──そして、盗賊の頭領である徳次郎のこと。
この男の『外法頭』の二つ名には、もう一つの由来があった。
それは、徳次郎が富士講の講元を務めていたことにある。
神道において富士は、木花之佐久夜毘売。
仏教と結びついては、浅間大菩薩。
そして、富士講は仏教と区別するために本尊を仙元大菩薩と頂く。
山を独自の神と仰ぎ、仏法とは異なるこれまた独自の教義を持った富士講の信仰は、時代の主流であった坊主衆から見れば仏法の外にある「外法」に他ならない。
──盗賊の頭が山の神を拝んで生きている。それも二つ名の由来のもう一つの側面であった。
毎朝、徳次郎は仙元大菩薩の札を祀る神棚に水を上げ、手を合わせる。月に一度の講の集まりでは、講員を前に中興の祖──食行身禄の教えを説き、参詣の段取りを取り仕切る。
富士山に向かって発する『おつたえ』という祝詞には淀みがなく、講員から問われれば富士禅定の作法から人穴──胎内潜りの心得まで快く語って聞かせた。
その信心に嘘はなかった。
──お沙世ははじめの内、その姿を訝しんでいた。あれだけ人を殺し、店を潰し、金を奪ってきた男が毎朝手を合わせている。罪を悔いているのだろうかと不思議にも思った。
だが、徳次郎の傍で日を重ねるにつれ、どうにもそれは違うのだと分かってきた。
──徳次郎は罪を悔いてなどいない。手を合わせる時の徳次郎の顔は清々しいほどに澄んでいるのだから。
仙元大菩薩は、徳次郎にとって真に尊い存在だった。盗みも殺しもただ『生業』や『商売』の内にあって、信仰とは別の領分にある。神棚の前で手を合わせる時、徳次郎の中で二つは矛盾しない。お沙世には理解できない理屈であったが、徳次郎にとっては、その境界ははっきりと分けられていた。
──そして、その信仰の場である講が、結果として徳次郎の裏稼業とも深く結びついている。
講には無宿の者から豪商まで、身分を越えた者が集まる。盗賊とは何の関わりもない、ただ現世利益を目当てに富士を拝みたいだけの町人が大半である。
──しかし、その中に混じれば、商家の内情や蔵の数、奉公人の入れ替わりなど、商いに役立つ話が自然と耳に入ってくるものだ。
加えて、信心篤い料理茶屋の旦那という世評は、悪事の疑いを逸らす盾にもなった。講に出入りする舐め役や引き込み役を紹介すれば商家の座敷に堂々と上がり込める。食い詰めて講に縋ってきた者に飯と寝床を与えれば、いつしか忠実な手駒に育てることもできる。
徳次郎が元々、それを意図して仕組んだ訳ではない。仙元大菩薩への信心は信心、商売は商売。
しかし、いつしか、ただ信仰の場が結果として商売の縁となり、商売の成果が信仰の場をも豊かにしていく──そういう、おかしな具合に二つは絡み合うようになっていた。
信仰と悪業は両立する。どちらも本物で、どちらとも矛盾しない。──徳次郎はそういう思考を持つ男だった。
§
徳次郎が江戸に仕事場を移し始めた頃、その商売は荒っぽい押し込みが主であった。
引き込み役を商家に住み込ませ、間取りと蔵の鍵の在り処を探らせる。頃合いを見て一味十数人で押し込み、家人を縛り、抗う者は容赦なく斬る。引き上げる頃には、家には骸しか残らぬ──そういう手っ取り早い急ぎ働きを徳次郎は好み、何度も繰り返してきた。
しかし、その一方で奪った金の一部は講金や喜捨の名目で蓄え、講員の中に病気や商売の失敗などで生活に困窮する人が出た場合の備えとした。頼母子講のように──必要な者には必要なだけ、集めた金や物資を救済として分配した。
──平等主義と理想郷主義。
徳次郎の奉ずる食行身禄が説いた教えには、後の世の言葉を借りるなら、社会主義や共産主義に通じる思想の萌芽が少なからず垣間見える。
身禄は、賎民や宗教者は別として四民は生まれながらにして、皆等しく富士の御山の子であると説いた。武家も町人も百姓も、神の前では同じであると。身分による上下関係そのものを否定した。
とりわけ身禄は、四民士農工商の序列をまやかしと断じた。世のため人のため勤勉に働く者は、その業がいかなるものであれ等しく尊い──そう説く。
その上で、身禄の舌鋒は世の頂きに座す徳川幕政にさえ向かう。曰く、武士は己の手で米一粒作るでなし、品一つ商うでなし、ただ百姓町人の働きの上に乗り生きておるだけの者たち。米は安く、世に溢れるほど大量に出回るようにしろ。支配階層にある武士を、身禄はそう容赦なく斬って捨てた。
翻って身禄は、社会の下層民──汗して田を耕す百姓、品を運び世に回す町人、その手の働きこそが、この世を支える礎であると讃えた。地を這うように働く者の労苦を、御山に額づく祈りと、同じ尊さのものとして並べたのである。
この身禄が否定したのは、身分の壁だけではなかった。
古来、富士の御山は女人禁制であった。仏法も、修験も、女は穢れたものとして、霊地への足入れを許さぬ。それが世の常識。
──だが身禄は、その常識すら、まやかしと退けた。男も女も、同じ神から生まれた子である。そこに穢れの別などありはしない。女もまた、男と寸分違わず御山に救われる──と。
身分の否定と並べて語られるべき、女人の救い。それは当時の世の道理からすれば、身分の否定と同じだけ、いや、それ以上に時代を揺るがす鮮烈な教えであった。
──そして身禄の凄みは、その理屈をただ口で説くに留めなかったところにある。
富士講の集まり──講に一歩入れば、そこは別天地であった。武士も、豪商も、貧しき職人も、無宿の者も、皆、身分無く対等として扱われる。御山への道を共に歩む仲間。それ以上でも、以下でもない。
江戸という身分社会で固められた町の中に、身禄は、身分の枷を外せる小さな理想郷──平等な社会をこしらえてみせた。
講に入れば束の間とは言え、人は皆対等になれる。だからこそ、身禄の富士講は長年虐げられた町人や不満を溜め込んだ百姓の間に、燎原の火のごとく燃え広がったのだろう。
──徳次郎もまた、その教えに心から傾倒していた。
身分の上下はまやかしである。武家が町人より貴いなどという道理はどこにもない。まして、富を抱え込む豪商はそれだけで世を乱している。
それに──身禄の説いた教えには、一つ、異様な一節がある。
──神以外に、盗みをしないものはいない。であるから、これを赦せ。
身禄の著作『添書』にそう記されている。盗みは、人の業の一つに過ぎぬ。神ならぬ身が、盗みの一つや二つ為すは自然の理であって、それを咎め立てて罪に落とすことの方が、道に背いておる──身禄の理屈は、そう読める。
徳次郎がこの『おつたえ』をどう受け取ったかは、想像に難くない。
──ならば、その不正に蓄えた蔵から金を奪い、講の名のもとに困窮した者へ分け与えること。その行いは、徳次郎の中では悪ではない。むしろ、歪んだ富の偏在をあるべき場所へ流し直す、正しき行いですらある、と。
徳次郎の講は、そうした身録の教えの影響を受けている。
故に、徳次郎の講もまた、その教えのままに講の中では誰もが対等。豪商から金を巻き上げる詐欺師の女も、その金で飯にありつく無宿の男も、同じ人と扱った。
武家の理不尽に潰された者、女と侮られて踏みつけられた者──世の序列に弾かれた者ほど、徳次郎の講に安らぎを見出す。徳次郎は、そういう者を決して見下さない。男であれ女であれ、無宿であれ、講では等しく遇する。その遇し方に嘘はない。
無宿の者に飯を食わせ、食い詰めた者に寝床を与え、講員が病に倒れれば薬を与え救済する。──その金が、どこから来たものか。徳次郎は問わない。豪商の蔵から流れ出た金が貧しき者の腹を満たすなら、それは至極理に適っていると──徳次郎の理屈はそこで綺麗に閉じている。
──徳次郎を間近で見続けたお沙世は、次第にこれが新たな世の在り方なのではと思うようになった。
徳次郎は己を悪人だとは思っていない。人を殺し、店を潰し、娘を狂わせる。その一つ一つを、徳次郎は歪んだ世を正す行いとして、大義と信仰の理屈で正当化している。
罪を悔いる悪人なら、まだ救いもあるかもしれない。だが、徳次郎には悔いがない。悔いる必要すら感じていないのだから。
──そして、お沙世が心地好く思うようになっていったのは……
徳次郎が講の座で自分にかけてくれる言葉が、本当に温かいことだった。
お前もようここまで堪えた。
世の理不尽が、お前をここへ追いやったのだ。
お前は何も悪うない。
──そう言う時の徳次郎の顔は、お沙世を地獄に叩き落とした時の顔とは真逆。菩薩のように温かく、その言葉は本心からのもの。だからこそ、その二面性が恐ろしく、引き込まれてしまう。
お沙世を薬で狂わせた悪行も、お沙世を同じ講員──「同行」として労わる温もりも、徳次郎の中では同じ一つの信仰から地続きで流れ出ているのだから。
──閉じた小さな社会は理想郷のように見える。しかし、ある時を境に流れは少し変わった。
長谷川平蔵が火付盗賊改方の頭取に任命されたのである。