鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百十八話 ※若干閲覧注意

 

 ──時は数日遡り、とある日のこと。

 

 日本橋の薬種問屋の暖簾を出たお富は、買い出しに頼まれた樟脳の包みを抱え、京橋への帰り道を歩いていた。

 

 昼前の目抜き通りは賑やかで、棒手振りの売り声が四方から飛び交い、荷車が車輪を軋ませて行き交う。お富はその雑踏の中を、淀みのない足取りで進んでいる。

 

 雑踏の角を曲がり裏通りへ入った。その裏通りの片隅、古びた地蔵堂の前で一人の男が立っていた。

 

 二十代半ば。お富と同じくらいの年頃だが、人相は悪い。背を丸め、道行く人を上目遣いに睨み、日限地蔵の御堂に背をもたれて煙管を吹かしていた。町人風の小袖に、股引、腰には安物の煙草入れ。見るからにチンピラ──小悪党の匂いのする男。

 

 それは、お富の従っている御頭である男が拾い、金という餌を与え、手駒として飼い慣らしている者の一人だった。

 

 お富は何気ない様子で足を止めると、男の隣にしゃがみ込み地蔵に手を合わせた。

 

「よぉ、『おさよ』。いや、今はお富だったか──元気そうじゃねぇか」

 

 男が煙管をくわえたまま、低い声で呟いた。

 

「ええ。──御頭は」

「変わりねぇよ。相変わらずの調子さ」

 

 男は鼻で笑った。

 

「近江屋の娘、思ったより粘ってるそうじゃねぇか。それともオメェが加減してるからか」

「……冗談はおよしよ。半年で、ようやくここまで来たのよ。近江屋の主人は祈祷師にすっかり傾いているけど、娘は薬の効きが思うほど深くならないのよね。そういう体質なのだろうけど」

「どうでもいいけどよ、御頭が焦れてきてるぜ。──その御頭が言うにゃあ、そろそろ山場だと。三日後の夕餉後、仕込め。今度は派手にやれってよ」

 

 男が懐から小さな竹筒を取り出した。竹の節を残して切り、穴を開けた親指ほどの小筒。──男の手がお富の袂に伸び、中にスルリと滑り込ませる。手慣れたスリの動きだった。

 

「これは?」

「筒の中身は油だと。よくわからねぇが──あの『薬売り』が持ってきた新しい薬で、粉より効きが強ェらしい。発作が派手に出りゃあ、親父はますます祈祷師に縋る。次の喜捨で蔵から、でかく吐き出させる手筈だ」

「そう……」

「もう一つ。──頭からの言伝だ」

 

 男の声が僅かに変わった。御頭の言葉を伝える時だけは、この男も少し居住まいを正す。

 

「『お前は俺が仕込んだ女だ。他の女とは違う。上手くやれ』──だとよ」

 

 お富の手が、一瞬だけ動きを止めた。

 

 ──他の女とは違う。他の女とは違う。他の女とは違う。

 

 ゾクリ、と背筋に暗い歓びが走る。御頭の命令する声が耳元で聞こえるようだった。あの低く纏わり付くような声。煙管の煙の匂い。太い指の感触。手つきを思い出す。──御頭が自分を認めてくれる。他の引き込み女とは違う。特別なのだと。

 

 お富は心の中で、その言葉を何度も繰り返した。繰り返すたび、干からびた心の底に黒い水が静かに満ちていく。

 

 ──御頭の手下として、色として、十年近く仕込まれたのだ。御頭の手で、一から十まで。盗みのイロハ、男の気の引き方、慰め方、人の害し方も全て。

 

 朱に交われば赤くなる。初心な娘ではない。既に、その身は穢れ堕ちきっていた。

 

 手下として、色として、よく磨き上げられていることを嬉しく思うべきだ、誇るべきだと──骨の髄にまで教え、刷り込まれている。

 

 お富は震える指先で、ぎゅっと小袖の裾を握った。

 

 心の底に湛えた、黒い水がお富を犯し、狂わせる。それが何という名の感情か、お富には区別がつかない。ただの喜びではない。まして、浮き立つような慕情などではない。心の痛み、罪悪感、恐怖──支配されることを受け入れ、心地好く感じるようになってしまった負の感情。

 

 命令され、支配されることに安心感と快楽を覚えてしまうのだ。卑屈で、仄暗い、後ろめたい歓び──自身が所有物であることに、疑いなど欠片もない。

 

「……御頭にも、よろしく伝えてちょうだい。早くお会い出来る日を待っています、と」

「……そんなのは自分で言え、気色悪ぃ。──じゃあな、精々気をつけろよ。最近、火盗改が嗅ぎ回ってるって話もある。妙な奴が店の周りをうろついてたら、すぐに報せろ」

「……ええ」

 

 男は煙管の灰を叩き落とし、地蔵堂の前を離れた。肩をいからせて路地を行く。──お富はその背を見送らず、地蔵に向かってもう一度手を合わせてから、表通りへ戻った。

 

 樟脳の重みが、抱えた腕に変わらず残っている。袂の中には、竹の小筒の僅かな重み。──お富は、何事もなかったように雑踏の中を進んでいった。

 

 §

 

 京橋近江屋に入った引き込み役──お富の本当の名は、お沙世といった。

 

 駿河の府中。安倍川の東岸に、かつて茶を扱う大店があった。屋号は『松風屋』。蔵が三つ、奉公人は二十人を数え、駿河でも指折りの茶問屋として知られていた。

 

 その松風屋の一人娘として生まれたのが、お沙世である。

 

 子どもの頃の記憶は、今でも切れぎれに残っている。父の膝の上で算盤を弾いた感触。母が髪を梳いてくれた手の温かさ。庭の池の鯉に麩を投げたこと。蔵に積まれた茶箱の、深い緑の匂い。──全て、確かにあった。

 

 ──お沙世が十六の春。店には出入りの『薬売り』が来ていた。

 

 駿河に薬売りは多い。富士の麓には薬草が豊かで、行商人がよく通る。その薬売りは富士講の『御師』の家系らしく、父も信心が篤かったことから店では座敷に上がらせ、よく茶を出しては富士の霊験や教えを語らせていた。

 

 当時のお沙世は、その男のことをただ気のいい行商の小父さんとしてしか見ていなかった。だが、ある時、挨拶をした折にこう声を掛けられた──。

 

「お嬢さん、最近お顔の色が優れぬようで。私が疲れに効く薬を差し上げましょうか。これを茶に混ぜて飲めば、疲れが取れ、明るい気分になり、悩み事が晴れることでしょう」

 

 薬売りはそう言って、薬を一包置いていった。

 

 ──その一包みがお沙世の人生を狂わせた。

 

「疲れが取れる、悩み事が晴れるって、そんな薬あるのかしら?」

 

 たった一度のこと。その夜、お沙世は寝る前の茶に混ぜて飲んだ。

 

 その一刻後、おさよは夜中に唐突に目が覚め──世の裏側を見た。よく知る家が、自室が、黄泉や闇の如く滲む異界に呑まれているように見えたのだ。

 

 ──恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。

 

 その異界の只中では、自分の手が獣の腕のように見えた。激しい不安感を堪えきれない。恐怖し身体の芯から震えた。暗闇に呑まれる。まるで何者かが身の内に染み込み、操られるかのような心地。

 

 ──嘔吐。しかし、胃からは何も出ない。

 

 恐怖心の求めるままに狂乱して叫び、酩酊の苦しみに唸り声を上げ、獣のように四つ脚で這った。人ではない歪んだ獣の姿を写す鏡を投げ捨て、湯飲みや急須を投げつけ割った。娘の狂乱に父が駆け付け、動揺しながらも抱きしめたが、父のその腕が巻き付く蛇のように見えて、噛み付いた。

 

 ──たった一度の発作。たったそれだけで全てが壊れた。

 

 発作は次第に落ち着きを見せた。だが、翌日から松風屋の評判は地に堕ちた。

 

「あの店の娘は狐憑きだ」

「先祖の祟りだ」

「阿漕な商売をしているバチが当たったに違いない」

 

 悪い噂が立ち、客足は一気に遠のいた。たった一度であろうと、町中に声を響かせるほどに狂乱した娘がいるという事実。それだけで噂に真実味を与えるのは十分だった。

 

 奉公人は次々と暇を乞い、取引先からは断りの使いが来た。父は必死に弁明したが、一度流れた噂はもう止められなかった。

 

 ──そして、あの薬売りは二度と店に姿を見せることはなかった。

 

 火の消えた茶問屋。大店の活気は見る影もない。お沙世自身は、あの夜の記憶を全て覚えていた。自分が自分でなくなる感覚。耐え難い不安と恐怖心。母の怯えた目。父の腕に噛み付いた時の、歯が肉に食い込む感触。全ての記憶は消えないまま、心の傷として刻まれている。

 

 そうして──悪いこととは続くもの。人の寄りつかなくなった松風屋に押し込み盗賊が入ったのは、それから一月後のことだった。

 

 夜半──。お沙世は物音で目が覚め、異変を感じて咄嗟に押し入れに隠れた。暗闇の中で、店に残った奉公人たちのくぐもった声が、刃物が振るわれる音が、父の呻きが聞こえた。母の悲鳴は一度だけ上がり、すぐに途切れた。

 

 お沙世は押し入れの隅で膝を抱え、両手で耳を塞いでいた。それでも音は聞こえてくる。

 

 ──夜が明けた時、店の中で生きている者は、お沙世だけだった。何故見逃されたのかは分からない。単に数えから漏れただけだったのかもしれないが。

 

 そこからは地獄のようだった。世間慣れしていない娘が、突然、一人世に放り出されたのだから。

 

「狐憑きを雇う余裕なんざウチにはないよ」

「いくら縁戚とは言え、狐憑きの娘を家に置くのは縁起が悪いねぇ……」

「お前の狐が賊を呼び込んだんじゃないかい?さっさとどっか行っとくれ」

 

 狐憑きと噂された女を世話する者など、生まれ故郷にはいなかった。行く宛を失ったお沙世は、駿河から江戸へと流れ流れた。

 

 身寄りもなく、頼る先もなく、宿場の料理茶屋で茶汲み女として働いた。そこで人目を引く笑い方を覚えた。男の心のくすぐり方を覚えた。身体を売って金を稼ぐことを覚えた。──必要なことは、全て自身の体で覚えていった。ただただ、生きてゆくために。

 

 そんな日々のある夜──茶屋に一人の男が客として入ってきた。

 

「お前、名前は」

「お沙世、と申します──」

 

 五十がらみの、丸々と肥えた男。裕福なのか身なりは良い。声は低く静かで、笑う時は子供のように人懐こい笑みを見せる。

 

 膳でもてなし、床に入った。その床の最中。男はお沙世の顔を見て、ふと動きを止めた。

 

「お沙世。お前、生まれはどこだ?」

「……」

 

 お沙世は笑むばかりで答えなかった。答える言葉がなかった。お沙世はもう故郷を捨てたのだから。

 

 男は暫く黙ってお沙世を見つめ、それから、穏やかに笑った。

 

「やっぱりな。行き場がねぇんだろう?気に入った──俺ぁ、お前がどんな過去を持ってようが気にしねぇよ。どうだ、うちに来ねぇかい」

 

 お沙世は少し悩んでから頷いた。女一人、世を渡るのは困難を極める。茶屋を転々とする暮らしも先がないことは分かっていた。どこへ行っても同じだと。しかし、この男の手がどのような手であるかも、薄々は感じ取っていた。

 

 それでも……今よりはましだと思って、その手を取った。

 

 ──もう、見知らぬ男を幾人も相手にするのには、嫌気がさしていたから。

 

 手切れ金、迷惑料として茶屋に金を払い、荷物をまとめて出て行く。その先に更なる地獄があるとも知らずに。

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