鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百十四話

 そのお富がどのようにして娘付きになったのか──お絹は既に、おおよその輪郭を掴んでいた。

 

 古参の女中のこぼした話と、台所での立ち話から繋ぎ合わせた。

 

 お富が口入屋を通じて近江屋に入ったのは半年前──近江屋娘の障りが出始める少し前のことだ。最初は飯炊き女として入った。控え目で、仕事をそつなくこなし、容姿もあって三月ほどで店の者の信頼を得た。

 

 しかし、ちょうどその頃から、娘の障りが始まった。最初の発作で奥の座敷が騒ぎになり、周囲が慌てふためく中、お富が暴れる娘を冷静に宥めて見せた。時に狂乱するようになってしまった娘の世話をする者が要る──。それに店の主人は娘の醜態を店の外に出したくなかった。そこで、主人はまだ新参ではあるが度胸があり、気働きの出来るお富を抜擢した──。

 

 お絹からしてみれば、至極胡散臭い話でしかなかったが──。

 

 お富自身が娘に何かをしたという噂話は聞こえない。ただ、流れの中で最も都合のよい位置にいたのは確かだった。

 

 §

 

 朝餉の膳が奥の座敷へ運ばれていく。

 

 店の主人、庄左衛門は白髪混じりの好々爺である。六十近い男。十年前に奥方を亡くしてからは、一人娘のお美乃を目に入れても痛くないほどに溺愛している。一方、店の商いでは手堅く、判断に迷いはない。──しかし娘のこととなると途端に別人になる。娘が苦しむ姿に耐えられぬ、親心の為せるところ。だからこそ、祈祷師の言葉にのめり込んでしまったのであろう。

 

 お絹は膳を運ぶ折に、座敷の奥を見た。

 

 一人娘の、お美乃がいた。歳は十七。色白で、儚げな面差し。膳の前に座っているが、箸を取る手は緩慢だった。

 

 ──目を見た。

 

 瞳孔が散大している。朝の座敷は障子越しの柔い光に満ちていたが、その光ですら眩しく映っているのだろう──お美乃は時折、顔を俯けて目を細めていた。その度に睫が震え、眉根に微かな皺が寄る。瞼を伏せている時間が明らかに長い。

 

 箸先がおかずの端を掠めるだけで口に運ぶまでに至らない。

 

 茶碗の飯は半分も減っていなかった。味噌汁にはほとんど口をつけていない。庄左衛門が「少しでもお食べ」と案じると、お美乃は薄く笑い、「ええ、あまり食が進まなくて」と答えた。声に力はなかった。

 

 膳を下げる折、お絹はお美乃の湯呑みに目を落とした。茶の色は番茶に見える。──だが、お美乃専用の急須は別に分けられてあったのをお絹は確認した。

 

 ──昼過ぎ、客足が途絶える刻限。

 

 お富が奥の間に向かうのを、お絹は廊下の陰から見ていた。盆に茶と菓子を載せている。お美乃の世話は、お富が一手に担っていた。食事、茶、寝所の掃除まで──お美乃に最も近い位置にいる女中。

 

 襖が閉まる。

 

 お絹は動かなかった。陰に立ち、息を止め、耳だけを澄ませた。

 

 お富の声が聞こえてくる──。

 

「お嬢様、お茶をお持ちしました。お加減はいかがですか」

 

 ──低く、密やかな声。

 

 台所で他の女中に向けていた快活な声でも、店先で手代に返していた穏やかな声でもない。この座敷の中だけで使う、別の声だった。年上の姉が妹に寄り添うような、しかしその寄り添い方が、いかにも親密さを演出するようで。心を引き寄せようとする意図が感じられて不気味だった。

 

 お美乃の返事は小さく、聞き取れなかった。しかし、お富の声は続いた。

 

「……昨夜も、お眠りになれませんでしたか」

 

 間があった。

 

「お可哀想に。障りは、お嬢様ご自身のせいではございませんよ。ご先祖様からの、深い深い因縁でございますから。──巫女様も仰っていましたでしょう。あれは、お嬢様のお体を通して、周囲に報せたがっているものなのだと」

 

 お絹は陰で、息を殺したまま聞いた。

 

「お嬢様がお苦しみになるのは、ご先祖様の念がお嬢様を選んでお出ましになるからでございます。お嬢様が悪いのではございません。ただ……このまま放っておいて、障りがもっと深いところに届かないかと私も心配しております……行者様が仰っていたのを、お嬢様もお聞きになりましたでしょう。『財を清めねば、娘御の命に及ぶ』と」

 

 お美乃の声が、微かに震えた。聞き取れぬほど小さな声で、何かを言った。

 

「大丈夫でございますよ。行者様と巫女様がいらっしゃる限り、お嬢様はお守りされます。それに旦那様も、これだけお嬢様のために尽くしておいでです。──ただ、お嬢様は行者様と巫女様、旦那様だけをお信じになってくださいませ。医者などヤブばかりなのですから……きっと行者様と巫女様が救ってくださいます」

 

 ──お絹の背筋に、冷たいものが走った。

 

 ただ、だけ、という言葉。それは、行者と巫女以外を信じるなという意味だ。父を除けば、店の者は誰も信じるな。古参の奉公人でも、本来頼るべき医者でも──。そう言っている。

 

「お嬢様のご回復を邪魔しようとする者が、店の中にもおるかも知れません。巫女様も仰っていましたよ。『疑いの心を持つ者が近くにおれば、障りは深まる』と。──お嬢様は、何も不安に思わず、行者様と巫女様に身をお任せになってください。わたくしが確とお取り次ぎいたしますからね」

 

 お美乃は何も答えなかった。ただ、微かに啜り泣く声が漏れた。

 

 ──囲い込み。

 

 お絹の中で、確信が深まる。お富は薬を盛るだけの引き込み役ではない。お美乃の世界を狭め、外の声を遮り、行者と巫女だけが救いだと信じ込ませる。その役もまた、お富が担っている。

 

 主人が祈祷師を信じ切っているのと同じ構造を、娘の方にも作り上げつつあるのだ。

 

 やがてお富が部屋から出てきた。襖を静かに閉め、廊下を戻ってくる。

 

 お絹は既にその場にいなかった。台所に戻り、何事もなかったかのように竈の灰を掻いている。お富が通り過ぎた時も、視線を上げなかった。

 

 ──だが、お富が通った後に微かに匂いがした。青臭いような、薬種のような、乾いた草の残り香が。

 

 §

 

 夜──女中部屋。

 

 布団の中で、お絹は目を開けていた。

 

 天井の木目が見える。灯りのない暗い部屋のはずだが、お絹にはそれほど暗くない。子供の頃からそうだった。暗い場所を怖いと思ったことがないし、月のない夜でも夜目が効く。

 

 自分は生来そういう体質なのだと思ってきた。ただ──近頃では猫神の恩恵なのではないかと、そう思い始めていた。

 

 同室の者たちの寝息を聞き分ける。女中たちの深い呼吸。そして──お富の浅い呼吸。

 

 お富は入り口の一番近くに布団を取っていた。出入口から最も近く、誰かが入ってきたらすぐに分かり、そして、夜に部屋を抜け出しやすい位置──。

 

 ──口では夜中に厠に行くからと言うが……あれは、他に意図を持っているのだろう。

 

 昔からの癖ともなっている記憶法──お絹は布団の中で、頭の中の帳面を開いた。三日で集めた断片を、幼い頃から叩き込まれた手順に従って並べていく。──人物、関係、動き。それぞれの項目を配置し、相互の繋がりを線で結ぶ。

 

 『お富』

 

 二十代半ば。色白面長、左目の下に泣き黒子。半年前、口入屋を通じて入店。下働きから三月で娘付きへ昇格。お美乃の食事と茶を一手に担う。寝床は女中部屋の入り口側──夜間の出入りに適した位置取り。衣服から微かに薬種の匂い。笑みを相手別に使い分け、目の奥の温度は変わらず。座敷で見せる「囲い込み」の声。──おたねと顔貌が一致。同一人物との確度、ほぼ確実。

 

 『庄左衛門』

 

 六十前後。妻に先立たれ、娘を溺愛。商いの判断は手堅いが、娘の件では祈祷師の言を疑わない。財を清めるためと言われれば容易く喜捨に応じる。──騙る側にとっては、これ以上ない上得意。

 

 『お美乃』

 

 十七。瞳孔散大、食欲不振、明るさを忌避。半年前から発作。お富がその直前に入っている。お美乃自身は祈祷師と父、お富以外の声を遮断されつつある。──薬と囲い込みの二重がかりで、抵抗の余地を奪われている段階。

 

 『古参の女中、他の奉公人』

 

 お富を信頼。表向きの仕事ぶりに不審なし。奥の座敷から聞こえてくる声には耳を塞ぎ、視線も流さぬよう徹底。引き込み役にとっては動きやすく、疑われにくい、これ以上ない環境。

 

 『番頭仁助』

 

 主人より一段下から店を回している。お富を疑っているが、主人に進言しても聞き入れて貰えない立場。

 

 『手代、丁稚』

 

 お富に好意を寄せる者多数。お富の印象を店内に伝える役を、知らずに担わされている可能性。──他、手代の誰かが情に絆され、「お富のために」内通する可能性も視野に入れるべし。

 

 『祈祷師の出入り』

 

 修験者と巫女の組。お富を経由して娘の症状を作り出し、祈祷で「治した」体裁を取る。──お富は店内側の手駒。外の二人と必ず接触する筋がある。

 

 配置した各項目を線で結ぶ。

 

 お富から漂う薬種の匂い──お美乃の症状──祈祷師への依存──祈祷による多額の喜捨──番頭の讒言への反発──離間工作と孤立化。

 

 お美乃の不安──お富の甘言──囲い込み──お美乃の判断停止──お富への依存の深化──言いなり状態へ。

 

 お富の容姿──男衆の好意──店内での観察眼の麻痺──お美乃の世話役──誰もお富に口出し出来ない状況。

 

 明らかに手慣れた犯行に他ならない。

 

 手順に従えば、次に確かめるべきは「外との繋ぎ」だ。お富は必ずどこかで、外の修験者、巫女と連絡を取る。買い出しか、あるいは夜半に女中部屋を抜け出すか。

 

 ちょうど明日、仁助がお富に買い出しを頼むと聞いていた。お富が店を離れている間に女中部屋を調べ、薬の在処を突き止めなければならない。並行して、お富の外出時に誰と接触するかを掴む役は、店の外側に張り付いている、あの男の手の者がやってくれる手筈だ。

 

 左目の下の泣き黒子は、加賀屋の「おたね」のそれと同じ位置にあった。店を変え、名を変えても、顔の形までは変えられぬ。──お富は、おたねだと確信した。薬を確認次第、店外の繋ぎに報せを出す必要がある。

 

 ──店の中の状況は把握し始めている。だが、まだ証拠確保には至らない。

 

 布団の脇に、アカがいた──。暗がりの中で赤い毛並みの大きな猫が丸くなっている。金色の目が仄かに光っていた。この店に入ってから、アカの耳がよく動く。何かを警戒しているのか、それとも何かを聞き取っているのか──。

 

 お絹はアカの背に手を置いた。柔らかな感触。赤い毛が指の間を流れた。

 

 目を閉じる。明日に備えて眠らねばならない。

 

 闇の中で細く、猫の金色の目がお絹の姿を捉えていた。

 

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