鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百二十六話

 

 ──笑みを浮かべた女が、巫女を見据え、すっと片手を上げた。

 

 その指先が巫女を差す。

 

 刹那──巫女装束の女の体が、ふっ……と、糸を切られた人形のように崩れ落ちた。

 

「お鈴っ……!」

 

 山伏装束の男が踏み込み、畳に伏した女の体を抱き起こす。女の頭が男の腕の中で力なく垂れている──。目は閉じられているが、息はあるようだ。しかし奇妙なのは──顔色が青白く、その様がまるで魂を抜き取られているかのようであること。

 

 お富は息を呑んだ。

 

 ──何が起きたのか。あるいは……これから何が起きようとしているのか。

 

 灯明は五つ揃って消えたきり、伽羅の香煙の残りだけが薄く漂っている。座敷の何処かで、誰のものとも知れぬ息遣いが、ひゅうと細く鳴った。

 

 ──と。

 

 巫女の肩が、びくり、と跳ねた。

 

 薄闇の中、巫女がぎこちなく揺れている。不自然に傾いでは、身を捩り、背を小刻みに震わせた。苦悩するかのような息遣いの根源。ひゅう、という苦しげな呼吸は巫女の喉から漏れていた。

 

「……」

 

 その巫女の様子のおかしげさに気づき、皆が固唾を飲んで注目していた。

 

 ──巫女が段々と大きく身を前後に振り始める。

 

 ガクリ、ガクリ。その勢いに負け、簪が畳に弾かれて転がる。固められた日本髪が崩れ、ほつれが顔にかかった。畳に爪を立てる。ガリ、ガリ、と藺草の目を掻く音が、揺れに合わせて刻まれていた。

 

 動きは益々、激しくなる。前後に揺らす動きに合わせ、低く唸り声が腹の奥底から響く。

 

「ぐう゛うぅ……う゛うぅうぅ……──」

 

 異常──。始めの憑霊を騙っていた芝居とは物が異なる。理性を犯す苦痛、本能が警鐘を鳴らすかのような獣じみた本気の唸り声。半ば開いた口の端から涎が糸を引いて垂れていた。

 

 あまりにもな常軌を逸している光景。お美乃が怯え、父の胸に顔を埋めた。庄左衛門は娘を抱き寄せたまま凍りつき、お富もまた息を呑んで見入っていた

 

 巫女──お富の知る女は気を狂わせたように振る舞う。前後の揺すりは、抗えぬ情動。それは身に潜り込む『何か』に堪えようとしているとも、『何か』を身に馴染ませるのを促すようにも見える。

 

「う゛ぅ……う゛うぅうぅ……う゛うぅうぅぅ……──……………………た、すけ──」

 

 激しい前後の揺すりがピタリ、と止まり、唸り声も一瞬だけ止む──、その僅かな合間に巫女の素の声が混じった。

 

 お富は確かにそれを聞いた──助けを求める言葉を。

 

 だが、その言葉は途切れた。身から一切の力が抜け落ちたのだ。声を出す力さえも。当の巫女は上体を前傾に顔を俯かせていた。その表情は陰となって窺えない。

 

 ──その口から、長い、長い吐息が漏れる。

 

 異常だった動きから、唐突に見せた落ち着き。それが意味するものとは──。誰もが固唾を呑み、座敷の空気が一拍、凪いだ。

 

 巫女の瞼がゆっくりと開く。その目は先ほどまでの目ではない。恐怖に怯えて見開かれ、涙の滲むそれでは。

 

 ──例えるなら静謐。

 

 水底の深さを感じさせる静かな目で、薄闇の座敷を一巡りさせる。壁際の行者を見、庄左衛門を見、お美乃を見、お富を見、稲荷の使いの男女を見──最後に、畳の上に転がる箱をじっと見つめた。

 

 ──巫女はふらりと立ち上がると無言のまま、畳に転がった桐箱に手を伸ばした。

 

 ちぎれた紙の封の残骸を静かに撫で、外された蓋を嵌め直す。緩やかに、それでいて自然な動作で。閉じた桐箱の蓋を上から指先で押さえる。

 

 ──ぽつ。

 

 それと同時に消えていた灯明に火が戻った。

 

 ──ぽつ。ぽつ。ぽつ。ぽつ。

 

 五つの灯が、ひとりでに灯り直す。座敷が再び薄明かりに包まれ、奇妙な沈黙が降りた。

 

「あ、灯りが……勝手に……」

 

 気づけば──巫女は桐箱を膝に置いたまま、祭壇の前に端座していた。髪を乱し、簪を畳に散らしたまま。しかし、その後姿には、先ほどまでの巫女にはなかった『何か』がある。

 

 ──同じ巫女の後姿。同じ佇まい。なのに空気感がまるで違う。

 

 存在が入れ替わったかのような違和感。別人であると言われれば納得してしまいそうになるほどに、肌に感じる存在の『圧』が異なっている。

 

 庄左衛門が堪らずに、おずおずと口を開いた。

 

「あ、あの……巫女様……ご無事……で、ございますか……?」

 

 巫女はゆっくりと庄左衛門に振り返った。それから──口元に穏やかな笑みを浮かべる。

 

「──はて……無事とは、何がでございましょう。この身は何ともございませぬが」

 

 変わらぬ巫女の声、そのものだった。声の高さも、抑揚も、口調まで。よく知る巫女のそれと寸分違わない。座敷の者、皆が思わず安堵の息を吐いた。

 

 ──何ともなかった。ただ驚かせられただけか、と。

 

「し、しかし……先ほど確かに、その……助けてと」

「──さて、そんなことよりも」

 

 巫女はゆるりと首を傾げた。穏やかな声のまま、しかしその目は二人の反応を面白がり、狐のように細められている。

 

「近江屋殿。──ひとつ、お前様に申し上げておかねばならぬことがございましてな」

 

 座敷が、しんと静まった。

 

「は、はい……何でございましょう……」

「お美乃殿に憑いておるという話。──実のところ、あれらは全て、騙りだったのですよ」

 

 庄左衛門は、きょとんとした。

 

「……は?」

 

 言葉の意味が、すぐには入ってこないようだった。

 

「ですからその点は安心なさいませ。狐も、蛇も、霊や物の怪の類も。お美乃の身には初めから何ひとつ憑いてなどおりませんから」

「な……し、しかし、それは巫女様らが仰られていたのではありませんかっ。……お美乃が狂乱し、苦しむのは憑き物が原因だと……儂の商売敵の怨みによるものだと……」

 

 庄左衛門はまだ巫女のことを疑いきれない様子だった。当然だ──これまで散々に祈祷料を支払い、頼みにしてきたのだから。障りの原因として毒の疑念が高まったとは言え、そう簡単に信心を捨てられる訳がない。洗脳──情報の選択、心理的圧力、認知の歪みによる思考の偏り。庄左衛門にとって、巫女らは恩人であるという認識がまだ根深い。

 

「左様。そう申しましたとも」

 

 巫女はあっさりと頷いた。

 

「憑き物だと言って、御幣を振って祈祷してみせ、口寄せを騙った。信じなければバチが当たると脅し、私たちのみを頼るように仕向けた──あれは、みぃんな、金を目当てにした拵え事にございますよ」

 

 呆然。庄左衛門の顔から、すっと表情が抜けた。

 

「……こしらえ……事……ですと?」

「ええ、ですからその様に言っています。初めから金を目当てにして近江屋に近づいたのですよ」

 

 庄左衛門は、ますます分からぬという顔をした。

 

「……何故、です」

 

 絞り出すような声だった。

 

「何故、巫女様が……ご自分から、そのような……。わかりません……それを明かせば、巫女様とて、ただでは済みますまい。騙りは重罪……己が罪まで晒して──いったい、何の得が」

 

 もっともな問いだった。詐欺師が、その客の前で、手間暇かけて築いた絵図を自ら破る。割に合わぬにも程がある。

 

 巫女はその問いに、さも不思議そうに小首を傾げた。

 

「得、でございますか。はて……そうですな。では、座興ということにいたしましょうかねぇ」

「ざ……座興……?」

「人が後生大事に被っておる面の皮を、あの手この手で一枚一枚、剥いでゆく。その下から出てくる素の顔を拝む。考えてみれば──これはなかなか、乙なものでございませぬか?」

 

 巫女は心底愉しげに、桐箱の蓋を指先で撫でた。

 

「金など、私にはどうでもよいのですよ。あればあったで結構。なくとも一向に困りませぬ。──私が見たいのは、お前様がたが、必死に取り繕うておるその裏の、生臭い中身でございますよ」

 

 さて、騙されていたと知って、お前様はどうなさる──そう言われ、庄左衛門は言葉を失った。

 

 目の前の女が何を言っているのか、半分も理解できない。ただ、その語り口の、人を人とも思わぬ無邪気な底意地の悪さだけが、ぞくりと肌を撫でていった。

 

 ──巫女の本性とは、このような女であったか。

 

 そして──その意味が、庄左衛門の中にすとんと落ちた、その瞬間。戸惑いが。困惑が。沸々と──別のものに変わっていく。

 

「……ふ、ふざっ……ふざけるな」

 

 庄左衛門の声が、低く震えた。

 

「ふざけるなッ!」

 

 庄左衛門が娘を抱き、顔を真っ赤にして声を荒げた。普段は温厚な大店の主の顔が、見たこともないほど歪んでいる。

 

「で、では、何だ。儂が今日までお前たちに縋ってきたのは……娘のためにと積んできた金は無駄……この子が夜ごと泣き叫び、見えぬものに怯えてきたのは──全部、お前たちの仕業だと言うのかッ……!」

 

 膝の上で握りしめた拳が、わなわなと震えていた。裏切りに対する怒りであり、やるせなさ。同時に──ここまで信じてきたものが足元から崩れる、その恐怖や怯えでもある。

 

「あんたは……あんたらは、儂を……儂ら親子を、ずっと謀っておったと……!」

 

 巫女は──否、巫女の体を奪った『何か』は、その激昂を静かな目で受け止めていた。

 

 そして、ふ、と馬鹿を見るように嘲笑った。

 

「ですから、先ほどから何度もそう言っているではありませんか。いい加減、理解したらどうです。それに……お前様が怒りを向けるべき先は──本当に『この身だけ』でございましょうかね」

「な、何だとっ?」

「お美乃が泣き叫び、見えぬものに怯えたのは嘘ではありませぬ」

 

 巫女が膝の上の桐箱を、つつ、と撫でる。

 

「されど、その障りの因は狐狸の類でもない。お忘れか、鈍い御方──先ほど箱が教えてくれたばかりではないですか。毒を盛った者の存在を。お美乃を苦しめた張本人を」

「っ……」

 

 巫女が「まずは其方を明らかにすべきではありませんか」と言う。庄左衛門の顔が青くなり、激昂が、ふっと勢いを失った。

 

 庄左衛門は答えなかった。ただ、その視線をゆっくりと横へ滑らせる。

 

 そして──お富で止まった。

 

「ねぇ、お富。ご苦労だったねぇ。──毒を仕込んで、暴れる度にお美乃を宥めるのは大変だったろう」

 

 お富の喉が、ひゅっと鳴った。

 

「な、何の……ことで……」

 

 お富は笑みを作ろうとした。作れなかった。唇の端が引き攣れただけ。本当は何故、と問いたかった。

 

「朝の白湯。夕の茶。日ごとの菓子。──お美乃の口に入るものは、みぃんな、お前の手で運ばれるのだから」

 

 纏わり付くような声。それは明らかにお富の知る、女の声音ではない。背筋を冷たいものが伝う。

 

「わ、わたしは……わたしは、ただ……」

 

 お富の視線が泳いだ。庄左衛門へ。仁助へ。そして──助けを求めるように、壁際の行者へ。

 

 だが行者は壁に背を預けたまま、微動だにしない。お富の視線に気づいてすらいないようだった。虚ろな目で、ただ俯いている。

 

 その様を見て巫女は、にい、と口角を上げた。

 

「それに助けを求めても無駄でございますよ。──それはもう、使い物になりませぬゆえ」

「……ぁ」

「もう言い逃れはできませぬよ、お富。──私たちは、同じ釜の飯を食うた仲間じゃないの。何もかも、白状しておしまいな」

 

 お富の全身から血の気が引いた。

 

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