鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百二十一話

 

「──鬼平の野郎ォ、どこにでも手先を忍ばせやがる。下手に動きゃあ、こっちの首が飛ぶ」

 

 徳次郎の手下たちが、声を潜めて囁き合っていた。

 

 鬼平──火付盗賊改方頭取、長谷川平蔵。密偵を飼い慣らし、同心を縦横に走らせ、盗賊の動きを読み先回りしてくる。江戸の闇に張り巡らせていた網が、一つ、また一つと裂かれていった。

 

「ここんとこ、どうにもやりにくくなった。一発捕まったら、死罪か遠島、良くてお仕置きだ。命がいくつあっても足りやしねぇ」

「あぁ……前は二、三人で押し込んでも、十分逃げ切れたもんだがなぁ」

「今じゃ、押し込み先に先回りするほど動きが早ぇ。鬼平の野郎ァ……どこに戌仕込んでやがるんだか」

「盗賊稼業にゃ、世知辛ぇ話だ……そういや、聞いたか。火盗改が神田でまた大捕物をしたって聞いたぜ──」

 

 それを聞いてか、誰かが舌打ちをした。盗人にとって取り締まりが厳しくなるのは飢えるのと同義である。一味の中に、じわりと焦りが滲み始めていた。

 

 それから──徳次郎がそろそろ江戸を引き払うべきかと見切りをつけかけた頃。手下たちがまたぞろ何事か噂しているのを、お沙世は耳に挟んだ。

 

 曰く──江戸に拠点を移してからここ数年来、顔を見せていなかった薬売りが突然挨拶に現れたのだという。

 

 お沙世自身は駿河の生家が無くなって以降、当の薬売りとは顔を合わせていなかったが……あの男はあれからも薬を売りつつ、舐め役を続けていたのだろう。

 

 ──姿を見せぬまま、お沙世の人生を狂わせ、追い立てるように後ろから動かし続けている、亡霊のような存在。それが、お沙世にとっての薬売りだった。

 

「それで、聞いたか──?薬売りの旦那が、御頭に面白ぇ知恵を授けたとよ」

「へぇ、どんな知恵なんでぇ」

「押し込まずに、祈祷で財を吐かせるってぇ寸法だ」

「祈祷だぁ?盗人が拝み屋の真似事でもするってぇのかい」

「それがよ、上手くやりゃあ、向こうから喜んで差し出してくるんだとよ。祟りだ、因縁だと言いくるめてな。それだけじゃあ、盗賊の仕事にはならねぇ」

「なるほどなァ……あの旦那はやっぱり頭が回る」

「だがよ、盗人が詐欺働きの真似事しなきゃならねぇってのは、正直、気の乗らねぇ話じゃねぇか」

「仕方ねぇだろう。このままじゃ、オマンマの食い上げだ」

 

 しかして──徳次郎はその知恵を受け入れた。本来、火付盗賊改方の職掌の外にある詐欺働きへと──。このまま飯の種が細れば頭としての面目も、手下たちの統制も危うい。故に押し込みの刃を鞘に納め、騙りへと商いを変えたのだ。

 

 そうして仕上がったのが、今の一味──薬を盛り憑き物を演出する引き込み役、祈祷師を装う行者と巫女の詐欺師役、そして、徳次郎が噂を集め外から指示する役。

 

 お沙世はその引き込み役として使われている。およそ一年に一店、仕込みを掛け、信用を得た後に収穫する。芝の加賀屋では「おたね」と名乗った。京橋の近江屋では「お富」。

 

 ──次の店では、また別の名になるのだろう。

 

 §

 

 京橋──近江屋。

 

 お沙世──いや、お富の手は、淀みなく包丁を動かしていた。

 

 大根の桂剥き。皮一枚を薄く削ぐ手つきは、長年の修練を思わせる。実際、お富は長年、料理茶屋『鶴喜』の奉公人として生きてきた。料理も掃除も洗濯も、誰にも引けを取らない。

 

 ──容姿も良く、店の者からは評判もいい。

 

 ただし、そうした「真っ当な自分」もまた、徳次郎から与えられた役目の中にあるに過ぎなかった。男に好かれる微笑みは、徳次郎が仕込んだもの。主人を立てる慎ましさは、店に深く入り込むために身につけた作法。

 

 包丁を置く。お富は微かに息を吐いた。

 

 繋ぎから受けた指図の通り、薬を仕込むのは三日後。それまでは平静を装い、店の中でいつものように過ごす。

 

 二日の凪の間、お富は淡々と働いた。朝餉の支度、掃除、夕餉、洗い物、お美乃の世話。庄左衛門はお美乃の容態が落ち着いていると見て、安堵の溜息を漏らしている。

 

 ──落ち着いてなどいない。

 

 お富は知っている。お美乃の体には、まだ薬の名残がある。瞳孔の散大は、完全には引いていない。食が細いのも、夜に眠れぬのも、薬が抜けきらぬせいだ。

 

 そのお美乃を、お富は丁寧に世話する。茶を運び、菓子を勧め、髪を梳いてやる。お美乃が「お富さん、いつもありがとう」と細い声で礼を言う時、お富は穏やかに微笑む。

 

「お嬢様、お礼なんて要りませんよ。差し出がましいようですが──妹のように思えてしまって」

 

 しかし、内実は──お美乃の顔を見るたび、お富の中で捨てた筈の記憶が疼くのだ。

 

 ──十六の頃の自分に似ている、と。

 

 色白で、何も知らずに守られて育った娘。父に溺愛され、店の者にも大事にされ、世の穢れを知らぬまま十七を迎えた。

 

 嫉妬がある。守られながら何も知らずに育ったこの娘への、苦い嫉妬。これから先この娘がどうなるかを知っている者の、暗い憐れみ。自分に起きた不幸と、これから起こる悲劇とを重ねる。すると、どうしてか心が安らぐのだ。

 

 そして──三日目の夕暮れ。

 

 台所では夕餉支度が進んでいた。竈に火が入り、飯が炊かれ、煮物の鍋が湯気を立てている。

 

 お富は汁を仕立て、香の物を切り、膳の並びを整えた。夕餉の膳が調い、奥の座敷へと運ばれていく。

 

 膳を運び終え、台所が一息ついた頃。

 

 お富は棚の奥から、お美乃専用の急須を取り出した。茶筒から茶葉を入れ、湯を注ぐ。それから菓子棚から揚げ饅頭を一つ取り出し、小皿に載せた。お美乃の食は細いが、好物であれば僅かに口にする。揚げ饅頭は餡を皮で包んだ菓子に薄力粉をまぶし油であげたもので、胡麻油の香ばしい匂いが立つ。

 

 ──油の匂いに紛れて、『別の油』が一滴二滴加わったところで、誰が気づくものか。

 

 盆に急須と湯呑みを載せ、揚げ饅頭の皿を添える。盆を抱え台所を出た。廊下を進み、お美乃の座敷へ。

 

 ──その時、廊下の角で、出会い頭に新参の女中とぶつかった。

 

「ちょいとアンタ……!」

「あっ……すみません」

 

 背の高い新参女中の卯木だった。たたらを踏み、盆が揺れた。急須が傾き、茶が僅かに零れる。

 

 その瞬間、苛立ちが込み上げた。──今、この盆を取り落としていたら、どうなっていた。

 

 怒りを、ぎりぎりのところで堰き止めた。──が、苛立ちが言葉に滲むのは堪えられなかったらしい。

 

「どこに目を付けてるんだいっ。危ないだろうがっ」

「……はい。申し訳ありません。暗くて、気がつかなくて……」

「っ、もう構わないから早くお行き」

 

 卯木は小さく頭を下げ、台所の方へ去っていった。

 

 幽霊みたいな女だ──。気味悪く思いながら、その背を見送り、お富は息を一つ吐いた。盆を持ち直し、廊下を進む。

 

 奥の廊下は、夕暮れの薄暗がりに沈んでいた。行灯はまだ灯されておらず、障子越しの光だけが廊下を照らしている。お美乃の座敷の手前で、お富は足を止めた。

 

 左右に、人影はない。

 

 ──お富はしゃがんで盆を下ろし、手を袂に入れた。

 

 指先に、竹の小筒。栓を引き抜く。揚げ饅頭の衣に、二滴、三滴。見た目はまるきり、サラリとした菜種油のようだ。胡麻油の香ばしさに紛れ、色も匂いも見分けがつかない。

 

 続けて、急須の蓋を開け、袂から取り出した紙包みの粉を一回分落とし込む。蓋をすると、急須を一度だけ静かに回した。

 

 もう何度も繰り返してきた。行為に指先が震えることもない。心の臓の音すら変わらない。

 

 いや──何かは、感じていた。ただ、それは罪悪感などではない。

 

 ──仄かな、温かさ。奇妙な興奮。

 

 胸の底に、小さな火が灯るような感覚。これから始まることへの、密やかな期待。お美乃が苦しむ姿を思い浮かべることへの、口に出せぬ快感。そして、自分と同じ境遇を確かめることによる、安堵、慰め。

 

「私だけじゃない……」

 

 お富は小さく呟いた。

 

 私だけが薬に狂わされたのではない。私だけが家を壊されたのではない。私だけが家族を奪われたのではない。

 

 ──貴女も此方においで。私と、同じ場所に。

 

 小筒を袂に仕舞い、紙包みも襟元に戻した。盆を持ち直し、何事もなかったかのように廊下を進み、お美乃の待つ座敷の襖前で膝をついた。

 

「お茶と、お菓子をお持ちしました」

 

 声は、いつもの通り。穏やかで、姉が妹に語りかけるような親しげな声。

 

「ええ、お富さん。──ありがとう」

 

 襖の向こうから、お美乃の細い声が答えた。

 

 §

 

 ──夜。

 

 女中部屋に下がったお富は、布団に入った。他の女中たちは、既に寝息を立てている。

 

 お富は目を閉じた。お美乃に茶と揚げ饅頭を運んでから一刻ほどが経つ。──そろそろか。

 

 虫の声が裏庭から聞こえる。その静けさが──不意に破れた。

 

 奥の座敷の方から、声が上がった。

 

 甲高い笑い声。少女の笑いにしては妙に明るく、止まらない。引き攣れたように、高くなっていく。

 

 笑い声が、叫びに変わる。狂乱。何かを投げる音。陶器の割れる音。──お美乃の声が、壁を隔てて響いてくる。

 

 ──覚えのある音だった。

 

 お富は布団の中で目を開けた。暗闇の天井を見上げる。胸の底の小さな火が、ゆっくりと広がっていく。

 

 お富は身を起こし、帯を締め直した。お美乃の側に行かねばならない。いつものようにお美乃を宥め、庄左衛門に行者と巫女を呼ぶように勧めるのだ。

 

 布団から出る前に、お富は一度、両手を胸の前で合わせた。

 

 仙元大菩薩への祈りではない。お富は、その慈悲を信じていない。少なくとも、お沙世を救いはしなかった。

 

 だから、これは祈りではない。形だけ手を合わせながら、心の中で別の言葉を呟いた。

 

 ──どうか、私と同じところまで落ちてきてくださいませ。そうすれば……私はもう独りではなくなる。

 

 唇の端に歪んだ笑みが浮かんだ。十六の頃のお沙世なら、こんな笑みは決して浮かべなかったろう。だが今のお富は浮かべる。いつの間にか身に染み付いてしまった仄暗い笑み。

 

 手を解く。

 

 胸の中で何かが切り替わった。仄暗い笑みは消え、代わりに、焦りと心配の入り混じった表情へ。この十年で覚えた、表情の使い分け。

 

 廊下の方から、庄左衛門の慌てた声が聞こえる。

 

 お富もまた、女中部屋を出ると急ぎ足で廊下を進み、お美乃の座敷へ向かったのだった──。

 

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