鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百二十七話

 

 ──なぜ。

 

 なぜ巫女が、自分を売る。これまで同じ絵図を描いてきた仲間ではないか。客の前で手口を明かせば、何方もただでは済まぬ。それを承知で、なぜこの女は──味方であるはずのお富を獄に沈めにかかっている。

 

 もしや先ほどの発作で頭がおかしくなったのか。それとも、騙りが明るみに出ようとして自棄になったのか。

 

 ──だが。

 

 お富はそこでようやく、自分の中の何かが引っ掛かっていることに気づいた。

 

 巫女の顔を見た。よく知るその顔を。

 

 ──同じ、体。同じ、声。同じ、口調。

 

 なのに。

 

 ──笑みの形は、先の稲荷の使いだという女のものとそっくりだった。

 

 嘲りにも見える、自信に満ちた余裕の笑み。

 

 その違いに気づいた瞬間、お富の背中を氷の指が一本、すぅと撫でた。まるで、巫女に稲荷の使いが取り憑いているかのようだ、と。

 

 ──これでは、あの女の方こそ憑き物ではないか。

 

 巫女はお富の動揺を見て取ると、ゆるりと膝の上の箱に手を添えた。箱を撫でる。まるで猫でも愛でるかのように何度も。それはあたかも、箱の機嫌を取っているようにも見えた。

 

「──お富。お前様がどうしても白状せぬと仰るなら……もう一手、披露しましょうかね。──心して、お聞きよ」

「な、なにを……」

 

 お富は言葉の意味が分からなかった。だが、巫女は両手の平で箱を包み込むと……そのまま箱を見つめて目を伏せるばかり。

 

 すると──箱の中から、また声が聞こえた気がした。

 

 いや……声、と呼ぶにはあまりに微か。木の箱の内側で風鳴りがしているような、それでいて人の喉から発される息遣いのような──。

 

「──さ、よ──」

 

 何と言っているのかは聞き取れなかった。庄左衛門にも、お美乃にも。二人にはただの木箱が軋んだ音にしか聞こえなかったのかもしれない。

 

 だが、お富には確かに聞こえた。

 

 ──お沙世。

 

 閉じた箱の中から、確かにその名を呼ぶのが。

 

 お富の体が、石のように硬直した。

 

「お、さよ……?」

 

 お富の唇がその名を繰り返す。その名を口にしたのは何年ぶりだったか。自分でも思い出せなかった。名を変え、店を渡り、徳次郎の女として生きてきた年月の中で、その名は心の一番深い場所に封じ込められていた。

 

 誰も知らぬ筈の名だった。行者も知らぬ。巫女も知らぬ。近江屋の者も当然知らぬ。──徳次郎だけが真の名を、お富の正体を知っている。だが徳次郎がそれを人に伝える筈もない。

 

 箱がまた鳴った。

 

 耳を澄ます。今度は、もう少しはっきりと。

 

「────」

 

 男の声だった。

 

 低い。掠れている。──しかし、お富の奥底に眠る記憶はその声を知っていた。

 

 ──父の声。

 

 松風屋。駿河の大店だった茶問屋の──懐かしい日々。穏やかで、不器用で、でも、あの発作の際には朝までお沙世を抱きしめ安心させてくれた。優しかった父の声。徳次郎たちに殺された……父のもの。

 

 気づいた瞬間──力が抜け、お富の肩が、がくんと落ちた。

 

「─────」

 

 その聞こえた箱の声は、お沙世だけのもの。

 

 掠れた声が小さな木蓋越しに漏れ、薄い灯明の光の中をたゆたい、そして──二度と聞こえなくなった。

 

 ──座敷は静まり返っていた。

 

 庄左衛門は箱を見、巫女を見、お富を見た。お沙世という名に心当たりはない。誰に向けた言葉なのかも分からない。──だが、お富の顔を見て、庄左衛門は言葉を失った。

 

 お富の顔から、すべてが剥がれ落ちていた。

 

 笑みの仮面も。身を焼く妄執も。道連れを願う暗い女念も。何もかも──が。

 

 残ったのは、ただ、裸の顔だった。何も纏わぬ、何の仮面も被らぬ、誰のものでもない──お沙世という名の、ただの女の顔。

 

「……父、様……」

 

 そのお沙世の目から涙が落ちた──。

 

 堪えられなかった。涙はポロポロと、五月雨のように流れ出る。際限なく。頬を伝い、顎を伝い、膝の上に落ちる。

 

 巫女はその様を見ていた。

 

 先ほどまでの底意地の悪い笑みは、そこにはなかった。代わりにあったのは、口元をへの字に曲げた少し不満げな表情。

 

「……お前様」

 

 巫女が静かに言った。先ほどまでの追い詰める声色ではない。

 

「本当の名は、お沙世と言うのだね」

 

 お富は答えなかった。答える代わりに、ゆっくりと畳に両手をついた。

 

 額を畳に押しつける。

 

 体が震えていた。声にならない嗚咽が畳を濡らした。

 

「……わたくしが……盛りました」

 

 声は掠れていた。

 

「お嬢様の茶に……菓子に。少しずつ、少しずつ……毒を……」

 

 庄左衛門が息を呑んだ。事の成り行きを静かに見守っていた仁助が目を閉じる。お美乃が父の腕の中で身を固くした。

 

 それきり、お富の声は途切れた。

 

 言葉は、もう続かなかった。お沙世という名の女には、心の底から溢れ出るものを堰き止める力も、人目を憚る余裕さえ残されてはいなかったから。

 

 巫女はお富を見下ろしたまま、暫く黙っていた。そして、今度こそ満足気に──にぃ、と口角を上げた。

 

 その笑みは──もう巫女を装う気もないのだろう。口角の上がり方も、目の光も、頬の筋肉の使い方も、すべてが演技から逸脱していた。底意地の悪い、それでいて楽しげな、満ち足りた笑み。

 

「鈴。──もうよい。これで満足しただろう」

 

 これまで黙っていた山伏装束の男が静かに言った。

 

 鈴と呼ばれた存在──巫女はしかし、すぐには答えなかった。お富を見下ろしたまま、なお満ち足りた笑みを浮かべている。

 

「もう少し見ていたいのですよ、旦那様。この女、ようやく人らしい顔をするようになりました故。どうにも苛めたくなってしまいまして──」

「鈴狐。──それまでにしておけ」

 

 声が一段低くなった。怒鳴り声ではない。だが戯れを許さぬ上位者の声色。

 

 巫女の体がぴくりと止まった。

 

 それからゆっくりと首をひねり、男を上目遣いに見上げた。口の端がほんの僅かに尖る。叱られた子供のような拗ねた顔。

 

「……そう怖いお顔をなさらないでくださいませ、旦那様」

 

 声質が変わっていた。巫女の声色を脱ぎ捨て、そこにあったのは別の声──底意地の悪さと甘えが同居する、この場では男しか知らない響き。

 

「人というものは面白いものでございますね。狐を騙る不届き者もいれば、娘を想い騙された父御もいる。そして、死者の声で名を取り戻す者も──。こうして肌で感じる情の温さは、『中』から見ているだけでは分からぬものでございました」

 

 巫女の体が、男の方へ、ゆるりと向き直ると深く頭を下げる。それから狐のように細めた目で、最後にひとつ、ニマリと余裕の笑みを深めた。

 

「──これで私の役目は一端終いにございます、旦那様。ではまた、いずれ」

「そうか……此度のこと大義であった」

「はい、勿体なきお言葉でごさいます──」

 

 言うが早いか、巫女の体が、ふっと脱力し横倒しになった。

 

 喉の奥からひゅうという長い息が漏れる。それから──ぐ、と全身が一度、弓のように仰け反った。喉が締まり、見開かれた目が白く裏返る。右手の指先が宙を掻き、稲荷の使者──鈴の身体を指差す。何かが体の内側を駆け巡ったような、短い痙攣が背筋を走った。

 

 最後にその人差し指が、ぴくりと跳ねる。何かがその指先から抜け出ていったように。

 

 巫女の体は、そのまま糸が切れたように畳に突っ伏し動かなくなった。

 

 ──ほぼ同時に。

 

 抱きかかえられていた稲荷の使者──鈴、もといお鈴が腕の中で大きく息を吸った。

 

 ひとつ。深く。

 

 お鈴の瞼が震え……ゆっくりと開かれる。

 

 寝惚け眼に徐々に光が戻る。無言のまま眉根を寄せたその表情には、当惑の色が見て取れた。

 

 お鈴が静かに周囲を見渡す──。

 

 なぜ自分は見知らぬ場所にいるのか。なぜ自分は抱きかかえられているのか。なぜ畳に巫女装束の女が突っ伏しているのか。なぜ行者が壁に背を預けて虚ろな目をしているのか。なぜ女中が伏して泣いているのか。なぜ父娘と思しき二人が唖然と自分を見ているのか──その一切がお鈴の中では繋がっていない。

 

 ──お鈴の中には、屋敷の座敷の記憶までしかなかった。

 

 客人である神谷とお絹を迎え、茶を出し、主である源一郎の後ろに控えていた、あの場の。胸の奥が黒く焦げ付いてゆくのを必死に抑えていた、あの場の。

 

 その先の記憶がない──。

 

「……あ、あの……旦那、様?」

「あぁ」

 

 いつもの控えめな、少し戸惑った調子の声に応える──男にとっては懐かしくも感じる声だった。

 

「……ここは何処にございましょうか」

「近江屋だ。──京橋の」

「近江屋……」

 

 男は安堵するように短く息を吐いた。お鈴は繰り返した。全く覚えがない。

 

「そうですか……それと、その……少し……恥ずかしゅうございます……人前で、このように抱き留められますのは……節度を保って離れてくださいませ」

「あ、あぁ……」

 

 男は少しだけ寂しそうに返した。

 

 男の腕から抜け出た後──お鈴は今一度、座敷を見渡した。白目をむいた巫女装束の女。虚ろな行者。泣き伏す女中。唖然と言葉を失う父娘。──何が起きたのか、その一切が、やはりお鈴の中では像を結ばない。

 

「……はぁ……私には、もう何が何やら……」

 

 お鈴は困り果てたように傍の主人を見た。

 

「あの……旦那様。──もしかしたら私は、何か大変なことを仕出かしてしまったのでございましょうか……」

 

 何を為したのかも知らぬまま。ただ、それだけを不安気に問う。

 

「……ああ。十分すぎるほどにな」

 

 そう言いつつも男の声に咎める色はなかった。お鈴は居心地悪そうに肩をすぼめる。その顔にはまだ、戸惑いの影が色濃く残っていたのだった。

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