──翌朝。
お絹が竈の前で薪をくべていると、台所の方に番頭の仁助が顔を出した。前掛け姿のまま、帳場から出てきた様子だった。
「お富、お前は気が利くから頼むんだがね。今日の内に樟脳を五包みばかり買ってきておくれ。日本橋のいつもの薬種問屋でいい。蔵の防虫の利きが弱くなってきたのでね」
「へぇ、承知しました」
「それじゃあ、頼んだよ」
仁助は短く言い、それ以上は何も付け加えず帳場に戻った。指図する声に緊張や違和感はない。──昨夜、お絹から仁助に話を通し、それとなく不在の時間を作る手筈となっていた。
──お絹は背後の会話に反応することなく、竈の火を見つめたまま、薪をもう一本くべた。
樟脳は紙問屋の蔵には欠かせぬ品。紙を保管するのに虫がつかないようにするためのものだ。急な買い足しの理由としても特に不自然ではない。
日々の食料品の買い出しだけならば、さして時間はかからないだろう。しかし、樟脳を買いに日本橋の店にまで伺うとなると、帰るまでにそれなりの時間を確保できることになる。つまり、お絹はその間に物調べをする算段であった。
朝餉の支度。お富は淀みなく包丁を握る手を動かし続けている。その表情に不審に思う色は何一つない。
──そして、時は過ぎて四つ。およそ午前十時頃のことだ。
「お富、番頭さんから頼まれ事があったろう。日が上りきらならないうちに行っておいで。昼餉の支度が忙しくなる前に戻ってきておくれよ」
「へぇ、それもそうでございますね」
古参の女中が鍋から目を上げて声を掛けた。お富は前掛けを外し、髪の鬢を少し整えてから裏口に立った。その手には畳まれた風呂敷包みが一つ携えられている。
「では、急ぎ行ってまいりますので後はよろしくお願いします」
「気をつけるんだよ」
それはちょうど、お絹が店の裏にある井戸端で洗濯をしていた頃だった。釣瓶を引き上げ、桶に水を移す。灰汁に漬けて洗濯物を擦り洗い、水で洗い流しつつ、一度、二度と繰り返す。他にも──井戸の周りでは裏長屋の女房が二人、手を止めて噂話に興じてもいる。
「だからさ、あの長屋の三軒目の……」
「あらやだ、そうだったの──」
その少し離れた位置では隣近所の店の若い女中がお絹と同じように洗濯物を洗っていた。皆、互いに気を留める風でもなく、姦しく話しながらも各々の仕事に手を動かしている。
そこへ、お富が店の戸口から出てきた。
「ご苦労様。卯木さん。私、買い出しに行ってくるから。後はお願いね」
「……はい。お気をつけて」
短い言葉を交わし、お富が裏路地から表通りの方へ歩き去ってゆく。その際……お絹の目が表通りの向こうを捉えた。
──近江屋の向かい。蕎麦屋の入り口近くに座る、一人の男。浪人風の丸顔の男が蕎麦を啜っていた。お富が路地から表通りに出た瞬間、男は箸を置き、暖簾をくぐって立ち上がる。手に取った笠を素早く被ると、お富の後を付かず離れずつけてゆく。手慣れた間合いだった。
蕎麦屋の隣、米屋の軒先にも別の男がいた。行商人風の男で、商売道具らしい背負い箪笥を傍らに置き、煙管を吹かしている。──こちらも押っ取り刀で立ち上がると、少し離れて二人の後を追い始めた。
──あれがあの男の手の者か。
お絹はそれだけ確かめると、視線を戻し、洗濯物と桶を抱えて裏口へと歩き出したのだった。
§
半刻──およそ一時間。
それが、お絹に与えられた時間だった。
台所に戻ると、古参の女中は昼餉の支度を早めに始めていた。葱を刻み、油揚げを薄く切って笊に並べている。昼餉の汁物の支度だろう。傍では若い女中が膳を拭き、別の一人は土間で小僧に何か言いつけて魚河岸の方へ走らせていた。
──昼餉前の台所は、誰もが手を止める間もない。
「少し、女中部屋の片付けをしてまいります」
そう言って、こっそりとその場を抜け出す。お絹は流しの脇に置かれていた炊き付け用の薪を一つ手に取り、袂に忍ばせた。先ほど選別しておいた細く尖った木片。
──台所にほど近い場所にある女中部屋は、六畳ほどの畳部屋で五人分の寝具が壁際に畳んである。
行灯が一つ。衣紋掛けが二本。壁際に各自の行李が並んでいた。窓は小さく、裏庭に面している。部屋の中は昼でも薄暗い。
お絹は部屋に入ると、襖をきっちり閉めた。それから袂の木片を取り出し、襖の溝の隅に噛ませる。外から押し開けようとしても、すぐには動かぬ程度の細工。──万が一、誰かが部屋に入ろうとしても、木片が引っかかって一拍の間が生まれる。お絹はその間に体勢を整え、何食わぬ顔で襖を開ければよい。
物調べの最中に荷物を漁っている場面を見られれば、全てがご破算となる。──万が一の取り繕う時間を稼ぐ細工は、しておいて損はないだろう。
──さて、まずは……
お富の行李。入り口に最も近い位置に置かれた、藤で編まれた古びた籠。蓋を開ける。中身は着替えの襦袢、手拭い、鬢付け油、化粧道具、小さな鏡。女中の持ち物としては至って普通。蓋を閉じ、元の位置に戻す。
次に、畳んだ布団──大夜着。お富の布団は行李の傍に重ねてある。持ち上げると袂を調べ、襟をなぞり探る。隠されているものは何もない。
布団の上──漆塗りの何の変哲もない箱枕に手を掛ける。台座に引き出しが一つ付いた、よくある型だ。引き出しを開ける。中には櫛、椿油の小瓶、紙縒りの束、それと小さな御守袋。他には何も収められている様子はない。引き出しを閉じ、箱枕を元の位置に戻した。
残る所──衣紋掛け、壁、天井、床。定石となる箇所を一通り辿る。長押の上を指でなぞる、畳の隙間を確認する、衣紋掛けの着物を弄る……どこを探しても何も出ない。
丁寧に、かつ素早く探索を進める。ここまでで、既に四半刻近くが過ぎようとしていた。
──ない。
お絹は部屋の真ん中に立ち、小さく息を吐いた。一通りを探って何も出ない。隠し方が巧いのか、そもそも女中部屋には置いていないのか。
──まさか、台所か。あるいは、薬はお富が常に持ち歩いているのか。
焦りが胸の底に滲み、お絹が親指の爪を噛む。残された時間はもう四半刻。それを過ぎれば、お富が戻ってくる。しかし──このまま手ぶらで退散するわけにはいかない。
その時──。
視界の端で、ゆらりと赤い影が過った。
アカだった。気づけば部屋の隅に座っている。金色の目がお絹を一瞥し、それから──尾を二つ、ゆらゆらと揺らしながら、ゆっくりと布団の方へ歩いていった。
お絹がそのまま黙って見守っていると、アカは身軽な動きで布団の上に飛び乗り、ぐるりと箱枕の周囲を回る。まるで寝床を確かめるような仕草。そして、酷く邪魔臭そうな顔をして、布団の上の箱枕を後ろ足で蹴飛ばした。
──箱枕が布団の上から弾き落とされる。
ごとり、と重い音を立てて畳に転がった。引き出しが衝撃で半分ほど飛び出し、中の物がぱらぱらと畳に散らばる。櫛、椿油の小瓶、紙縒りの束、そして──小さな御守袋。
思いも寄らぬ大きな物音に、お絹は緊張で息を詰めた。
──アカ、何を……
大きな赤毛の猫は何食わぬ顔。気にもとめずに布団の上で香箱を組んでいる。その金色の目は細く閉じられていた。
お絹が素早く膝をつき、襖の向こうの気配を確かめる。女中たちの動きに変わりはない。鍋の音、刻む音は変わらず台所から響いていた。気づかれていないようだ。
──散らばった物を拾い集めようとして、手が止まった。
御守袋が緩み半ば開いている。中身が僅かに覗いていた。中身は小さな木札のようだ。
お絹はそれを摘み上げた。親指ほどの大きさの木札。表に墨書きで書いてあるのは……
『仙元大菩薩』
仙元大菩薩──富士講の本尊。お富が富士講の信者である可能性が高まった。あるいはそれは、富士講に関わる者から渡された御守なのか。
お絹の頭の中で、別の糸が一本繋がる。──御庭番にとっても富士講というのは重要な監視対象となっているのだ。その思想が幕政体制批判に結びつくことを警戒していることもあるが──密偵として働く中で、講に絡む不審な動きを耳にしたこともあった。
曰く、富士講の中に紛れ込み、信心を隠れ蓑にして悪事を働く者があると。講は無数にあり信者も多いため、手を入れたくともキリがない。ともすれば──お富が単なる引き込み役ではなく、その背後と繋がっている可能性すらある。
──しかし、今は深掘りしている時ではない。
御守袋に木札を戻し、紐を元通りに結ぶ。散らばった物を拾い集め、引き出しに戻そうとして──箱枕を持ち上げた瞬間、お絹は手の中で違和感を覚えた。