鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百十七話

 ──翌日の昼下がり。

 

 台所は昼餉の片付けの最中だった。古参の女中が鍋を洗い、若い女中が片付けた膳を拭いている。お富は奥の座敷にお美乃の茶を運びに行っていた。

 

 ──合図を出してから、ほぼ丸一日が経つ。

 

 繋ぎがいつ来るかは分からない。合図を捉えるのに時間が掛かることもある。箒の細工に火盗改の見張りが気づき、それがあの男の元に伝わって、繋ぎ役が動き出す。あの男のことだ、そう長くは待たないだろうが──気はどうしても急いてしまう。

 

 ──他の女中たちの目を盗み、裏戸口から抜け出す。

 

 裏路地は静かだった。長屋の暮らしは楽ではない。裏長屋の女房たちは内職に勤しんでいるのか井戸端には誰もいなかった。──お絹が呆としていると、路地の向こうから声が聞こえて来る。

 

「らうーっ、らうやぁーっ。らうの挿げ替え、煙管の掃除ぃーっ」

 

 路地の角を曲がって、一人の男が現れた。背には道具の詰まった箪笥を背負い、商品なのか腰には煙管差しを幾つもぶら下げている。四十前後の、がっしりした体躯。顔には古傷、太い眉、無精髭。──目元は柔和でありながら、周囲を油断なく観察していた。

 

 男は井戸端まで来ると、やおら背負い箪笥を下ろした。一休みする素振りをしながら、お絹の方を見る。

 

「ちょいと姐さん。煙管のお掃除はいかがでさぁ。羅宇がヤニで詰まってちゃあ、いい煙は吸えやしませんぜ」

 

 お絹がその男を見る。

 

「……煙管は嗜みませんので」

「なんだい、そりゃ珍しい。この江戸で煙管を嗜まない奴さんがいるたぁ、飛脚の転倒、相撲の泣き、女中の不平ってもんだぜ」

「……知りませんけど、煙で鼻が馬鹿になるので」

「そうかい」

 

 男はクツクツと笑うと、声を潜めた。

 

「渡辺の若旦那から聞いてるぜ。あっしは熊造ってんだ。──箒の合図を見てな。若旦那から店に入れた密偵と渡りをつけてこいって言われてよ。で──どうだい。薬の在処は見つけたかい」

 

 お絹は黙って頷いた。それから一度、裏戸口と路地の左右を確かめる。人影はない。静かに襟の内側に手を入れ、折り畳んだ懐紙を二枚取り出した。

 

「……これが採取した薬の粉末。恐らく──片方が曼荼羅華かハシリドコロ、もう片方が麻の花穂。ただし見て嗅いだだけの推定。確認はそちらでして」

「曼荼羅華にハシリドコロ……それに麻?ありゃあ、薬になるのかい」

「……阿呆薬」

「へぇ……そりゃ、妙な名前の薬なこって」

 

 熊造は懐紙を受け取り、箪笥の底に素早く滑り込ませた。

 

「だがまぁ、合点だ。こいつはあっしが確かに若旦那に届ける。どこに隠してあった?」

「箱枕の引き出し。その二重底に。包みは五つ。一つが一回分と思われる」

「箱枕の二重底。五包み、と。やるな、姐さん。よく調べられたもんだ」

「それと、御守袋を見つけた。中には仙元大菩薩の木札があった」

「どっかの富士講の講員だってことか……」

 

 熊造が顎を撫でた。それからしたり顔で頷く。

 

「……分かった。それも併せて伝える。──他に何か伝えることはあるかい」

「お富は加賀屋にいた『おたね』と見て間違いないと思う。泣き黒子も確認済み。それに奉公人としての振る舞いも手慣れている。娘──お美乃の世話は、あのお富が一手に担っている」

「そいつぁ……」

「そう──いつでも薬で障りを引き起こすことができる。それに、既にお美乃は薬のせいで判断力が弱っている。お富が外の声を遮断して、祈祷師以外を信じるなと囲い込んでいるせい」

「……既に言いなりになりかけてるってことかい」

 

 熊造は煙管差しの一つを手に取り、品定めする素振りをしながら声を更に落とした。

 

「──姐さん。こっちからも一つ。昨日、お富が買い出しに出た折、手の者が後をつけた。お富は帰り道で繋ぎ役と接触している。短い立ち話程度だが──接触したのは修験者でも巫女でもない、別の男だった。此奴の正体がな──なんと盗人らしい。密偵の一人が顔を見たことがあると言った。それで、そいつの塒も把握済みだ」

「……」

「近くお嬢さんに薬を盛る段取りの指示を受けた筈だ。──気をつけな。そろそろ詐欺の奴らが出張ってくるんだろうよ。まずは詐欺の対処が先だが……御用改めの日も近いと思ってくんな」

 

 お絹は短く頷いた。

 

 熊造は煙管差しを腰に戻し、改めてお絹を見た。古傷のある顔に、ふっと笑みが浮かぶ。

 

「──しかし、若旦那も隅に置けねえお人だ。こんな別嬪の姐さんを危険な立場の密偵に仕立てるたァな」

 

 お絹が怪訝そうに眉尻を上げる。

 

「別に……慣れてるので。それに別嬪って柄じゃありません」

「いやいや。背ェは高えが、腰は細ェし、顔立ちも悪くねぇ。アンタ、実は若旦那のこれか?──よほど深ぇ仲か恩がなきゃ、火盗改の戌なんざやりたがらねぇだろ。旦那にゃあ、まだ若ぇのに女遊びもしねぇ真面目な男だと思っていたが」

 

 そう言って、立てていた小指を仕舞う。お絹の顔に映るのは困惑の色だろうか。

 

「なにを言って……」

「冗談だよ、冗談。あんた──赤坂山王さんに入った盗賊の一人だろ?賊は全員死んだと話には聞いていたが……まぁ、何で此処にいるのかは、何か事情があるんだろう。しかし、あん時ぁ、捕まえて驚いたもんだぜ。まさか女だとは思わなかったからな」

 

 お絹の眉が僅かに動いた。あの夜──山王祭の盗賊捕縛。あの時は男装で弓を引いていた。この男に顔を見られていたとは。

 

「……よく覚えていますね」

「昔っから、人の顔を覚えるのは得意でね──」

 

 熊造はにやりと笑った。

 

「だがな姐さん。一つだけ年寄りの忠告だ。──若旦那は妙に甘くてお優しい人でな。あの男の周りにゃ、惚れた女が目を光らしてやがる。……心当たりがないってなら余計なお世話だが、辛ぇ想いをしたくねぇなら惚れるんじゃねえぞぉ。色男は色男でも、ありゃ朴念仁の皮被った女殺しだからな」

 

 お絹は怪訝な目を熊造に向けた。

 

「……いったい何の話ですか」

「いやなに、老婆心ってやつさ。男と女にゃあ、何が起こるかわからねぇってね。──心当たりがないってなら気にしなさんな」

 

 お絹は答えなかった。答える必要がなかったからだ。

 

 ──女殺し。

 

 馬鹿馬鹿しい。あの男の顔を思い浮かべたが、何の感慨も湧かない。牢の中に一人でやってきては、勝手に話して帰っていった、不思議な男というだけだ。……確かに恩人ではある。兄が信頼を置く相手でもある。だが、だから何だというのか。

 

 幼い頃から御庭番の密偵として生きてきた。猫憑きの障りのせいで、普通の武家の娘のような暮らしは出来なかった。──女子としての情など、とうの昔に捨てている。いや、捨てたのではない。最初から持つことを許されなかった。

 

「次の繋ぎがあれば、またこの裏路地で。何かあったら報せてくんな。すぐ駆け付けるからよ。それと、若旦那からの伝言だが──店の中で気を遣いながら動くのは骨が折れるだろう。あまり無理はしなさんなとよ。な、お優しいだろう──?そこらへん、あの人は自分の顔と言葉の魔力を分かっちゃいねぇ」

 

 熊造は箪笥の蓋を閉め、背に担ぎ直した。

 

「──伝言、確かに伝えたぜ。アンタのお陰で証は掴めたからな、あとは此方で外堀を詰めるからよ、それまでの辛抱だ。暫く待っておくんな」

「……分かりました」

「──そんじゃあな、姐さん。ごめんなすって」

 

 路地の向こうへ歩き去る。

 

「らうーっ、らうやぁーっ。らうの挿げ替え、煙管の掃除ぃーっ」

 

 売り声が遠ざかっていく。──お絹は暫し立ち尽くし、それから何事もなかったように店に戻ったのだった。

 

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