山伏装束の男が頭襟を外し、鈴懸の襟を正す。
その所作で男の気配が変わった。修験者の気配が剥がれ落ち、役目を負う者の静かで揺るぎのない気配が現れる。
男はまず庄左衛門に向き直り、一礼した。
「近江屋殿。──まずは先程よりの数々の無礼、改めてお詫び申し上げる」
声の質が変わっていた。まっすぐでよく通る──武士然とした声。こちらが正道とばかりに、修験者の口ぶりはもう跡形もない。
「某、修験の者に非ず──火付盗賊改方与力、渡辺源一郎と申す」
庄左衛門が放心した目を男に向け、その名乗りに大きく目を見開いた。
「か……火盗改、ですと……!」
声が裏返り、唖然とする。座敷の片隅で、ただ巫女に付き添っているとばかり見えていた山伏が──まさか、お上の役人であったとは。
山伏が侍になった──。父の腕の中のお美乃も毒の影響で頭の芯を鈍く重くしていたが、驚いたように目を見開いて源一郎を見上げていた。
「近江屋殿。──何故、某がこのような姿で店に踏み入ったか、まずはそれを申し上げねばならぬ」
源一郎は庄左衛門の眼を見て、静かに続けた。
「この店に出入りしていた行者と巫女──あれは祈祷師に非ず。商家に取り入り、憑き物を騙って金を絞り取る詐欺盗賊の一味だ。これと同じ手口で、芝の加賀屋は身代を潰し、一家心中にまで追い込まれた」
庄左衛門の顔から血の気が引いた。
「い、一家、心中……」
「我らはこの一味を挙げるため、近江屋を見張っていた。なれど、相手は験力を語り売る者ども。表からただ踏み込んでは、口を割らず尻尾を切って逃げるが落ち。──ゆえに我らが同じ修験の装いで座敷に入り、向こうの絵図の只中で正体を引き出した次第。仁助殿に頼んで豊川稲荷の遣いを名目とさせたのも、すべてこのため」
「そ、そうでございましたか、この度は危ない所を誠に──」
庄左衛門はしばし放心したように源一郎を見ていたが、やがて深く頭を垂れた。
その時──。
店先が、再びざわついた。
先程の闖入とはまた気配が違う。奉公人の慌てる声、それに構わず踏み込んでくる幾つもの足音。土間を鳴らす草履の音が、揃って奥へと迫ってくる。
ほどなく廊下に複数の人影が並んだ。十手と捕縄を提げた火盗改の同心と岡っ引き一同。頃合いを見計らっていたかのように雪崩込んできたのだ。
座敷の空気が変わる。
「本太郎」
源一郎が一人を呼んだ。狸顔の同心が一歩前へ出る。
「あれらを引いてゆけ。役宅まで連れ帰り、御頭の沙汰を待て」
顎で示したのは畳に座り込んで動かぬ行者と、突っ伏したままの巫女。
「はっ。おい、この者達を連れて行け!」
本太郎が二、三人の岡っ引きを引き連れて座敷に踏み入った。行者は抗わなかった。縄をかけられても力の入らぬ風で、ただ虚ろな目のまま立たされた。巫女は意識のないまま岡っ引きに引き摺られるように運び出されてゆく──。
源一郎はそれを見届けてからお富の方へ向き直った。
「──お富。いや……」
源一郎は一度、言葉を切った。
「本当の名は、お沙世と言ったな」
お富──いや、お沙世の肩がびくりと跳ねた。
ずっと胸の奥に蓋をしてきた名を呼ばれた。お前はもう、お富という名の女ではないと示すかのように。
「近江屋庄左衛門が娘、お美乃に薬を盛りしことで訊ねたい事がある──御用改めに従い、神妙に縛を頂戴いたせ」
お沙世は源一郎を見上げた。もう何も言わなかった。ただ静かに両手を前へ差し出した。
「その女も役宅へ。──行者と巫女ともども引っ立ててゆけ。その者達には訊かねばならんことが山ほどある。加えて、」
「承知いたしました」
本太郎がお沙世の傍へ寄った。縄がお沙世の手首に掛かる。もう抗うことはしなかった。
「証拠の薬はすでに此方の手にある。──新たな油薬とやらも、手の者がすり替えた。薬の残りも程なく、火盗改で回収する。半端な誤魔化しは無用。一切合財、包み隠すことなく白状せよ」
源一郎のその言葉はお沙世に向けたもの。お沙世は驚いたように視線を上げたが、何も言わなかった。
そのまま、お沙世は本太郎に支えられて廊下の方へ歩き出した。しかし──襖の手前でふと立ち止まり、座敷の方を振り返る。
──お美乃がお沙世を見ていた。
お沙世がその目を見返す。そこにあるのは仄暗い笑みではない。力ない、しかし憑き物の落ちたような微かな笑みが浮かぶ。
「……ごめんなさい、家族を大事にね」
短い、ひとこと。
それ以上は何も言わずに背を向け──その姿が廊下の暗がりに消えていった。
──お沙世の足音が遠ざかるのを静かに見送ると、それから庄左衛門の方へと向き直った。
「近江屋殿」
「はい……」
「奴らの描く絵図はよく出来ていた。信心深い者ほど深く嵌まるように仕組まれてな。貴殿が娘を案じ加持祈祷に縋ったは──親として当然の流れ」
庄左衛門が顔を俯かせた。騙されていたことを心から恥じるように、その肩は小さく縮こまっていた。
「ただ──お前様が案じる先を見誤らぬよう、傍で声を上げ続けた者がいたことを忘れてはならん」
源一郎の目が座敷の隅へ向いた。つられて視線の先を追う──仁助がそこに座していた。
主と番頭の目が合った。仁助は何も言わずただ深く頭を下げた。
庄左衛門はその仁助をしばらく見ていた。やがて漏れたのは万感の込められた言葉。
「……仁助──。済まなんだ。お前はずっと儂に忠告してくれていたというのに……儂はそれを、出過ぎた口と聞き流しておった」
仁助の肩が小さく震えた。長く胸に溜めてきたものが、その一言で堰を切ったようだった。
「旦那様……いいえ、いいえ。手前こそ、口幅ったことを幾度も申し上げ……それでも旦那様のお耳に届かぬのは、手前の力が足りぬゆえと……お嬢様のことを思えば、身を挺してでも止めるべきであったやもと、夜毎、悔やんでおりました」
「いや。──お前は止めてくれていた。聞かなんだのは儂だ。あの者達にすっかり目を眩まされて、長年傍で仕えてくれたお前の言葉より、耳障りの良い言葉を信じておった。……ないがしろにしたも同じこと。済まぬ」
庄左衛門が深く頭を下げた。主が番頭に頭を下げる──奉公人たちが見れば仰天するような光景に、仁助は慌てて畳に手をついた。
「旦那様、どうかお手をお上げくださいまし……!手前は、こうしてお嬢様がご無事でいてくださる、それだけで……それだけで、もう十分にございますっ……!」
仁助の声が詰まった。目尻に滲んだものを、皺だらけの手の甲が拭った。庄左衛門もまた、何も言わずにその古参の番頭を見つめ、ただ深く頷いた。
主と番頭の間に横たわっていた見えぬ隔たりは、その夜、香の煙とともに静かに消えていった──。
「うむ──確執が晴れて何より。近江屋殿、医者を呼び、娘の容態も見て貰えよ。しかるべき手当てもな」
「はい……それはすぐにでも呼ぶつもりでございます」
庄左衛門はしばらく畳の一点を見ていた。それからゆっくりと顔を上げ、源一郎に向き直った。
「……渡辺様。不躾なことをお訊ねしてもよろしゅうございますか」
「何か」
「あの──お美乃の障りは毒のせいだったのでしょう……ですが、あの巫女に降りた『あれ』は───そちらの方の口寄せは、『本物』だったのでございましょうか」