病マス。忘ルベカラズ』

 

 それだけだった。他には何もない。

 

 二尾の紅毛の猫神。──まさにアカの姿だ。祀れば家を守り、怠れば血を病ます。渡辺の屋敷に逗留していた行者の言っていたことと符合する。祀りが途絶えているから障りが出ているのだとすれば──祀りを取り戻せば猫神は落ち着きを取り戻すということ。

 

 アカは本来──家を守る神だった。

 

 祀られることがなくなっても、恨み祟ることもなく、ただ血の縁に寄り添い続けてきた猫──。

 

 お絹はアカの頭に手を置いた。赤い毛が指の間を流れる。アカは目を細め、低く、ゴロゴロと喉を鳴らした。いつもと同じ触れ方、いつもと同じ鳴き方──それでも、真実を知ったあの日からは少し違って感じられた。

 

§

 

 報せを受け取ってから二日後の夕刻──お絹は近江屋の裏戸口に立っていた。

 

 木綿の地味な小袖、髪は丸髷に結い上げている。長身の体躯を少しでも目立たなくするために、背を丸めて猫背をつくった。目は伏せ、顔は俯き加減にして、気弱な女に見えるよう努めた。

 

 ──だが。

 

 裏戸口で迎え出た番頭は、お絹の姿を目にした瞬間、僅かに身を引いた。口が薄く開いており、咄嗟に言葉が出てこない。

 

 大女である。猫背で縮めてなお、五尺七寸近くはあろうか。袖口から覗く手首は細く、顎の線は鋭い。痩せた身体、それでいて背丈は大抵の男を超える。

 

 江戸の女としては、尋常の姿ではない。

 

 ──仁助の表情に驚きが、次いで戸惑いが、そして最後に憐れみに近いものが過ぎった。

 

 これほどの長身、物珍しげに見世物小屋に立たされてもおかしくはない。いや、化け物の類とすら揶揄されたこともあるかもしれない──。

 

 仁助はそれに思い至ったのだろう。すぐに視線を外し、目の前の者を「女中」として扱い直す態度に切り替えた。──流石は、近江屋の主人と四十年近く共に歩み、丁稚から番頭まで上がってきた男であった。人を扱う呼吸を心得ている。

 

 お絹は立ったまま、深く頭を下げた。

 

「卯木と申します。お世話になります」

 

 低く、抑えた声だった。仁助は他に誰も居ないのを確かめてから頷く。

 

「うむ。──番頭の仁助という」

 

 短く名乗ってから、更に声を低めた。

 

「……渡辺様からは、お前さんがどのような者かは知らされておらん。私自身、知る必要もないと思うておる。ただ──近江屋を救うため、信じると決めた御方の差配であるならば、私は求められるままに動くだけだ」

 

 仁助は一度言葉を切り、ポツリと言った。

 

「私が気にしておるのは、お富という女中でな」

 

 半年ほど前に口入屋を通じて来た女。仕事はよくやる。お嬢様にもよく仕えている。──だが。

 

「思えば──あの女が来てから、お嬢様の具合が悪くなり始めた。前後が合う」

 

 仁助は顎を引き、細めた視線をお絹に向ける。

 

「表向きには何もない。旦那様は祈祷師を信じ切っておいでで、私が何を申しても、お耳には入らん。このままでは店が潰れてしまう──だからこそ、渡辺様に縋ったのだ」

 

 お絹は再び小さく頷く。仁助はそれで十分と見たようで、それ以上は何も言わなかった。

 

「──まずは、店の者に引き合わせよう。下働きから入ってもらう。何かあれば言ってくれ。多少のことは融通できる。お富のことは追々、お前さんの目で確かめてくれればいい」

 

 仁助はそう言うと、お絹を店の内へと案内したのだった。

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