翌朝のこと──。
近江屋の奥。帳場の脇の小部屋で、仁助が主人である庄左衛門の前に手をついていた。
お富は廊下を隔てた次の間で、朝餉の膳を片付けながら、その遣り取りを聞いていた。耳をそばだてているような、あからさまな素振りは見せない──。膳の器を重ねつつ、布巾で拭く。ただ、手の動きはいつもより幾分か遅い。
「旦那様。お嬢様の御祈祷についてでございますが──別筋の祈祷師にも見立てを願うてはいかがでしょうか」
仁助の声は低く落ち着いていた。お富の手が器の上で止まった。
「……仁助。お前、まだそんなことを言うのか」
その声には隠しきれぬ煩わしさがある。
「行者様は本物だ。先だっても、お美乃の苦しみを鎮めて下さった。ありがたい御方だぞ。──今更、どこの馬の骨とも知れぬ拝み屋を呼んで何になる」
「ですが、旦那様。あれだけ御祈祷を重ねても、お嬢様の障りは、一向に──」
「それは、お美乃の憑き物がそれだけ手強いということだ。行者様もそう仰せだったろう。だからこそ根気良く御祈祷を続けねばならぬのだ」
「……旦那様」
「聞かぬ。──仁助、もう聞かぬぞ。この話はこれまでだ」
庄左衛門の声が襖を隔てて響いた。お富は布巾を握る指に僅かに力を込めた。
──やはり、番頭は祈祷師に疑念を抱いている。
お富にはそれが分かっていた。四十年、近江屋の身代を見てきた番頭の目は伊達ではない。お美乃の容態は変わらず、一進一退。徐々に良くなったかと思えば障りの発作を起こす。憑き物にしても何かがおかしいと勘づいているのだと。
だが証はない──。証明する手立ても存在しない。だから仁助は状況を変えるために別筋の祈祷師を呼べと言っている。
お富は仁助が訝しんでいても、焦りはしていなかった。今までも同じような出来事はあった。別の祈祷師が来ても、裏で買収するなり二度と近づかないよう脅せば良い。
本当に恐れているのは、渦中の人間──被害者となる庄左衛門やお美乃が店の外の『第三者』に相談し、詐欺が露見すること。いや──。
お富は自分でも判然とせぬ心の動きに、一瞬、思考を止めた。
本当に恐れているのか。どうでもいいとは思っていないか。それとも──もしかしたら待っているのかもしれない。誰かが来て、この醜悪な連鎖を曝き断ち切ってくれることを。
今更罪悪感でも感じているのだろうか──しかし、それとも違う気がした。ただ……もう疲れてしまったことは確かだった。
お富自身の問いに答えを出す前に、また襖の向こうで仁助の声が聞こえてきた。
「……承知いたしました。差し出口を失礼いたしました」
仁助は引き下がった。だが、その声からは諦める色は感じられない。
「──しかし、旦那様。この仁助、近江屋に四十年奉公してまいりました。丁稚から番頭まで引き上げて頂いたご恩は骨身に染みております。そのご恩に報いるには、旦那様の言いつけにただ従うべきと思うておりました」
ですが──最近、少し考えが変わりました、と続ける。
「奉公人が主人に逆ろうてでも申し上げねばならぬこともございます。手前はそれを申し上げたつもりでございます。しかし……お聞き届け頂けぬのであれば──」
そこから先はよく聞こえない。しばらくして戸が開き、仁助が廊下へ出てくる。お富は膳を抱えて立ち上がると何食わぬ顔で頭を下げた。
仁助は、お富を見た。
お富も、仁助を見た。
ほんの一瞬だけ二人の目が合う。仁助の目は怒りを湛えるでもなく、焦るでもなく、ただ──静かな色をしていた。
仁助が先に視線を外し──そのまま何も言わず帳場の方へ去っていく。その背を見送りながら、お富は胸の内で小さく息をついた。
──あの人は私を怪しんでいる。
そう直感した。だが、お富は動けない。番頭の疑いを恐れて逃げ出すような段階はとうの昔に過ぎている。それに、お富は徳次郎の道具──逃げるという選択肢はそもそも存在しないのだ。
§
夕七つ過ぎ。
行者と巫女が、近江屋の表口に着いた。
行者は深い藍の鈴懸に頭襟を戴き、手には錫杖を携えていた。壮年の男で、声がよく通る低い声の男だった。
巫女は年の頃三十前後。面長で色の白い女である。地味な紺の小袖の上に白衣を羽織り、手に数珠を下げ、背に小ぶりの木箱を負っていた。神社の巫女のような緋袴は穿いていない。普段着に白を重ねただけの、市井に紛れた口寄せ巫女の出で立ちであった。
お富が玄関先で出迎えると、聞きつけた庄左衛門が奥から小走りに出てきた。
「こ、これは行者様、巫女様。──遠路、ようお越し下さいました。お待ち申し上げておりました」
庄左衛門は深く腰を折った。額に滲んだ汗をそのままに声が少し上ずっている。
「あれから何度も……何度もお願いに上がろうかと思いましたが、行者様方もお忙しい身。我儘を申すまいと堪えておりました。今日はお運び下さりまして、誠に……誠にありがたいことで」
「近江屋殿。お顔を上げられよ」
行者は錫杖を立てたまま、低く言った。
「我らも飯縄大権現の御加護を受ける者。困苦の家を見過ごす道理はござらぬ。して──御息女の様子は」
「はい、相変わらずで。ただ、昨夜にまた発作がございまして、少し落ち着いた今は床に伏せております」
「──然らば、急がねばなりますまいな」
巫女が初めて顔を上げ、にこやかに頷いた。
「ご案じめさいますな、近江屋様。今宵こそ、お嬢様にまとう物の正体をはっきりと致しましょう」
女の声は高く、それでいて柔らかい。聞く者を安んじる声。庄左衛門は深く頭を下げ、二人を奥座敷へ案内した。
奥座敷に通されると、行者は手代に命じて座敷の四隅に細い竹を立てさせた。竹と竹の間に持参の縄を渡して張り──それを結界とする。
次に、座敷の壁側に長机を置き、その上に白布を敷く。壁には一幅の神仏を象った掛軸を立て掛けた。三方を置き、米、塩、水、神酒を並べる。その場で作った御幣を立て、灯明を上げ、伽羅の香を焚いた。細い煙が天井に向かって昇り、薄暗い座敷に甘く重い香りが満ちていく。
──祭壇の準備は整った。
お富はその手筈を後ろから見ていた。素人目には、道具立てはそれなりに様になっているように見える。
徳次郎の根城で、行者役と巫女役が形を繰り返して練習し、所作と順序を確認し覚え込んだもの。本物には届かないだろう──。だが、素人を欺くには見栄えが第一。これで事足りる。
お美乃が女中に支えられて座敷に連れられてきた。薬を盛られた体は本調子にはほど遠い。顔は青白く、瞳が薄く濁っている。お富が布団を整え、お美乃をそこに横たえた。
「お富さん……」
お美乃がお富の袖を細い指で掴んだ。
「ここに……いてくれる?」
「おりますとも、お嬢様。──ずっと、お側に」
お富はお美乃の手を両手で包んだ。温かい手だった。薬に蝕まれていてもなお、この娘の手は温かく穢れていない。──かつての、お沙世の手もそうだったように。
「怖いわ……」
「なにも怖いことはございませんよ。行者様と巫女様が、お嬢様をお救い下さいますから」
お美乃は薄く微笑んだ。続けて、庄左衛門がお美乃の傍に座した。娘の頬にそっと手を当てる。
「お美乃。大丈夫だ。父がおる。行者様も巫女様もいらっしゃる。──今日こそお前に憑いた物を退けて下さるからな」
「お父様……」
お美乃の目に涙が滲んだ。
お富は二人のその姿を後ろから見ていた。父と娘。守ろうとする者と、守られる者。お沙世の父も、かつてこうして頬に手を当ててくれたことがあった。
最近よく、捨て去った過去のことを思い出してしまう──。
薬を盛られた後の、あの長い夜の一晩。父は一睡もせず、暴れるお沙世をただ抱き留め、安心させるように宥めてくれていた。あの温もりを、お沙世はまだ覚えている。忘れたいのに、忘れられない温もりとして。
──行者が錫杖を鳴らした。しゃん、と遊環の音が座敷に響く。
祈祷が始まった。