鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百二十四話

 

 奉公人の押し留めるような声。慌て、困惑するような声。そして、それを撥ねつける女の声。

 

 ──聞こえたのは、鈴を転がすような女の声だった。

 

「退きゃれ。豊川稲荷の使いであるぞ──」

 

 廊下を踏み鳴らす足音が近づいてくる。一人ではない。二人。奥座敷の襖が、外から勢いよく引き開けられた。

 

 そこには女と背の高い男が立っていた。

 

 何事かと巫女が演技を止める。行者の祝詞も途切れた。庄左衛門がはっと顔を上げ、お美乃も薄く目を開けていた。

 

 「お取り込み中の所、失礼いたしまする。我ら豊川稲荷、吒枳尼真天様が神遣、白狐からの御用伝手で参った者なり。近江屋の主はいずこかや──?」

 

 その名を聞いた庄左衛門の表情が僅かに変わった。頭を抱えていた手が落ち、口が半ば開く。商いの守り神として、月に何度も足を運ぶ赤坂の稲荷。庄左衛門が長年、厚く信を寄せてきた稲荷である。しかしまさか……この場に現れるとは思いもしなかっただろう──。

 

 ──その女もまた巫女の装束。

 

 地味な紺の小袖の上に、白衣を羽織っている。しかし、座敷の巫女と同じ装いの筈なのに、まるで違って見えた。背筋がまっすぐに伸びて顎を引き、座敷の一同を上から見下ろすように見渡している。

 

 その目に宿る光は強い──。口元には薄い笑みが浮かぶが、人を安心させる類の笑みではない。何もかも見透かしているかのような細い目──余裕を滲ませる笑みだった。

 

 お富の背筋が、すっと冷える。その女から目を離せなくなった。

 

 なぜか息が浅くなる。会ったこともない女だった。なのに──どうしてか『怖い』と感じた。何故かは分からない……だが、座敷の誰よりも先に、お富自身が女に見据えられた気がした。その一瞬でお富の背は氷を当てられたように粟立っていた。

 

「な、何用ですか。豊川稲荷様の使いとは──」

 

 庄左衛門が腰を浮かせた。声が裏返っている。

 

「おや、そちらが近江屋の主殿でございましたか」

 

 女が庄左衛門を見やり、それから座敷の中を見渡す。灯明の火。重く立ちこめた伽羅の香り。行者の錫杖。敷かれた護摩壇もどきの祭壇。──その全てを一瞥し、それから庄左衛門に向き直った。

 

「手前ども、豊川稲荷に縁ある者。──こちら近江屋の御息女に取り憑く、よからぬ物の気配を聞き及びまして。捨て置けず、罷り越した次第にございます」

 

 庄左衛門が口を開こうとし──しかし、それよりも先に行者が動いた。

 

「な、何者だ貴様ら!大事な祈祷の最中だぞ。店の者はなにをしていた!誰がここへ通したのだ!」

 

 錫杖を握り締め、顔を朱に染めて立ち上がる。汗が額を伝い、鈴懸の肩が怒りに震えていた。──祈祷騙りが佳境に達していた最中の乱入。行者にとって、それは流れを断たれたに等しい。本物であれ偽物であれ、祈祷に没入している最中のこと。これ以上の侮辱はないだろう。

 

「き、貴様ら──!」

 

 行者の声はもはや怒号だった。

 

「何ということを……何ということをしてくれたのだ!今まさに、狐を調伏せんと──この身が飯縄大権現の御威徳を一身に受け、命を懸けて祈り上げておるその最中に──!穢れた足で踏み入り、結界を破り、神徳を台無しにするか!この罰当たり共が!」

 

 行者は錫杖を振り上げる。遊環がガシャガシャと激しく鳴る。一歩踏み出し、女に向かって突き進もうとした。

 

 しかし──行者の怒号を受けて尚、女は笑みを崩さず、ただ静かに立っていた。錫杖が振り上げられるのを黙って見ている。

 

 ──その瞬間、女の前に山伏の出で立ちの背の高い男が立ち塞がった。

 

 白衣に房のついた結袈裟。額には宝冠となる白頭巾。腰に法螺貝を提げ、手には錫杖。年の頃は座敷に座した行者よりも、ずっと若く見える。しかし、頭巾の下の顔は精悍だが眉間に深い縦の皺がある。それが男の相をただの美丈夫とは異なるものにしていた。

 

 そして、行者が振り上げた錫杖で邪魔者を打ち据えようとした時──男が口を開いた。

 

「──控えろ、下郎」

 

 低い声だった。怒鳴りもしない。声を荒げることもない。だが、その一声は座敷の空気を一瞬で凍りつかせ、行者の足を、振り上げた錫杖すら金縛りにでもなったかのように宙に留めた。

 

 男の目が行者を射抜いていた。殺気ではない。怒気でもない。ただ、身を貫いたのは、頂きの見えない大山のような静かな圧──。声の主がまとう空気で座敷の温度が二、三度下がったかのようだった。

 

 行者の顔から怒りの朱が引いていく──代わりに蒼白な色が這い上がってきた。足が竦んでいる。脂汗が噴き出し、錫杖を持つ手がかたかたと震え始めた。

 

 ──お富はその光景を唖然と見ていた。

 

 行者の怒りは偽物ではなかった。祈祷に没入していた男が我を忘れて激昂した。だというのに、それを正面から受け止め一言で退けた。お富は、その得体の知れない男がひどく恐ろしげに感じられた。

 

 男が行者から視線を外し、庄左衛門に向き直る。頭を下げ礼を一つ。

 

「……手前を俊源、そちらを鈴と申す。御祈祷の最中に押し参じるご無礼、平にご容赦いただきたい」

 

 その声は騒ぎ立てる風ではなかった。むしろ、穏やかで冷静。しかし、退く気配の微塵もない声だった。

 

「こ、これはこれは……し、しかし先ほどよからぬ物の気配を聞き及んだ、と仰いましたが……いったい誰から……」

「それは申せませぬ」

 

 男は静かに首を振った。

 

 庄左衛門の目が座敷の外──いつの間にか廊下に座していた仁助の方へ向いた。それから、苦々しげに口元を歪めた。

 

「……仁助」

 

 仁助は何も言わなかった。ただ目を伏せ、庄左衛門からの視線を静かに受け止めている。

 

 庄左衛門の唇が震えた。四十年来の仲である。仁助の性根は庄左衛門も分かっている。あの番頭が裏で手を回したと悟った時の庄左衛門の顔には信じられないという色が滲んでいた。

 

 それに──豊川稲荷の遣い。

 

 その名を出されては、無下に追い返すわけにはいかない。庄左衛門は月参りを欠かさず、寄進を絶やさず、稲荷の御加護を頼みに生きてきた。その稲荷に縁ある修験の者を、自らの手で叩き出すなど考えるだに恐ろしい。

 

 ──さりとて、今、目の前で進んでいる祈祷を中断するわけにもいかぬ。先に世話になった行者達にも面目が立たぬ。

 

 庄左衛門の声が上ずった。

 

「……と、豊川稲荷の御使者様──こちらは、高尾山の行者様方であらせられます。今は御祈祷の最中……他寺他山の御仁が立ち入っては何かと差し障りがありましょう。豊川稲荷様の御縁とは申せ、せめて……せめて、御祈祷が終わるまでお控え下さるわけには参りませぬでしょうか」

「それは一理あろうな──しかし、近江屋殿。先に一つだけお訊ね申したい」

 

 男は庄左衛門の言葉を遮るでも、押し返すでもない。そこに立ったまま静かに問うた。

 

「先だってより、幾度も御祈祷を重ねられたと伺った。──御息女のお加減は、その都度良うなられたのか。それとも、体調の具合は一進一退。期間を置いて繰り返されておられたのか」

 

 庄左衛門の顔が強張る。その背が微かに揺れていた。

 

「それは……」

「──お嬢様の障りが出るのは、凡そ十五日に一度。月に二度ほど出ています。回復したと思ったら、また突然現れる形です」

 

 庄左衛門が口籠もると、仁助が割り込むように言った。

 

「憑き物……狐がそれだけ手強いということだと、行者様が──」

「果たして──その狐が暦で計ったように同じ間を置いて暴れましょうかな」

 

 庄左衛門が行者を庇うと、男はそう返しながら懐に手を入れた。煙管を取り出し、一度、吸い口から吹き込んで羅宇の滓を吹き飛ばす。煙草入れを開け、刻み煙草を摘み丸めて皿に詰めていく。

 

 話を続けながらの何気ない手つき。修験者のそれというよりも、どこか武家のそれのようにも見える。手つきに無駄がない。

 

「狐は仕事熱心だが、またいい加減なところもある。一月何事もないこともあれば、翌日また荒ぶることもあろう。──暦に合わせたように律儀に働く狐を、手前は聞いたことがござらん」

 

 男は煙管を口に運んだ。

 

 お富はその様子を、男の手元を何の気なく見ていた。──煙草盆は座敷の隅にあり、火種もそちら。しかし、男はそこへ寄ろうともしない。火打ちを取り出す様子も見せない。

 

 男が煙管の羅宇を持ち、吸い口に再び口を付けた。

 

 ──唵。

 

 その際に何気なく……男の口から低く短く、その一音が漏れた。火皿の刻み煙草がそれだけで、ジュッ、と赤らむ。

 

 男が小さく吸い、白い煙が細く昇った。

 

 不可思議な現象に皆の思考が止まる。場に妙な雰囲気が流れる。見間違いか──火種はどこにもなかった筈なのに。

 

 煙草盆の火種にも触れず、火打ち石も使わず……ただ一音真言を唱えただけ。それだけで火皿に詰めた刻み煙草に火が点いた。

 

 お富は思わず煙草盆の方を見た。種火は灰の中。しかし、男はそれに一度も触れていない。その一部始終を皆がすぐ目の前で見ていたのだ。何かの手妻?──いや、本当にそうだろうか。

 

 ──座敷に満ちる混乱と動揺。言葉を失ったかのように、しんと静まり返る。

 

 庄左衛門が口を半ば開けたまま男を見ている。行者は蒼白のまま動けずにいる。巫女が口をつぐみ梓弓をぎゅっと抱え込んだ。

 

「果たして、それは──本当に狐の仕業だろうか」

 

 男は煙管を咥えたまま、ゆっくりと煙を吐いた。

 

 ──その煙がまた奇妙だった。

 

 普通の煙ならば吐き出された後、天井に向かって昇り散る。だが、この煙は散らなかった。白い煙が尾を棚引かせるように座敷の空気の中を泳いだ。灯明の火を避けるように弧を描き、座敷の行者の周りをひと巡りし、巫女の脇をかすめ、それから──お富の方へ。

 

 煙はお富の肩に触れる。ゆるやかに肌を撫でるように漂い、それから、お富の袂のあたりで、一瞬まとわりつき──ふわりとほどけるように広がった。

 

 ──その時だった。

 

 ぼやけた煙の中に、お富は見た。

 

 人の──顔。

 

 煙が散りゆく刹那、白い靄の中にぼうっと浮かんだ。目があり、口があり、鼻があった。微笑んでいるような、泣いているような、苦しんでいるような──判然としない表情。男とも女ともつかない、のっぺりとした白い顔が、煙の内側からお富を見つめていた。

 

 喉が引き攣れ、息が止まった。

 

 瞬きをした。──もうそこには何もなかった。煙は普通の煙として天井に向かって薄れ、消えていく。

 

 ──今のは何。

 

 お富の心の臓が嫌な速さで打ち始めていた。手のひらが冷たい汗で濡れている。見間違いだ。きっと、そうだ。祈祷の最中に得体の知れぬ者が乱入し、気が昂ぶっているだけ。そうに違いない。

 

 ……だというのに、瞼の裏にあの顔がこびりついて離れない。煙の中から覗いたあの目──まるで、お富の悪行を咎めているかのようだった。

 

 ──お富は怖くなって動けなくなった。

 

 男は煙管を静かに下ろし、手繰り寄せた煙草盆に雁首を軽く打ちつけ灰を落とした。何事もなかったかのように庄左衛門に向き直る。

 

「近江屋殿。──手妻とお思いか」

 

 場を支配する声に、庄左衛門は答えられなかった。

 

「手妻とお思いなら、それでもよろしい。なれば、この場の御祈祷も手妻か否か。──それを確かめてみてはいかがか」

「祈祷が……手妻……?」

 

 男が傍らの女を見た。すると巫女の装束の女が一歩前へ出る。

 

 その女が座敷の中へゆっくりと足を進め──。お美乃の前まで来て膝を折り、その顔を覗き込んだ。

 

「お嬢さん。少し、触れてもよろしい?」

「……は、はい」

 

 艶を感じさせる声。お美乃は女の顔を怯えながらも見上げた。

 

 女はお美乃の手を取り、両手で包んだ。そのまま、じっとお美乃の顔を見つめる。微笑みも、眉根も動かさない。ただ瞬きもせず、娘の目の奥を覗き込むように──静かに、深く、見つめていた。

 

 ──奇妙な間だった。

 

 何も言わず、何もしない。ただ、手を握り、見つめているだけ。なのに、お美乃の体から少しずつ力が抜けていくのが見えた。強張っていた肩が和らぎ、浅かった息が深くなる。怯えを孕んだ目が次第に穏やかな色に変わっていった。

 

 先の巫女の女は手を握り涙を流して見せた。お美乃の不安に同調し言葉で包み込んだ。だが、この女はただ見つめているだけ。言葉もない。涙もない。なのに──お美乃の心は不思議と安らいでいる。

 

 お富はその光景に背筋がざわつくのを感じた。

 

「あなた、お名前は?」

 

 やがて女がお美乃に柔らかく訊いた。

 

「お……お美乃……です」

「お美乃。──可愛らしい良い名ね。よく堪えたよ。辛かったろう」

 

 お美乃の目尻に小粒の涙が浮かんだ。それから、女は座敷の一同を見回した。その視線がお富を通り過ぎる。

 

 ──女が口を開いた。

 

 艶やかで、自信に満ちた声。だが、その声の奥底には、ぞっとするような何かがあるような気がする。

 

「だけど──この娘に狐は憑いておりませぬ」

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