──引き出しの深さが外寸と合っていない。
中身の入っていた時は何の疑いも持たなかった。だが今、中身がほとんど飛び出した状態で観察すると、内寸が合わないことが分かる。
お絹は引き出しを完全に抜き取り、ひっくり返した。
底板を指で軽く叩く。乾いた、空洞があると示す音。底板の縁を指の腹で慎重に辿った──角の一箇所に、爪が掛かる僅かな窪みがある。
──二重底。
指先に力を込め、爪を窪みに差し入れて、そっと持ち上げる。薄い底板がカタリ、と外れた。
底板の下には本当の底板。二枚板の僅かな空間に──二種類の油紙に包まれた小さな包みが、計五つ並んでいた。
一つを取り出し、油紙を開く。中には更に紙の薬包が重なっている。
その薬包の一つを開いた。──茶褐色の粉末。乾燥した根茎をすり潰した生薬だろうか。鼻を近づけると、土臭い、どこか甘みを含んだ独特の匂いがする。
──見た目だけでは、薬の正体はわからない。
しかし、お美乃の症状から逆算するのであれば、薬物の見当は大凡つく。兄ほど詳しくはないが、密偵の務めの中で薬物の見分けは最低限の心得として叩き込まれている。錯乱させ、幻覚を呼ぶ。意識を朦朧とさせ、心を操る土台とする。瞳孔を散大させる効果があるとすれば……
──曼荼羅華もしくはハシリドコロが、お美乃の症状と一致する。
もう一つの包みを開いた。緑褐色の、僅かに粘りのある粉末。乾燥させた植物体を細かく砕いたものであろう。青臭い匂いに、仄甘い香りが混じっている。此方はもっと特徴的だ。
──麻の花穂、か。
阿呆薬の原料とも言われ、煎じれば気が昂ぶり、多幸感、前後の記憶が曖昧になる。興奮、陶酔と健忘。多用することで幻覚を見ることもある。──前者で錯乱を起こし、後者で興奮、陶酔、健忘を引き起こす。二つを組み合わせれば、憑き物が出たように見せかけることも可能だろう。
ただし、これら植物の粉末を見て嗅いだだけで本草の正体を独り断ずるのは早計。似た色味の薬は他にもある。最後の見立ては、薬種に通じる兄か、あの男の手の者による同定に委ねる他ない。
五つの包み。一つが一回分だとすれば、五回分の薬が手元にある。二種類の内、片方が偶数なのは既に使用されたせいなのか──。
お絹は襟の内側から懐紙を二枚取り出した。
茶褐色の粉末から、まずほんの一摘。指の腹に乗る程度の量を懐紙の上に落とす。お富が次に薬包を開けた折に「明らかに目減りしている」と気づかぬ程度の量。──お絹は二つある茶褐色の方からごく僅かずつ採取し、一枚の懐紙にまとめると四方を折り畳んで小さく封じる。
もう一枚の懐紙にも、三つある緑褐色の粉末を同じ要領で。
折り畳んだ二枚の懐紙を襟の内側に深く差し入れる。落とすことのないよう、しっかりと挟み込む。
──これを外の繋ぎに渡す。
粉末そのものが手元にあれば、外で正体を確かめられる。お富の持つ薬とお美乃の症状の繋がりの証拠ともなるだろう。
それから、お絹は開いた薬包を元通りに包み直した。粉末を採取した形跡が残らぬよう、油紙の折り目も慎重に揃える。
五つの包みを同じ並びで二重底の中に戻し、薄板を嵌めた。引き出しに櫛、椿油、紙縒り、御守袋を元の位置に収める。並びの順序、紐の結び目の向き──全て最初に見た通りに戻してから箱枕を布団の上に戻すと、アカがまた邪魔臭そうに箱枕を見やった。
──立ち上がる。
部屋全体を見回した。何も変わっていない。入った時と同じ状態。布団も行李の位置も、箱枕の置き方も。
襖の溝に噛ませた木片を抜き取り、袂に戻す。襖を音もなく開け、廊下の左右を確かめてから外に出る。後ろ手で襖を閉じた。
箒を手に、女中部屋を後にする。さも、掃除を終えたという体で──。
その部屋の中では、アカが眠っている。喉の奥から、低いゴロゴロという音を鳴らし──その音は、気のせいか満足げにも聞こえた。
§
台所に戻ると、古参の女中は変わらず鍋の番をしていた。傍では若い女中が小鉢を並べ、別の一人は膳を運んでいる。──皆、各々の仕事で手一杯。お絹が姿を消していたことに目を留める者はいない。
「──ちょいとアンタ、いいところに。この大根の葉を刻んでおくれよ」
「はい」
声を掛けられ、お絹は手を洗い、包丁を取った。菜っ葉を刻みながら、頭の中では別の筋道を辿っている。
──薬と思しきもの、富士講の御守袋を確認した。次に為すべきは、この事実を外に伝えること。
あの男からの報せでは、裏戸口の脇に箒を毛先が上になるよう立て掛けた上で、とある細工をすることになっていた。それが「薬の在処を確認」、そして「招かれざる者」、つまり引き込み役を確認したとの合図。火盗改がその合図を確認次第、繋ぎがお絹に接触してくる手筈になっている。
根菜を刻む包丁の音が、小気味良く台所に響く──。
「おや、瓶の水が少なくなってるね。誰か汲んできておくれ」
「──はい、私が」
お絹は包丁を置くと桶を手に取り、井戸端へ向かった。
裏戸口をくぐり抜け、井戸の脇まで歩くと桶を縁に置く。視界の端で裏戸口の脇に立てかけられた竹箒を認めた。丁稚が片付け忘れたのか──竹箒は柄を上、毛先を下にしたままであった。
路地の井戸では先ほどの裏長屋の女房は既に去り、別の老婆が桶を洗っていた。少し離れた位置で野良犬が日向に寝そべっている。──こちらに気を留める者は誰もいない。
お絹は釣瓶を下ろし、水を汲んだ。一度桶に水を移し、また釣瓶を下ろす。──二度の汲み上げを終え桶を満たすと、何気ない様子で裏戸口に近づいた。
箒を確認するように手に取る。一度、毛先を地面に向けて戸口周りを軽く払う仕草を見せ──それから、向きを上下に返した。柄が下、毛先が上。逆さにし、壁に立てかけ直す。
それだけに留まらない。加えて、自身の手拭いを箒の毛先に被せ結んだ。それはまるで箒を人に見立てた頬っ被りのように。
箒神の習俗──。傍目には女が箒の向きを逆さに置いて悪戯しただけの動きだが、それには実は意味がある。つまりは、家の中から悪いものを掃き出すというお呪いであり、魔除けの意味合い。願掛けを兼ねた、あの男への合図であった。
そうして──お絹は箒の前で一つ静かに手を合わせると、水の入った桶を抱え、足早に台所へと戻っていったのだった。
§
お富が帰ってきたのは、それからさほど時の経たない内だった。お富が風呂敷包みを抱え、裏戸口から顔を覗かせる。
「ただいま戻りました」
「おや、おかえり。道草でも食ってくるのかと思ったのだけど、案外早かったね。さ、買ってきた樟脳は早く番頭さんに渡しておいで」
「はい」
お富は風呂敷を解き、樟脳の包みを五つ取り出すと帳場の方へ歩いていく。
「──頼まれました樟脳、五包みです」
「──確かに。ご苦労だったね」
仁助との短いやり取りの声が聞こえる。すぐにお富は台所に戻ってきた。
隅に避けてあった前掛けを締め直し、買い出しの疲れも見せることなく昼の支度に加わる。出汁の鍋を覗き、葱の切り方を改め、笊の油揚げを鍋に移す。台所の光景にすぐ馴染み溶け込んだ。
お富は外で、繋ぎと渡りをつけたのであろうか──。であれば、近く次の発作の段取りを受けてきた筈。あの箱枕に隠した薬を使えと。
いつ仕込むか。今晩か、明日の朝か。それとももっと後か──分からないが、それを止めることは出来ない。証拠の在処は掴んであるが……動く時分を決めるのは、あの男の役目だ。
お絹に出来るのは、この店の中に潜み、目となり耳となること。兄からも、あの男の差配に従うように言われているのだから。
──菜っ葉を刻み終える。手を洗い、前掛けで拭くと立ち上がる。
襟の内側に忍ばせた薬包──この粉末が、お富の罪と祈祷師との関連を示す証。
お絹が外の繋ぎ役と顔を合わせるのは、いつになるか──。今日か。明日か。そう遅くはないだろうが、火盗改の手の者がいつ動くかは、お絹の側からは判然としない。ただし、その間も店の中の動きは目に焼き付けておく。お富の動向、お美乃の容態、祈祷師の噂──全てを記憶に留め、繋ぎ役に伝える備えをしておかねばならない。
台所には葱と油揚げの味噌汁の匂いが漂う──。鍋の蓋から白い湯気が漏れ、お富が「美味しそうな、いい匂い」と呟いた。表面上は普段と何一つ変わらぬ昼餉前の台所。
人とは分からないものだ。お富は一見して、悪事を働くような女には見えない。もしかしたらそれも、何か事情があるのかもしれない。しかし──罪は罪。幾ら人の良い顔をしていようとも、内面のことなど誰にも分かりはしないのは変えようのない事実。
──悪人が悪人面をしているとは限らない。
それがお役目を通して、お絹が今までに得た教訓。
小さく溜息を一つ。お絹は今一度前掛けを締め直し……次の仕事に手をつけたのだった。