──ここまでが、お絹が店に入る三日前のこと。場面はその三日後、近江屋の朝に戻る。
竈の火が釜の底を舐め、湯が微かに音を立て始めている。お絹は米を研ぎ、水加減を量った。手先は淀みなく動くが、意識は常に台所の隣、女中部屋の方へ向いている。
足音がした。足が板の間を踏む軽い音──古参の女中だ。五十を過ぎた小柄な女で、朝は誰よりも早い。
「あら、もう火を起こしてくれたのかい」
お絹は小さく頭を下げた。
「……おはようございます」
短い挨拶だけで、他には何も話さない。無口で愛想のない女──古参の女中はそれを「おとなしい娘」として受け止めていた。ただ、女中の視線は朝ごとにお絹の体を確かめるように、流れていた。
初日、お絹が対面した際、女中は「まあ──」と小さく息を呑んだ。背丈を見上げ、しかし細い手首を見て、それから目を逸らした。可哀想に、苦労したのだろう。そう呟きたげな顔で。
高い背丈を奇異と見る者もいれば、病か、あるいは苦労をしたと見て憐れむ者もいる。女中は後者だった。しかしそれは、お絹にとって都合の良いことでもある。
──それでいい。その方がやりやすい。
女中が漬物甕の蓋を開け、糠床を返し始めた。その手つきは何十年も同じことを繰り返してきた者の所作で、速く、無駄がなく、それでいて丁寧だった。
「あんたね」
古参の女中が、糠床を返しながら不意に声を掛けた。
「もう三日になるけど、少しは慣れてきたかい」
「……はい。皆さんによくしていただいて」
「そんなに気を張らなくていいんだよ。──朝はこれだけ早く起きてくれる子だしね、私らも助かってる」
お絹は小さく頭を下げた。女中はそれを見て、ふっと目元を緩める。
「あんた、生まれは江戸かい」
「……いえ。在所は北の方で」
「在所を出てきて、奉公かい。それは難儀だったろう。江戸の水には慣れたかい」
「……はい。少しずつ」
「飯は喉を通るかい?店の飯が口に合わなけりゃ言うんだよ。私が漬物くらいは融通してやれるからね」
女中は糠床から茄子を一本取り出し、井戸水で軽く洗って笊に置いた。それを見ながら、ふと思い出したように顔を上げる。
「──そうだ。あんた、まだ、お嬢様と話したことはなかったね」
「……はい」
「なら、驚く前に耳に入れておこうか」
女中はちらりとお絹を見て、それから手元に視線を戻した。
「あんたみたいな新参の子は、何も知らないでお嬢様に近づいてしまうことがあるからね……で、肝を潰して店から逃げ出しちまう娘もいるんだよ。──先月も一人、それで暇を貰ってった。だから、先に話しておくのさ」
声は低く、しかし淡々としていた。
「お嬢様は気の毒なお人でね。前は、あんなに明るかったのに、半年ほど前から急にね──」
女中は少し口籠もり、しかし、手を止めずに続けた。
「最初はさ、ちょっと寝付きが悪いとか、そんな話だったんだよ。それが、夜中に急に泣き出したり、誰もいない方を指さして『あれ』とか言い出したり……仕舞いには、奇声を上げて物を投げる始末さ。──ご先祖様の祟りだとか、何かが憑いたとか、色々と言われてね」
「……」
「旦那様は祈祷の先生方にすっかりお頼りなさって。まぁ……お嬢様のために何でもなさる御方だから。──あんたも、奥には近づきすぎないようにね。お富が面倒を見てくれているから、私らは茶を運ぶくらいのもんさ。ただし、万一、何か声が聞こえても、聞こえぬ振りをするんだよ。下手に首を突っ込めば、こっちが障りに巻き込まれるかもしれないしね」
お絹は、はい、と低く返した。
古参の女中は糠床を返し終え、甕の蓋を閉じた。桶に溜めた水で手を洗う。それから、ふと付け足すように言った。
「お富は、よくやってくれているよ。気働きのできる娘でね。それに……ほら、あの顔立ちだろ。男どもがそわそわしちまって」
女中が小さく笑った。
「うちみたいな堅い店じゃ、ちょっと珍しいくらいの娘さね。それでいて、お嬢様に尽くしている。だから旦那様もお気に召されたんだろうさ。あんたも見習うんだよ」
その声には、迷いも疑いもなかった。──店の者は皆、お富を信じ切っている。
次の足音。
件の女──おたねと同一視されている『お富』が台所に入ってきた。
「おはようございます。──あら、もうお釜に火が入っているのね。ありがとう」
──穏やかな声だった。
二十代半ばの女。色白の面長で、鼻筋が通り、目元はわずかに切れ上がっている。化粧を施しているわけでもないのに、肌の透ける白さが早朝の薄明かりにも映える。髪は店の習いに合わせて簡素に結い上げているが、他の女中と同じであるからこそ、骨格の良さが際立つ。
──左目の下には、小さな泣き黒子があった。
その一点が、整った顔立ちに僅かな陰の印象を与え、艶を添えている。おおよそ、源一郎の文に記されていた通り。店を変え、名を変えても、顔までは変えられぬ。──しかし、その艶は人相書きには記しようのない本性を示しているように思える。
──お絹はこの三日、お富の動きを目の端で追ってきた。
仕事ぶりは波風を立てない。飯炊きを手伝い、膳を運び、洗い物を済ませ、何事もそつなくこなす。声を荒げることもなく、他の女中の邪魔もしない。古株の女中を立て、新参のお絹にも親しく振る舞う。
古参の女中に向ける「先達に従い、立てる」笑み。お絹に向ける「優しげで親しみのある」笑み。近江屋主人に向ける「従順な奉公人の」笑み。笑みの質は相手ごとに変わる。──だが、目の奥には言い知れない何かがあるように、お絹には感じられた。
§
朝餉の支度が一段落し、お絹は下げ膳を抱えて廊下を戻っていた。
店先の方から、若い手代の声が聞こえた。
「お富さん、悪いね。お茶を一杯だけ、頼めねえか」
「あら、清吉さん。今お煎れしますよ」
「いつもすまねえな」
お富の声が、いつもの落ち着いた調子で返している。手代の方は、声に親しみが滲んでいた。
通り過ぎる折、お絹は店先を一瞥した。手代の青年は二十代半ばほど。お富に向ける目には慕情が混じっている。──気づいているのかいないのか、お富の方は普段と変わらぬ穏やかさで茶を煎れていた。手代の方に視線を向けることなく、急須を傾ける。けれども湯呑みを差し出す時の手つきは、男心を擽るように優しい。
──少しだけ手が触れ合い、手代の頬が薄く赤くなる。
お絹は廊下の角を曲がった。曲がる時、別の手代の小声が聞こえた。
「あいつ、また……」
「まぁ、お富に気があるのは、何も清吉だけじゃねえ。俺だって機会がありゃ、懇ろな仲になりてぇ」
「お富さんも、罪な人だよな」
笑い声が小さく上がった。──店の中で、お富は誰からも好かれている。それは、お富が「人に好かれる方法を熟知して」いるからだとお絹は思った。
帳場の方では、番頭の仁助が算盤を弾いている。指の運びは早く、小僧に短い指示を飛ばす声には張りがあった。表通りに面した店先には品を求める客が一人、二人と立ち寄り、応対する手代の声も明るい。──近江屋は、京橋に店を構える紙問屋として活気を保っていた。商売そのものに陰りはない。
だが──。
その活気を一枚剥がした底に、別の顔があるのを、お絹は三日で感じ取っていた。
たとえば、奉公人の誰もが「店奥」の方角に視線を向けない。お美乃の座敷のある方──廊下の突き当たり、襖の閉ざされた一画。茶を運ぶ時、何かの折に廊下を行き来する時、ほとんどの者は不自然なほどそちらに目を向けない。まるで、視界に入れないことで障りを避けるかのように──。
夜中、奇声が聞こえてきた折にも、奉公人達は耳を貸さぬ素振りをする。誰も「お嬢様のお声では」とは言わない。聞こえぬ振りをして遣り過ごすのが、この店の暗黙の了解になっている。
活気はある。商いは回っている。だが、店の真ん中には触れてはならぬケガレがあって、皆がそのケガレに近づかぬよう、そろそろと歩いている。──そういう緊張感と不安感のある空気だった。