男の正体は、東海道一円を縄張りとする盗賊の頭領──『外法頭』の徳次郎と呼ばれる凶賊だった。
外法──正法の外、邪法の謂い。薬で人を狂わせ、信仰を悪用し、囁きと騙りで人の心を操る。正面切った押し込みも厭わぬが、その本領は人の弱みに付け入る邪な術にこそある。そうした手口から、誰が呼んだか──「外法頭」の名が冠された。
駿河、伊豆、相模、遠江を転々と回り、手向かう者は容赦なく斬り、店を内側から崩して財を奪う。悪名の通った男。
「──お前も薄々は分かっちゃいただろうがな。俺ぁ、盗賊の頭をやっていてな」
お沙世が拾われてから暫くたった夜のこと──。徳次郎は気の済むまでお沙世を抱いた後で、煙管を吹かしながら世間話のような口ぶりで正体を明かした。
「と、盗賊……?嫌ですよ、旦那様……そんな悪い冗談はよしてくださいよ」
「冗談じゃねぇよ。──知っちまったからにゃ、もう逃れられねぇぜ。なぁ、お沙世よぉ」
徳次郎の声は低く、穏やかでさえあった。怒鳴ったり凄んだりはしない。それが却って恐ろしかった。お沙世が顔を引きつらせると、徳次郎は煙草盆に灰を落とし、ふっと笑った。
「そんな面ぁするな。何も盗み働きをしろってんじゃねぇ。──ただ、知っちまったからには、そう簡単に出てくとは言わせねぇぞ。茶屋にゃあ、もう手切れ金を払ってある。お前は俺が買い取った女だ」
「そ、それは……旦那様には感謝しています。でも、いずれ、働いて、きっと返しますから……」
「はっ、そんな道理が通ると思ってんのかぁ、ええぇ?」
徳次郎は呆れたように笑い、それから声を落とした。
「俺らはな、お沙世。捕まりゃあ、よくて遠島、悪けりゃ獄門て身の上だ。盗賊ってなぁ浮草のような者どもだが──それ故に仲間内の契りは堅ぇ。裏切りは許さねぇ。お前の足抜けを許しちゃあ、手下共に示しがつかんだろ。──分かるか?」
「後生です、旦那……どうか……」
「わかんねぇ女だな。ならねぇと言ってんだろうがよ」
「ひっ……」
「な?よく考えろ」
徳次郎の声から圧が抜け、ふっと優しくなった。
「お前──言ってたじゃねぇか。こんな暮らしはもう嫌だってよ。俺についてくりゃ、もう茶を運ばずに済む。男共に媚びずに済む。飯は腹一杯食えるし、寝床も綺麗だ。──悪い話か?」
「……」
「それとも何か。ここまで言わせた上で、オメェを連れてきた俺に──この徳次郎に、恥かかせよぅってのかい」
声は穏やかなままだったが、その奥にひやりとした刃が忍ばせてある。お沙世は何も言えなかった。
「そうだ。わかりゃあいい」
徳次郎は煙を細く吐いた。
「何、そう気を揉むこたぁねぇ。じき慣れらぁ。楽しくいこうや。なぁ、お沙世よぉ」
§
それからの日々は、泥沼に足を取られたかのようだった。
徳次郎はお沙世に身の回りの世話をさせ、やがて盗みの下働きを覚えさせた。万引きから始め、共犯に仕立て上げてゆく。
──逆らえなかった。
徳次郎の本性は残忍で狡猾、一度機嫌を損ねれば気が済むまで罰を受ける。顔色を窺い、与えられた役目をこなし、夜は床に呼ばれて精根尽き果てるまで抱かれる。
そして、疲労の只中、耳元でこう囁かれるのだ。
「テメェは周りから見捨てられて、ここに辿り着いたんだろ。こんな悪党共の掃き溜めによぉ」
「いってぇ何をしでかしたら、故郷を追い出されるってんだ。おい、お沙世。何とか言ったらどうだい、えぇ?」
「大事な身体売って、僅かばかりのオゼゼしか稼げねぇ……真っ当に生きようとして、お前は馬鹿を見た。健気だよなぁ」
「あいつらぁ、全員お前の敵さ。誰のせいでテメェが苦しんだと思ってる?全部、あいつらが見捨てたせいよ」
「だがなぁ──安心しろい。俺だきゃぁ、お前を見捨てたりしねぇからよぉ」
声が毒となって沁みる。身も心も泥で穢され、後戻りできぬのだと思い知らされる。
──それが、お沙世の新たな暮らし。
半年も過ぎた頃には、もう抜け出せなくなっていた。
徳次郎の手下たちと顔を合わせ、仕事の段取りを知り、盗人宿や隠れ家の場所まで教えられた。盗賊たちから信を向けられると、不思議なことに、お沙世はここが自分の居場所なのだと自ら認め始めた。
──いつの間にか、逃げる気などなくなっていた。
教え込まれた盗賊の流儀が、骨の髄まで刷り込まれていた。足抜けしようとする者、裏切りそうな者が出れば、お沙世自身が怒りを露わにするほどには。
──お沙世の心は徐々に作り替えられていったのだ。
そうして半年が過ぎ、お沙世が一味の外には出られぬと確信した頃──徳次郎は、最後の仕上げにかかった。
──江戸は浅草。徳次郎が表向きに営む料理茶屋『鶴喜』の奥座敷。
その夜、徳次郎はいつものようにお沙世の体を抱いた後、煙管を吹かしながら上機嫌に昔の仕事を語り始めた。徳次郎には酒が入り、女を抱いた後の弛緩した時間に、過去の手柄話を語る癖がある。お沙世はいつものように聞き役に回り、徳次郎の背にしな垂れかかっていた。
「俺ぁ、駿河で茶問屋を一つ潰したことがあってな──」
何気ない調子だった。まるで天気の話でもするかのように。
「──たしか、あれは松風屋といったかな」
お沙世は、息を止めた。
「『薬売り』をしている舐め役が俺に持ち込んだ仕事よ。奴は富士講の『御師』の家筋に縁のある野郎でな。駿河の茶問屋の座敷に上がり込んでは、霊験だの教えだのを語って信用を稼いでやがんだ。あれは舐め役としても口合い人としても天稟の才を持った男よ」
口合い人──盗賊と盗賊の間を取り持ち、盗み働きに必要な人手を斡旋する役目を担う者だ。
「──店に出入りしながら、蔵の在り処、奉公人の数、店の主の信心深さまで全て舐めるように見て回る。それから奴は娘に薬を盛った。きっかり一服分よ。その娘が狂乱した事実と狐憑きの噂を併せりゃあ、客足が遠のき、奉公人は逃げ出す。店は面白いように崩れやがった。そこまでが、『薬売り』のお膳立て。──あとは俺らが入って、転がっているものを拾えばいい」
ふ、と徳次郎は笑った。
「楽なもんだぜ、あいつの仕事は。──これで駿河の茶問屋、松風屋は晴れて店仕舞いって寸法よ」
──松風屋。
その名はもう長く口にしていない。胸の奥に仕舞い込み、蓋をしてきた名前。それが今、隣で煙管を吹かす男の口から、手柄話として転がり出た。
お沙世の指先が、敷布を掴んだ。
──薬売り。座敷に上げては茶を出して歓待し、父に富士講の教えを語っていた男。お沙世が十六の春に「疲れに効く」と薬を一包置いていった男。そして──お沙世が狂乱する騒動が起きてからは、二度と姿を見せなかった、あの男。
全てが、繋がった。
あの薬は偶然ではなく、噂は仕組まれたもの。客足が遠のいたのも、奉公人が暇を乞ったのも、全て『薬売り』の策謀。そして頃合いを見計らって、徳次郎に松風屋を売った。
──父と母を殺した仇が、今、自分の目の前で煙管を吹かしている。
徳次郎の背にしな垂れかかった、お沙世の体が強張った。呼吸が浅くなる。指先が冷たくなり、敷布団を掴む手が白くなるほど力が入った。
──気づかれてはいけない。
そう思った。気づかれれば殺される。この男は盗賊の頭だ。都合の悪い者を始末することに躊躇などしない。
だが──。
「なぁ、お沙世よ」
徳次郎の声が変わった。
手柄話をしていた時の軽い調子が消えている。──低く、静かで、蛇のように纏わりつく声。お沙世の知っている、もう一つの徳次郎の声。
「……松風屋の、一人娘の名前は──」
うつ伏せから仰向けへ。煙管を口から離し、ゆっくりと振り向いた。
「──確か、お沙世、と言ったかな」
時が止まった。
徳次郎の目が、お沙世を見ていた。正面から。逸らさず、見逃さず。その目には、何の驚きも動揺もない。──最初から知っていた人間の、静かな確認の目。
「御頭……何を……」
「とぼけなくていいぜ。知ってたんだよ。最初からな」
徳次郎は煙管を煙草盆に置いた。その仕草は穏やかで、まるで世間話の続きのようだった。
「駿河の茶問屋の一人娘。狐憑きの噂が立った憐れな娘。俺が見逃したのは偶然だとでも思ったか?」
お沙世は声が出なかった。体が凍りついたように動かない。
「わざとさ──駿河の茶問屋の大店、松風屋。そこの娘は色白で中々に美しいと評判だったじゃねぇか。殺しちまうのはもったいねぇ。なら、どうせならよ──茶汲み女に身をやつして体を売り始めた頃合いに、俺が拾ってやろうと思ったのさ」
徳次郎はお沙世の顎を指先で持ち上げた。逃がさぬように。目を逸らさせぬように。
「なぁ、お沙世。お前の父親と母親を殺した盗賊の頭領が、今お前の目の前にいる。ウチの飯を食い、俺の寝床で寝て、なんべんも体を開いてきた。半年もの間、何も知らずに──いや」
ふ、と笑った。
「知らなかったか?本当に?──お前、うすうす感じてたんじゃねぇのか。押し込みの被害者が、盗賊の頭に拾われる、そんな偶然があるもんかってよ」
お沙世の唇が震えた。
──感じていたのか。本当に。
分からない。分からなかった。ただ、胸の奥の暗い場所で、何かが「考えるな」と言い続けていたことは確か。考えれば壊れてしまう。だから考えなかった。目を逸らし続けた。──それを、この男は見抜いていた。
「さて、お沙世」
徳次郎は顎から手を離した。再びうつ伏せに寝そべり、置いていた煙管を取り上げて火を点け直す。煙を一筋吐いてから、何でもない声で言った。
「聞いてやるよ。──お前、どうしたい」
その言葉は、問いの形をしていた。だが、選択肢などないことは、お沙世にも分かっていた。
逃げるか。──逃げてどこへ行く。一味の顔を知り、隠れ家を知り、仕事の仕組みを知った女を、生かして放つ者がいるか。
刺すか。──刺して、それから。お縄になるか、手下に殺されるか。いずれにせよ終わりだ。そして、刺し殺したところで、父と母は帰ってこない。
──帰ってこない。
お沙世は知っていた。これは問いではない。徳次郎はお沙世の口から、ある言葉を言わせたいのだ。お沙世が自分の意志で、ここに残ると。この男の傍にいると。
──そう口にさせることで、もう二度と戻れぬ場所へ、自分の足で踏み込ませる。鎖で縛るのではない。自分で鎖を選ばせる。それが、この男のやり方だった。
「……ここに……ここに……おいてください……」
声が出た。自分の喉から。掠れた、小さな声が。
言った瞬間、お沙世の中で何かが折れた。記憶よりももっと深い場所にある、人としての芯のようなもの。生きることにまつわる責任──他者を大事に思う心、物事の善悪を判じる心、自分がどうありたいかという願い。それらを束ねて成り立つ人間の柱ともいうべき何かが、ぽきりと。
折れた瞬間、不思議なほど楽になった。いや、快楽と呼べるほどの開放感がお沙世の身を襲った。
──もう、いいのだ。
何も考えなくていい。何も感じなくていい。全てを御頭に委ねてしまえばいい。盗めと言われれば盗み、飯を作れと言われれば作る、抱かせろと言われれば応じる。御頭には逆らえない。言うことは正しい。何も疑わなくていい。ただ盲目的に身を捧げる──。そうしていれば、少なくとももう居場所を失わずに済む。
「そうかい」
徳次郎は満足そうに頷いた。それだけだった。驚きもしない。──予定通りの結果を確かめただけの、静かな頷き。
「よく選んだ。だが、まだ辛かろうな。どれ、もう少し慰めてやろうか──」
徳次郎がお沙世へと覆い被さる。
お沙世は天井を見上げ、吐息を漏らした。涙は出なかった。出し方を忘れたのではない。感情が麻痺した訳でもない。
──ただこの瞬間に、お沙世が自身の過去を捨て去っただけ。
その夜から、お沙世は徳次郎の支配を受け入れ、道具となったのだ。