鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百二十五話

 

「──この娘に狐は憑いておりませぬ」

 

 女の声が静まった座敷に落ち──行者が弾かれたように動き、錫杖をどん、と床に突き立てた。

 

「な、何を申すかっ!女め、狐が憑いておらぬだと。では、御息女のこの容態は何だと申すつもりだっ」

「毒でございましょう?」

 

 他に何かあるのかと、女はこともなげに言った。

 

「近江屋の……庄左衛門殿、と仰しゃいましたか」

 

 女がお美乃の父である庄左衛門に向き直る。涼しげな目元。余裕を感じさせる笑みで。

 

「娘御の目をよく御覧なさいな。瞳の中心の黒目が異常に開いていますでしょう。それにこうすると──」

 

 女が灯明の皿を手に取り、お美乃へと近づける。すると、お美乃は眩しそうにするばかりで──瞳孔の収縮は起きなかった。

 

「光を近づけても黒目が縮まらぬ。これは狐の業ではない。何かしらの薬の作用でしょうね」

「く……薬、ですと……そのような訳が……」

 

 庄左衛門が信じられないとばかりに繰り返した。

 

「飯か茶か菓子か──お美乃の口に入るものに、誰かが毒を混ぜた。この分だと一度や二度ではない。毒で死なぬよう、体調の回復を待って幾度も盛ったのでしょう。だから、障りが起きるのに間があいた」

 

 お富の指先が冷やりとした。

 

 女はお美乃の枕元に膝をつき直し、もう一度娘の瞳を覗き込んだ。

 

「お美乃。お前さん、夜は眠れぬだろう。ようやく眠れたと思っても恐ろしい夢を見て起きてしまう」

「……どうして……それを……」

「ものを食べた後、気分が悪くなって自分が自分でなくなる感覚がしたり、知らぬ間に時が過ぎていることがある。──違うかい?」

 

 お美乃の口が歪み、目から涙がほろりと零れた。

 

「……そ、そうです。だ、誰にも言えなくて……お父様にも、い、言えば、また憑き物が、と……し、心配するから……」

「そうだね。それでは言えなかったろうとも」

 

 女の声がふと和らいだ。

 

「だから、お前さんはよく堪えた。──だけど、もう大事ないよ」

 

 ホロホロと涙を零すお美乃の様子を、お富は後ろから見ていた。

 

 お美乃が堪えていたもの。誰にも言えなかった怖さ。依存していた、お富にさえ隠していた不安。──それはお沙世が胸に抱え続け、助けてくれる人がいなかったという理由もあるが……終ぞ人に明かさなかった恐れでもある。

 

 ──胸の奥が痛んだ。そこに、人の不幸を見て得ていた安堵感はない。

 

「たわけたことを申すな!」

 

 行者が間合いを断ち切るように声を張り上げた。錫杖の遊環がガシャ、ガシャ、と悲鳴のように鳴る。

 

「薬だと。ならばその薬を盛った者をここに出してみろ。その薬とやらを見せてみろ!出せぬなら、それこそ出鱈目ではないか!」

 

 行者は座敷を見回し、声を一段低くした。

 

「近江屋殿。──よう、お聞きなされ。先ほど申した通り、御息女に憑いた狐は、貴殿を怨む者の手で送り込まれたものですぞ。長年の商いの内に踏みつけた者が呪い師に銭を積み、御息女に狐を憑けた。狐というものは信じがたいほど執拗だ。──その執念を断ち切れるは我らの祈祷のみ。このままでは、お前様は御息女の骸を抱いて悔やむことになるぞ」

 

 庄左衛門が両手で顔を覆った。

 

「そ、そんな……しかし……お、お美乃っ……」

「お父様……」

 

 庄左衛門が何を信じたらよいのか迷い、お美乃に泣きそうな視線を向ける。お美乃自身も横たえた布団の中から震える手を父に伸ばした。

 

「お父様……わたしは、もう……このような祈祷など、したくありません……」

「──黙れ、狐めがっ!」

 

 行者がお美乃をぴしゃりと制した。

 

「お前の中にいた狐が、そうやって情を操っておるのだ。父御を惑わせ、我らを退けさせようとしておる。──近江屋殿、今のこの娘の言うことに耳を貸してはならん!」

 

 お美乃がびくりと身を竦め、伸ばした手を引っ込めた。その目に怯えが差す。助けを求めたのに手を振り払われた。自分の言葉が父を惑わす狐の仕業だと断じられた。

 

 お富はそれを見て表情を消した。

 

 その脅し方もまた、お富は知り尽くしている。引き留める者を悪と断じ、本来救うべき存在にすら攻撃を加えさせる。すると、人は罪悪感から行為を正当化し、後戻りできなくなる。そして、縋る相手を自分たちだけに絞り、操る。その手口で、お富たちは飯を食ってきた。

 

 なのに今、お美乃の中の怯えを見て、お富の胸の中で何かがギシリと軋んだ。

 

 ──私だけじゃない。

 

 いつもの言葉をお富は胸の中で唱えようとした。この娘も私と同じ場所へ落ちる。それでいい。それで私は独りでなくなる。だが──どうしてかその言葉は、いつものように心地良くは感じられなかった。

 

「ずいぶんとよく回る舌のようだね」

 

 女が言った。その声には嘲りが含まれている。行者の必死さを滑稽と謗る嘲笑。

 

「人の怨みで送り込まれた狐。商いの因縁。──便利な言葉だ。何の証も要らぬ。心当たりがあれば儲け物、無ければ気づいておらぬだけ。良く出来ておられる。感心いたしますよ、行者殿」

「──き、貴様」

「どれ──。ではそろそろ、お前さんの祈祷と私の口寄せ、どちらが手妻か。近江屋殿には見比べてもらおうじゃありませんか」

 

 女はすっと庄左衛門の前に進み出た。背に負っていた包みを下ろし、開く。すると中から古びた小さな桐箱が現れた。

 

 その箱は掌に乗るほどの代物だが、箱の蓋となる部分に呪符による封が幾重にも貼り重ねられている。書かれた文字は墨が薄くなり、呪符は年月を経て茶色く変色していた。

 

「これは私の家に古くから伝わる『外法箱』でね。──これに聞いてみよう」

「き、聞く──?」

「何を馬鹿な……」

 

 行者は表情を歪め、庄左衛門は青白い顔を女へと向けた。

 

「手妻を見破ってごらんよ。さぁ──耳を澄ませて、静かに」

 

 ゆっくりと目を閉じる。何の祝詞も唱えなかった。梓弓も鳴らさない。先の巫女があれだけ大仰に体を揺らし、声を作り、目を剥いて見せたのとはまるで違って。女はただ静かに座し、箱を膝の上に置いているだけだった。

 

 ──座敷が静まり返った。香の煙だけが細く立ち昇っている。

 

 お富はその静けさを恐れた。仕掛けのある祈祷の騒がしさには慣れている。だがこの女の沈黙の不気味さは……心が妙に騒ぐ。

 

 既に日の落ちた部屋──。灯りは灯明の火だけ。女の陰影が浮かぶ。静かだ。何も聞こえない。なのに……座敷の空気が纏わり付くように重くなっていく気がした。

 

 ──その時だった。

 

「────」

 

 箱の中から、微かな音がした。

 

 声のような気がした。誰かの息のような、子供の囁きのような、あるいは老婆の呟きのような──遠くこもった、けれども確かに人の声に似た音。

 

 しかしそれは、座敷の誰もが聞いたとも聞かなかったとも判じかねるほどの、微かな音量。

 

 お富の呼吸が止まる。気のせいかもしれない。いや、気のせいに違いない。だが……庄左衛門もお美乃も、行者も、巫女すら表情を凍らせていた。皆、同じ音を聞いていたのだ。

 

 行者の額の汗がつうっと顎まで伝い落ちた。

 

 ──虫だ。

 

 行者は胸の内でそう吐き捨てる。鈴虫か何かを箱の中に仕込んでいるだけ。蓋を隙間無く埋めれば、虫の鳴きが籠もり声のようにも聞こえようというもの。種の知れたつまらぬ仕掛けだと、行者は自分に言い聞かせる。だが額の汗は止まらなかった。

 

「──、──」

 

 また何事かが聞こえた。しかし、女は何も気にしていないかのように、ただ目を閉じて箱を抱えている。

 

 静寂が場を支配し──唐突に女が目を開けた。

 

「箱が教えてくれた」

 

 女が静かに箱を畳の上に置いた。

 

「お美乃に毒を盛った者は──この店の内にいると」

 

 庄左衛門が顔を上げた。

 

「店の……内に……」

「外から忍び入る者ではない。娘御の食べるもの、飲むものに、いつでも手の届く者。例えば──日々娘御の傍にあって、誰にも怪しまれぬ者」

 

 言われた瞬間──庄左衛門の目が泳いだ。

 

 お美乃の食事を運び、茶を淹れ、寝所の世話をする者。一人しかいない。庄左衛門の頭にその名が浮かんだ。だが、信じたくないという否定が即座に湧き上がる。まさか。あの明るく、人の良い女が、あり得ないと。

 

 しかし否定しきる前に、女の言葉と符合する事柄が次々と思い起こされた。あの女が来てしばらくしてから娘の様子がおかしくなった。仁助も以前、それを匂わせる発言をしていた。

 

 ──そんなことがある訳が……

 

 庄左衛門の視線が、ゆっくりと座敷の隅へと巡り……お富で止まった。

 

 庄左衛門の目には、信じたくないという惑いと、しかし符合する事実への衝撃とが、同時に浮かんでいるようだった。

 

「でも──箱はそこまでしか教えてくれなかった。近江屋殿は何か、心当たりがあるようだけども」

 

 女が静かに、そう付け加える。

 

 その一方で──行者の顔は苦渋で満ちていた。

 

 良くない流れだ。庄左衛門の視線が女中に止まったのを、行者は見ていた。このままでは積み重ねた騙りが崩れて終わる。箱の中から聞こえた音を声と偽っただけで、信用が、信心が奪われる。それだけは避けなければならない。

 

 ──行者は胸の内で重ねて言い聞かせた。音は虫だ。鈴虫だ。それ以外の何でもない。蓋を引き剥いで中身を晒してやれば、座敷の者すべてに種が割れる。それで恥を晒して終いだ、と。

 

 行者は錫杖を取り落とし、猛然と女の前へ踏み込んだ。その手が箱を奪い取る。女が手を伸ばし、箱を捉える暇もなかった。

 

「その箱を開けてはいけないよ」

 

 女が言った。その声は静か。箱を奪われて尚、何の焦りも見せず、ただ事実を述べるように禁忌を伝える。

 

「箱は外と中とを区切る境界。封印であり、守りなのさ。箱は開けた者の心を試す──覚悟がないのなら、開けてはならないよ」

 

 行者は聞いていなかった。いや、聞いてはいたが、もはや後には退けなかった。箱を掴む手が震えている。それが怒りなのか、それとも別の感情──恐れや怯えなのか、最早行者自身にも分かりはしなかっただろうが。

 

 行者は箱に貼り回された紙の封を、力任せに引きちぎった。

 

 古い紙が、ばりっ、と裂ける音がする。

 

 その瞬間──座敷の灯明が、一斉に消えた。

 

 ふっ、と、風もないのに。座敷に五つ並べてあった灯明の火が、一呼吸の間にすべて。

 

 座敷が暗闇に沈んだ──。

 

 障子の外にはまだ夕暮れの残照があったが、座敷の暗闇はそれすらも呑み込むように感じられた。お美乃が小さく悲鳴を上げ、庄左衛門が咄嗟に娘を抱き寄せる衣擦れの音が闇の中に聞こえた。

 

 ──ここからはもう、奇妙なことの連続だった。

 

 灯が消えて座敷は暗くなったが、目が多少慣れれば障子の外の薄明かりで物の形は見える。人の輪郭が見える。

 

 そこに──行者が箱の蓋を開けているのが見えた。呆と、箱の中身を見続けている。

 

 種を暴いてやると息巻き、灯明の灯りすらなら薄闇の中。

 

 目を見開き、箱の中身を覗き込んで凝視していた。

 

 ──そして、行者は。

 

 箱を掴む手をがたがたと激しく震わせ始めた。呼吸が浅くなる。短く、速く。箱を覗き込んだまま、動けずにいる。まるで、箱の中にある『何か』に魅入られ、視線が逸らせなくなっているように。

 

 闇の中で、お富には行者の横顔が辛うじて見えた。その横顔が歪んでいる。目が見開かれ、口が半ば開き、恐怖に歯の根が合わなくなっているのを。

 

 何を見たのかは分からない。

 

 分かるのはただ──行者の目に映ったものが、想像を、理解を超えていたのだろうということだけ。その目は怯えに満ち、心は微塵に打ち砕かれている。それほどに、恐ろしいモノを箱の中に見たのだろう。

 

「ぁ……ぁあぁあぁ……」

 

 行者の口から掠れた声が漏れた。

 

「ひ……ひ、ぃ……っ……」

 

 言葉にならなかった。悲鳴にもならなかった。解放されるように箱を掴んでいた手から力が抜け、箱が畳を転がる。蓋が転がり、箱は横倒しになった。

 

 ──中から何かが転がり出ることはない。横倒しの箱の口は座敷の闇の中、ただ黒い穴として開いているのみ。

 

「──開けてしまったね」

 

 闇の中に、女の声が響く。静かに。そして、ひどく穏やかに。それがかえって座敷にいる者、全ての背に緊張を与える。

 

「開けてはならないと言ったのに、お前さんが自分で開けたんだよ。私のせいじゃあ、ない」

 

 行者は箱の前で腰が抜けていた。尻餅をつき、後ずさろうとするが手足に力が入らない。滑稽を通り過ぎた憐れな姿。

 

「中身を覗いてしまったのも、お前さんだ。誰に頼まれたのでもない。お前さんの責で──」

 

 その女の言葉から感じ取れるのは愉悦。

 

「──人は誰しも、心に箱を持っていてね。その箱と一緒に、お前さんは自身の心の箱を開けたんだよ。そこに見たのが何であれ……それはお前さんが箱の中に封じ込めていたもの。お前さんが見たのはただの箱の中身じゃあ、ない。お前さん自身の心の中さね」

 

 箱は他界に繋がっているのさ、と女の声が聞こえ──行者の口がぱくぱくと動いた。声が出ない。脂汗が額から顎へ流れ、涙が頬を伝い、鈴懸の襟を濡らしている。

 

「さて──」

 

 女の声が変わった。ほんの僅かに。愉悦の色が消え、代わりに冷たさが戻る。

 

「お前さん『たち』の祈祷が手妻か、私の口寄せが手妻か。──見比べはこれで終わりではないよ」

 

 女が怯える巫女を見た。

 

「──お前、狐を騙ったね?中身が空っぽの癖に。狐の振りをするだけの空っぽの器の癖に。あぁ……狐憑きになりたいということかい?なら──その身を取られても文句はないね」

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